『子どもの本のねがい』(山中恒 NHK出版協会 1974)

「子どもの本の大洪水」について

 さて、一九六八年、六九年と、その後も創作児童文学の出版ブームが続き、先ほど申しあげた、年間四〇〇点という、とほうもない数字を示す現在にいたりました。
 では、どうして、今日のような「子どもの本が大洪水」という現象が起きたのでしょうか?
 もちろん、雨量の関係とか、気圧の関係などという自然現象によるものではありません。そこに、なんらかの意志が働き、それがいくつかの条件をつくりあげた結果なのです。そこには、さまざまな社会事情の反映があり、出版企業一般と共通な面と、<子どもの本>の特殊性のようなものがからみあった複雑な構造があるのです。そして「子どもの本が大洪水」という現象は、目下のところ、手がつけられないほどの猛威をふるって、子どもの本にかかわりを持つすべての人を巻きこんで、なおも膨張の一途をたどっているのです。
 まわりに本の数が多いということが、あながち知的水準を示すものではありません。それだけ文化的水準が一般化するというものでもありません。それは、おとなの本であろうと、子どもの本であろうと同じです。
 私の行きつけの街の書店での話ですが、土地を売って、住居を新築した農家の主婦があらわれて、応接室に書棚を造ったので、本を三〇万円ほど「見つくろって」納品してくれるようにと依頼していったというのをきいたことがあります。なるべく豪華な造りの本で、そろいのものがいいということだったそうです。もう、かれかれ四、五年前の話ですが、内容も指定せず、見舞品や御供物の類のように、本屋に見つくろわせるという買い方にはびっくりしましたが、そこでは本は本としての本来の機能を無視され、家具同様、インテリアとしてしか考えられていないのですが、なにやら、今日の図書と読者の関係を象徴しているような気もします。
 子どもの本の問題にしても、子供の本が本来果たすべき役割とか、意義といったものは、すでにはるかかなたに追いやられて、今や、商品として、別の機能を持ち始めたのではないかと疑えるような状態なのです。
 そこで、「子どもの本が大洪水」という現象をもたらすであろうと思われる、さまざまな原因をさぐってみたいと思います。もちろん、全部が全部否定的なものではありません。
 まず第一に、ここ数年の間に、子どもの本がぜいたく品と見なされなくなってきたということです。たしかに本の値段は高くなってきていますが、生活全体の消耗文化度といったものから割り出して、不当に高価なものではなくなってきたということです。
 はやい話が、自分たちの子どものころを思い出しながら、お子さんの本箱あるいは机の上の本立てを眺めてみてください。学習参考書の類を除いて、十冊から二十冊ぐらいはあるはずです。子どものころ、家の職業に関連して本のある環境で育ったかたは別として、一般には、それだけの本を持っていたら、これはもう、ちょっとした蔵書家でした。
 私の場合など、母が本を読むことが好きで、そのお相手で本を買ってもらう機会も多かったのですが、戦争中で、買いたくても書店に本がなかったという苦い経験もあります。
 現在では、格別、子どもの本に関心があるという人でなくても子どもに本を買い与えます。ときには見当ちがいな本を買って、子どもに認識不足をなじられるという例もしばしばあるようですが、プレゼントという体裁の場合も、奥づけのなるべく新しい新刊書を選ぶというテクニックも心得ているようです。
 すぐこわれるようなおもちゃよりも、本の方が効率よく、他家の子どもに贈る場合、まず、親に好意をもたれるプレゼントだと言います。
 また、自分の子どもに買い与える場合でも、自分たちの子どものころ、読みたくても本がなかったということに対する、ひとつの取り戻しのように買う場合もあります。このような場合はもちろん、子どもから指定がないかぎり、どの本でもいきあたりばったりの買い方になります。
 また、創作児童文学の本を買う場合、きわめて素朴な活字神聖視があって、マンガよりはいいという、あまり根拠のない買い方をするむきもあります。つまり、子どもの本の購入者には違いないのですが、<子どもの本>そのものに対する考え方としては消極的なタイプです。
 これに対して、積極的なタイプとして、自分も読むという人たちです。子ども向けのテレビ番組の内容とか傾向、あるいは子ども向けマンガ雑誌に懸念を持ち、子どもにはもっとよい文化財を与えるべきだという、<子どもの本>に積極的なねがいをかける人たちです。もちろん、漠然とそうは思っていても、買って与えることで安心する人たちもいます。けれども、積極的な人たちは母親文庫とか、親子読書会というかたちで読書運動を始めています。こうした運動はかなり広範に起こり、多くの人たちが積極的に子どもの本と取組み始めています。こうした運動の大きなたかまりもかつてなかったことです。これも<子どもの本>にかかわりあう、素朴な教育運動のひとつです。
 一方、そうした学校外での子どもの本への取組みに対して、学校内でも、文学教育や読書指導が、教育運動として広範なたかまりを見せてきたということも見逃せないことです。
 文部省でも、指導要領の国語教科の中へ読書という独立した領域を設定したことも無関係ではないでしょう。もちろん、ここでは明らかに、読書が教育と完全に結びついています。また、それに見合った形で、大学の教育系のセクションに<児童文学><児童文化><読書指導>などの講座が開設されるようになり、その教材として、児童文学にかかわる人口がふえたことも、「子どもの本が大洪水」という現象にいくらか関係がありそうです。
 さて、いままであげてきた例は、いずれも受け入れ側、つまり「子どもの本が大洪水」である市場をささえている購入者側の例ですが、こうした購入者側の要求があっても、肝心の本を出す側がその気にならなければ一冊の本も出版されません。
 けれども、現実にいま「子どもの本が大洪水」であることは、子どもの本を出版するという事業が、一応、商売として成り立ち、それぞれの差はあるにせよ、採算がとれているということです。
 いまさら申すまでもありませんが、商売というものが、理念とか使命感といった精神的なものだけで成り立つものではありません。「損を覚悟で・・・・・・」などというキャッチフレーズもありますが、とにかく、率のよしあしはあれ、そこに利潤を生む素地がなければ商売は成立しないということは言うまでもありません。
 かりに、どれほど優れた内容を持った本を出版しようと、それが購入者側の購買意欲をそそらないものであれば売れませんし、そうしたことのくり返しであれば、返本の山がふえるだけで、出版社の経営は成り立ちません。購入者の嗜好や、流行というようなものがあり、よいと思われるものが必ず売れるという保証はないのですから・・・・・・。
 敗戦後の一時期、多くの人が出版物に飢えていて、印刷してあるものならなんでも売れたという話がありますが、現在はそんな時代ではありません。おとな、子どものけじめなく、多数の情報が取り巻いている時代なのです。その上に、子どもの本というのは前にも述べましたように、一般書と違って、大変手がかかり、コストが割高になっていますので、一般書なみの利潤はあげにくいというようなことがいわれているのです。
 にもかかわらず「子どもの本が大洪水」だというのです。商売として成り立ち、市場をささえているというのです。いままであげたさまざまな理由からだけで、こうした現象になったとはとても信じられません。
 ある読書運動団体の役員が、自分の組織で推薦図書にすれば、三千部とか五千部とかは確実に売れると言ったそうですが、この「子どもの本が大洪水」という状況は、そんななまやさしいものではありません。もっと、たしかで強力な原因があるように思われます。

 もう一度ふり返ってみますが、私が三点の著書を出して話題をよんだとき、一応、創作児童文学の刊行で名の知られていた出版社はわずかに四社にすぎませんでした。それも現在のように「A社児童文学選書集全○巻」とか「B社現代児童文学全集全○巻」といったような、シリーズものにセットするほどの量ではなく、不定期刊行で、三社のうち、たまたま一社だけが読者の年齢段階(グレードと言います)に合わせて二つのシリーズを刊行していたにすぎません。
 それが現在では、創作児童文学書を手がける出版社はざっと見回しただけで、三十社を超えているのです。しかも、各社がそれぞれ何本立てかでシリーズものを出版し続けているのですから、「子どもの本が大洪水」だといわれるのも無理はありません。
 もともと児童文学書は一般書と違って、そんなに売れるものではありません。ふつう、初版はせいぜい四千部から八千部というところです。多少、物価の変動が激しくなり始めた時点で、一万部という数字が出てきました。それも比較的最近の話です。
 しかし、四千部ないし八千部の初版を売り切るにはかなりの日数が必要です。また、初版が売り切れ、版を重ねて増刷される場合でも、まず、ふつうには考えられないことなのです。
 ところが、その例外として、比較的短期間に数万部から数十万部の売れゆきを示す児童文学書があるとすれば、子どもの本にかかわりを持つものとしては関心がないといったらうそになるでしょう。それが最近、各方面で議論をよびはじめた<課題図書>とよばれるものです。
テキストファイル化八木のり子