『児童読物よ、よみがえれ』(山中恒 晶文社 1978)

小川未明のある童話

 目下<ボクラ少国民>第四部『勝利ノ日マデ』を執筆中である。第一章の「欲しがりません勝つまでは」で、大東亜戦争直後の1942年(昭和17年)当時の子ども向け児童雑誌・絵本と、敗戦前年の1944年(昭和19年)のものとでは、わずか2年間で、どれほど粗末なものになってしまったかを、紙質、ページ数、色彩数の比較をしていたところであるが、たまたま小学館発行の月刊誌『良い子の友』昭和19年7月号を見ていたら、小川未明の短編童話にめぐり合った。
 『良い子の友』はもともと、学年別雑誌『小学一年生』から『三年生』までが『国民一年生』から『三年生』に変り、更に1942年から低学年向けを合併したもので、この号には久保喬「太平洋ハマッテヰル」、井上康文「ススムダイカンタイ」、下村湖人「古賀元帥」、劉寒吉「しまをまもった人人」、山本和夫「日本男子(連載)」、大木実「ワスレナイボクタチハ」などがあり、それぞれけんめいに少国民向けに戦争PRをしている。その巻末が、未明の「ユウキチノスキナヒト」というかたかな童話なのである。

 クモガラスヲ、カシノキノエダカラ、トナリノヒサシヘカケマシタ。ソウシテジブンハ、ドコカニカクレテエモノノカカルノヲマッテヰマシタ。
『ズルイヤツダ。ヨワイムシタチノイキチヲスッテ、マルマルフトッテヰルノダラウ。ベイ・エイ(米・英)ミタイダナ』トユウキチハミアゲテヰマシタ。〔原文はわかち書き〕

 という書き出しで、トンボがクモの巣にかかるのを見て、棒でたたき落そうと塀にのぼるととなりのおじさんから「君の好きな人に会わせてあげるから、後で遊びにおいで」と声をかけられる。ユウキチは「好きな人って誰だろうな」と考えるがわからない。となりからトミコさんが迎えにきて、好きな人とは「にこにこ笑っているやさしいお兄さんよ」というのでついて行くと、となりのおじさんが「きみは大きくなったら海鷲(海軍航空兵)になりたいといったね。ここにおいでの方は勇敢な荒鷲(航空兵)だ。ソロモンで敵機を八台も撃ち墜とされた殊勲者だ。おけがをなさって内地の病院へ来ておられたが、近くまた戦地へ行かれるのだ」という。ユウキチは目のあたりに日頃尊敬する海鷲の勇士を見て目を見はり「ほんとうにこんなやさしい人が」と思う。どんなふうにやさしいかという描写はどこにもない。おじさんに「なにかきいてみたら」といわれ、

 ユウキチハ、キマリガワルカッタケレド。ユウキヲダシテ、『テキハヨワイデスカ』トキキマシタ。『バカニハデキマセンネ。ヨワイヤツモアルガ、サイゴマデタタカヒヌクヤツモヰマス』ト、ワカイユウシハコタヘマシタ。ヲジサンハ/『イッショニゴシュッセイナサッタオトモダチデ、ナクナラレタカタモアリマセウネ』トキカレマシタ。
『ハァダイブ、ヰナクナリマシタ。ワタシモコレデモウオメニカカレナイカモシレマセン』トワラッテコタヘタノデ、ユウキチハ、シヌノヲナントモオモッテヰラレナイノガ、ナンダカフツウノヒトデナイヤウナキガシマシタ。
『オニイサン、ソノアトニハ、ボクタチガツヅキマス』ト、ユウキチハサケバズニヰラレマセンデシタ。

 というのである。このなんだか普通の人でないというのは「神さまのようである」という意味なのである。
 実はこれを読んでいるうちに、未明という作家はプラグマチックなレアリストだったのかも知れないと思い始めた。というのは、当時少国民とよばれていたぼく自身、まったく、ユウキチとおなじことを考えていたからである。もちろん、ぼくがそうなるには、当時の徹底した忠君愛国思想による教育があったのだが、『オニイサン、ソノアトニハ、ボクタチガツヅキマス』と慰問文を山ほど書き続けたことは、すでに書いたとおりである。が、同時にぼくは、教科書及び未明たち児童文学者の書いた虚構の中で、虚構そのものを真実としてレアルに存在しようと奮励努力してしまったのである。おとなのいうことをすなおに信じこむということがどういうことであるか、ぼくは知らなかった。そのことをぼくはいま、ひどく無念に思っている。しかし、彼らによって作り出された虚構を虚構と見破っていたら、ぼくは存在しなかったのではないかという恐ろしさもある。とにかく、戦争について語ることがまだまだたくさんありすぎるのだ。

テキストファイル化内海幸代