『子どもの本のねがい』(山中恒 NHK出版協会 1974)

「書ヲ読ム即チ学」という考え方

前章で「子どもの本が大洪水」であるという実情と、それをささえるさまざまな理由について、大まかなところを考えてまいりました。そして、それほどに、「子どもの本が大洪水」であるにもかかわらず、PTAなどの集会に招かれていきますと、必ず「うちの子どもは、ちっとも本を読んでくれません」と嘆く、多くのお母さんたちと出会うことになります。
 ある集会で、たまたま、本ばかり読んでいて困るという子どもの話が出ました。その子どもの読書は、児童文学の本から始められたのですが、いまでは児童文学の本など見向きもしなくなり、おとなの本を手あたりしだいに読み、かなり怪しいムードのものまで開拓し始めているというのです。その報告をしたお母さんに対して、同席した人たちは、「ぜいたくな心配だ」と言い、「どうしたら、そんなふうに本好きな子どもになるか知りたい
ものだ」という人まで出てきました。
 同じように、ある図書館の主催で行われた集まりでも、やはり、本ばかり読んでいて外へ出て運動しないためか、肥満児になってしまったという話が出ました。私はそのとき、「子どもを肥満児にしてしまったのは、お母さんの責任であって、それを読書のせいにするなんてズルイ!」と言ったのですが、そのときも参会者のなかには、そういう本好きの子どもの、つめの垢を煎じて飲ませたいほどだという感想を述べる人もいました。
 もちろん、母親というものは、読書にかぎらず、子どものすべてに対して心配するもので、本を読めば読んだで心配し、本を読まなければ読まないで、これまた心配の種になるということもわかります。
 それにしても、子どもが本を読まないことを心配するお母さんの数は多く、その深刻度もかなりなものです。正直なところ、子どもの読書に対して、一体だれがこれほどまでにお母さんたちをおびえさせてしまったのかと、腹立たしくなるぐらいです。
 私は子どもが本を読まないことについて、お母さんたちが心配するのは見当違いだとか、よけいなお世話だなどとは毛頭思ってもおりません。ところがこうまで「本を読まない、本を読まない」と騒ぎたてられると、かえって、本を読む子どもは異常なのかなと思いたくなるぐらいです。こうまで神経質に、「読書、読書」ということで、かえって子どもが読書を敬遠するようになるという、逆効果になっているのではないかとさえ思いたくもなります。
 一体、子どもが本を読まないと、どんなことになってしまうと言うのでしょうか?
 ある読書運動家が、子どもの読書について、<・・・読書は人間の思考力を錬磨する大事な営みである。その思考力を欠いた青少年がどんな人間に成長していくか。連合赤軍の例をとるまでもなく、あい継ぐ学生、青少年の事件で、われわれは、すでに、いやというほど思い知らされているはずである>と書いていますが、なにやら、本を読まない子どもは連合赤軍になってしまうゾウと、いわれているみたいで、母親向けのおどしだとしたら、これはなかなか効き目がありそうです。
「読書は人間の思考力を錬磨するだいじな営みである」と述べていますが、読書にはそうした一面があることは認めます。けれども、読書を頭から「思考力の錬磨」のための手段と決めてかかっているような言い方には全面的に同意できません。また、人間の思考力はなにも読書だけで錬磨されるものでもありません。たしかに読書という行為には思考力が要求されます。単純な言い方をすれば、文字によって書かれていることを理解
しようとせずに、読書という行為はなりたたないからです。
 私の長男が三歳ぐらいのころ、私の書棚から本を持ち出しては、「読める」と主張するので、彼の読書ぶりを拝聴することにいたしました。ページをひろげた彼はいたって大まじめで、活字のひとつひとつを丹念に指で示しながら、大声で「字の字の字の字の・・・」といつ果てるともなく執拗にくり返すのです。さすがに私も根負けして逃げ出してしまったことがありますが、たしかに彼が指でさしていたものは「字」に違いないのですが、それは「字」とよばれる記号を「字」とよんでいるので、これは読むという行為ではありません。「字」をみて「字」と言ったのです。つまり読書というのは、「字をみる」ということではく「字を読む」という行為を基本にして、字が構成する文章の内容を読みとることなのです。だからといって、その作業の訓練のために本を読むということであれば、その行為は読書ではなく、「学習」または「訓練」であって、くり返し教科書の文章を読むことと同じなのです。
 このことと関連があるのですが、ある公開講座に参加した私は、その場のふんい気が先ほどの文章ではありませんが、<思考力の錬磨>のための読書のあり方という点にばかり集中しているのに、いささかうんざりして、「子どもに楽しくない読書なんか無理にさせることはないと思います」
と発言しました。そのときの私の発言は、「なぜそうなのか」あるいは「これこれだから」という、そこへ行くまでの理由を説明しない、ちょっと不親切で、荒っぽい言い方だったせいもあって、一瞬、座がしらけてしまいました。
 すると、色をなしたかなりの年輩の聴講者のかたに、「それは子どもを甘やかすことで、児童文学の創作をしている作家の発言とも思えません」と、かみつかれてしまいました。私はそこで弁解せず、その発言者に、「なぜそのように思いますか」と理由をたずねてみました。そして、その言いぶんをきいているうちに、読書一般に対する考え方が、私とはかなり違っていることを知らされました。
 その意見を要約してみますと、
「昔から、『書ヲ読ム即チ学』といわれているように、いいかげんな気持で、娯楽のために本を読むなどということはもってのほかである」ということなのですが、その発言者は大変に博学な人で、いろいろな人の文章の一節を引用して述べられました。ところが、その意見をきいているうちに、若い聴講者がくすくす笑い出してしまい、私は私で、その笑ったひとたちをたしなめなくてはならなくなり、なんとも、変な思いをしたことがあります。
 また、それほど極端でなくても、戦前の教育を受けた人たちの中には、読書という行為に対して「書ヲ読ム即チ学」という考え方が牢固として抜きがたく根づいているようです。ですから、子どもの読書に対しても、「姿勢を正して読まねばならない。ねそべって読むなどもってのほか」「本は乱暴に扱ってはならない、汚してはいけない」「読みっぱなしにしてはいけない。読みかけた本は、途中でほうり出してはいけない。最後まで読み通さなければいけない」などといった、めっぽうやかましい形式的な禁止事項がついてしまうのです。
 また、「書ヲ読ム即チ学」ほどではないにしても、「教科書は主食で、普通の読書は副食」などと言う人もいます。これは比較的、学校の先生がたに多い発言です。子どもの成長を学校教育の効果の面だけで考えようとするなら、こういう言いかたも成り立つでしょう。けれども、このような考え方は、結局のところ、「普通の読書もまた学習」という結論を引き出すことになり、読書もまた、一般学習と同じように、おとなの側から「勉めて強いられる」ものになってしまうのです。そのために、「本を読んだからには、読みっぱなしにさせてはいけない。きちんと読後処理をする習慣をつけさせなければいけない」などということになって、集団読書をさせたり、感想文を書かせたり、感想を討論し合って、再度客観的に学習させることが望ましい、といったような、ややこしいことになってしまうのです。
 もちろん、おおぜいの子どもの中には、感想文を書くことの好きな子どももいるでしょうし、おおぜいの前で、堂々と感想を述べることの得意な子どももいるでしょう。だからといって、そういう子どもの読書が好ましいとは言いきれないような気がするのです。
 前に述べましたが、そうしたことのために読書をするのであれば、すでに「読書」は独立した行為ではなく、なにかの目的に対して、従属した手段にしか見なされなくなってしまいますし、そのためにやかましい条件がつけられてしまうのです。かりに、もし「読書」というものが、そういうものであったとしたら、感想文を書くことや、おおぜいの前で発言することが不得手である子どもにとっては、読書は最初から懲罰が待ち受けている、難行苦行になってしまうでしょう。〈本ヲ読ンデシマッタ罰ニ感想文ヲ書カサレル〉といわれているのは、そのあたりのことを皮肉っているのです。

テキストファイル化山児明代