『子どもの本のねがい』(山中恒 NHK出版協会 1974)

 おとなに好かれる〈テーマ主義〉
 
 さて、いままでのところを整理する意味で、単純な設問から始めてみようと思います。

(問)子どもが本を読むのと読まないのとでは、どちらがいいか?
(答)多分、読まないよりは、読んだほうがいいでしょう。

 なにやら、ひところ流行したテレビのコマーシャルの文句みたいな具合になってしまいましたが、これに、「かならず読まなければならないものである」という決定的な回答を引き出すほどの強い根拠は現在のところ見当たりません。それに、前にも述べましたように、子どものころ読書の習慣がなかったからといって、成人しても読書しないということは言いきれませんし、その逆の場合もあり得ると思います。

(問)では、どうして本を読んだほうがいいのか?
(答)本に書かれているさまざまな世界や人生を、読書という行為を通じて体験することができると思われるから。

 あえて、「思われるから」としたのは、どの子どもの本も、必ずしも、それに見合っているといいきれない面もあるからです。読み手の興味がはぐらかされてしまったり、読み手の心情といちじるしく距たりがあったりしますと、読み手は体験を拒否します。普通に言う、つまらなくなって読みたくなくなったり、わけがわからなくなったり……、このことについては、まだ、別のところでくわしく述べてみたいと思います。

(問)その読書を通じての体験には、一体どのような意味があるのか?
(答)未知のものを体験する驚き、興味を満たす喜び、楽しみといったことにより、読み手の想像力や情緒が刺激されて、情感が豊かになるであろうと思われるから。

 もちろん、読書にかぎらず、テレビなどの映像によって、視覚に直接に訴えてくるものでも、それと同じ効果をあげることができるものも少なくないと思います。けれども、その場合は大変直接的です。それだけに受け手の想像も見た目にかぎられてきます。そういうものを乗り越えて、その作品の思想に迫るということは、それなりにかなり訓練のいるものだろうと思います。もちろん、〈映像〉というものについては、そう簡単に論じきれるものではありません。けれども、そうしたことを考えずに、ただ見ているという状態であっても、一応のものを受けとることができます。
 ところが、読書の場合は、「活字(文字)という媒体で構成された論理を通過する過程で読み手の想像が要求される」と言います。ひらたく言えば、前に述べました幼児の例のように、活字を活字として「字の字の字の字……」とだけ眺めていたのでは、そこにどのような世界が、あるいは人生が描かれているのかわからないということです。そこでは、文字によって構成された文章表現を読み取るという、緊張した作業が必要になってきます。実はその緊張がめんどうくさいから、本を読みたくないという子どもが意外に多いのです。「本は読まなくちゃならないけど、テレビやマンガは見るだけでいい」という子どもが多いのです。たしかに、「読み手の想像を要求する」というのは、字面から見ると、なにやら面倒な作業のようにみえます。けれども、文字によって表現された意味を理解するということは、それほど厄介きわまる難事業ではありません。文字というものがまるで読めないのなら別ですが、文字が読めて文章の理論がわかればすむことです。
 ですから、再三言うようですが、子どもが読書を敬遠したがっているというのは、むしろ、読書を大げさに考える周囲に敏感に反応して、なんとなく読書をおっくうなものとして、食わずぎらいの横着をきめこんでいるという部分も少なくないのです。その証拠に、たまたまめぐり会った本がきっかけとなって、猛然と読書を始めたという子どもの例がたくさんあります。
 そして、いったん、読書の味を知ると、読み手の想像しだいでその想像の世界は広がり、現実性を帯び、読み手は物語の中の主人公と一体になり、物語の世界の中を自由にはばたくこととなります。そうなったら、こんな楽しいものはありません。おどかすわけではありませんが、粗雑につくられたテレビ映画など見向きもしなくなるでしょう。また、読書の最中に、へたに用事を言いつけたりしたら、それこそ、大変な恨みを買うことになるかも知れません。そして、次から次へと、読書の楽しみを求めて、欲求がエスカレートしていくでしょう。
 これは理屈ではありません。本を読む楽しみというのは、多分に麻薬の魅力にも似た性質のものなのです。そのところを、〈作中の人物の行動を客観的にとらえ、行動の善悪などの批判をしたり……〉などと言う人もいますが、読書に〈学習〉という衣裳を着せるためには、多分、そういうあらたまった顔つきをしなければならなくなるのでしょう。ですから、理屈として、効果だとか目的だとかについて教育的な意義を並べ立てるよりも、

(問)なぜ本を読んだほうがいいか。
(答)本を読むことは楽しいから。

と、単純に言いきりたいと思うのです。そのためにも、子どもに訓育的効果を期待する読書を要求するのではなく、単純に読書の楽しさを知らせるほうが、子どもを読書へ近づけることになると思うのです。したがって、その対象となる子どもの本も訓育的効果を期待して書かれた傾向のものより、子どもを楽しませることに力点をおいて書かれた本の方が好ましいのではないでしょうか。
 ところが、多くの児童文学者や児童文学評論家、読書運動家、読書指導家は、そういう子どもを楽しませる性質のものは、きわめて無思想で、子どもにおもねる作品であって、芸術的に低い次元のものだと考えているようです。
 子どもを楽しませたり、おもしろがらせたりすることが、どうして子どもにおもねることになるのか、私にはそのへんのところがよくわかりません。よしんば、おもねたとして、それがどれほど重大な害悪をおよぼすというのかも私にはよくわかりません。
 そうした児童文学関係者たちの書評や、ブック・リストの解説などのようなものを見ますと、こういった〈訓育派〉がほぼ主流になっていることがわかります。たとえば、そういう人たちの文章に、比較的頻繁に出てくる言い回しは次のようなものです。
「おもしろいことはおもしろいが、思想的内容にとぼしい」
「作風は生硬であるが、今日的主題に取り組んだ積極性を買う」
「子どもの興味心に挑戦した意欲は買うが、今日的問題意識に乏しい」
「既成の観念にめくらまされて、変革の意欲に欠ける」
 書評や解説文のほとんどが、あらすじの説明と、最後につけるこれらのきまった言い回しで間に合ってしまっているのですが、そういう文章の書き手の言わんとするところは、やはり、〈思想性〉〈今日的主題〉〈今日的問題意識〉〈変革の意欲〉といったものを、子どもに学ばせることを主眼にした作品のほうが、優れていると言うことでしょう。
 そうした書評者や解説者にとって、よい児童文学作品とは、〈戦争を憎み平和を愛する心〉〈人間の尊厳を否定する公害を憎む心〉〈開発を建前として自然破壊を強行する資本の論理を憎む心〉〈団結による力を信じる心〉〈明かるい未来へかける希望〉
といったような社会問題がテーマに選ばれているものです。
 私は児童文学作品がそういう社会問題に取り組むことに不賛成なのではありません。こういう問題は今日、私たちの日常生活を取り巻くものとして、避けて通れるものではありませんし、さまざまな形で語られて当然のことであり、また語られるべき問題でもあると考えます。また、それとは別に作家が創作にのぞむ際、どのようなテーマを設定しようと、そのことで非難されることはありません。
 また、戦争や平和、公害問題などは、だれが考えても〈戦争を憎み平和を愛する心〉や〈人間の尊厳を否定する公害を憎む心〉と言うに当然のことでもあるし、ある意味では決まりきったことでしょう。もっとも、世界中の人間がすべてそう思っていたら、国際紛争も公害も根絶できるはずですが、そうならない矛盾がどこかにあるわけです。それだけに、こうしたものを作品の主題にすえるということはそれ相当の覚悟が必要です。通りいっぺんのことで済ますことができないほど、大きな問題なのです。同じように〈団結の力を信じる心〉にしても、なんでも団結しさえすればいいというものではないでしょう。団結の
質の問題もありますし、当然、そこに「組織論」といったものもかかわってきますし、なにに向かって団結の力を発揮するのかといった、「政治論」も検討されなければならないでしょう。また、〈明かるい未来へかける希望〉が持てたら、こんなすばらしいことはないでしょう。
 つまり、こういったテーマは、きわめてスローガンとしては通りがよいのですが、それ自体、きわめて政治的な問題でもあるのです。それだけに、ともすれば、スローガンとしての理念だけがむき出しになってしまったり、スローガンの解説だけになってしまう危険性がないわけではありません。だから、こういうテーマは避けるべきであるとは思いません。さまざまな形で挑戦されるべきテーマであるとさえ考えます。もっと気張った言い方をすれば、人類にとって永遠の願望なのですから、すべての作品は、そちらを向いて書かれてしかるべきであろうと考えます。「向いて」と言ったのは、そのものずばりに、そのスローガンを作品の中でわめきちらせという意味ではありません。
そして、それが児童文学として、どれほど子どもの心をとらえ、その魂をふるわせる作品として創作されるかは別問題です。
 というのは、やみくもにスローガンだけを押しつけ、結論のすでに決まった論理のパターン(型)のくり返しであったら、子どもは受けつけなくなるでしょう。それぐらいなら、いっそ、子ども向けのそういう論文を書くべきです。もちろん、それを児童文学とよべるかどうかは別問題ですが……。
 どんなに崇高な論理であろうと、そういったテーマが売りものになって、登場人物に血のかよっていない物語を、論理の崇高さゆえに押しつけても子どもは苦痛を味わうだけです。ところが〈訓育〉ということにとどまろうとすれば、その作品が他の作品にくらべt、どれほど子どもの心をとらえたか、魂をふるわせることができたかということよりも、テーマが明瞭であり、かつ、自分たちの政治活動理念に一致するというだけで、それを絶讃してしまうということにもなります。先ほどあげた、書評の言い回しのパターンを、もう一度思い返してみてください。なにやら、子どもにおもしろがられる作品に対して、敵意を抱いているみたいな気がしませんか。また、子どもにおもしろがられる作品には〈思想性〉も〈今日的問題意識〉も〈変革の意欲〉もないと決めつけているみたいです。意地悪く、ひとつひっくり返して逆な言い方をしますと「子どもは〈思想性〉や今日的問題意識〉や〈変革の意欲〉のないものをおもしろがる」と言っているみたいではありませんか。これはひどく子どもをばかにした言い方だと思います。
 これを〈テーマ主義〉と言います。

テキストファイル化山児明代