金原瑞人のあとがき大全(1)

さよならピンコー
コリン・シール:作
ぬぷん児童図書出版 1986 絶版

           
         
         
         
         
         
         
    
☆訳者あとがき

 
 ピンコー。かわいいやつでしょう。

 そのころには、ピンコーは、もう、すっかりなついていて、家も白い垣根も自分のものだといわんばかりにふるまっていた。ドアがあいていると、よたよた、なかにはいりこみ、パイパー先生が居間でお客と一杯やっているところに顔をだした。ピンコーは先生たちをじろじろみると、つぎは、ベッドルームと台所を視察し、それから、洗濯機のある部屋をちらりとのぞいて、なにくわぬ顔でうら庭にもどるのだった。
映画なんかにでてくる動物やペットとちがって、ちっとも人間にこびない。そう、考えてみれば、なまいきなやつなんです。パイパー先生のうら庭をかりて家族で住んでいるというのに、わがもの顔でくらしている。そこがよけいにかわいい。だから、カースチもティムもパイパー先生もピンコーがすきですきでたまらないのです。
 動物と人間との関係というのは、こんなのが理想なのかもしれません。
 コリン・シールはオーストラリアの作家で、この本のほかにも、海を舞台にした小説や鳥をあつかった小説をいくつか書いています。『青いひれ』(ぬぷん図書出版刊)はマグロ漁の話ですし、『(原題)Storm Boy』はペリカンと少年の話です。(『Storm Boy』は映画にもなったそうです。)でも、『さよならピンコー』という小説は、これらの小説とはちょっとちがっているような気がします。
 この小説はたしかに、かわいいかわいいピンコーと人間たちとの心あたたまる物語なのですが、それだけではないのです。
 パイパー先生がこんなことをいいます。「人間というのは、ひどいことをするもんだ。」 なにがひどいことなのか、この本を読んだかたはすぐにわかるでしょう。
 ぼくたち人間は、むかしにくらべるとはるかに便利で快適な生活をしています。石炭や石油や原子力を利用しているおかげです。でも、石炭を燃やすと毒性の煙がでます。石油が海に流れれば、たくさんの魚や海鳥やプランクトンが死んでしまいます。放射能がもれたりすれば、もうこれはたいへんです。人間は自分たちのやったことですから、あきらめもつくでしょう。でも動物や鳥はどうでしょう。自分たちのせいでもないのに、病気になったり死んだりしなくてはならないのです。
 つまり、ぼくたちのいまの便利で快適な生活は、動物や鳥やあらゆる生物のぎせいの上になりたっているのです。そのいい例が公害でしょう。公害というと、人間にたいする害がまず頭にうかびますが、これも自分勝手な話で、いちばん被害をうけているのはほかの生物たちです。人間ももちろん被害をうけてはいますが、人間は便利で快適な生活を楽しんでいる本人なのです。
 ひどいじゃないか、地球は人間だけのものじゃないぞ。パイパー先生は、こういっているのです。そして、これは作者のいいたいことでもあります。
 もちろん、ぼくたち人間は、いますぐに石炭や石油や原子力をすててしまうわけにはいかないでしょう。しかし、だからといって、このままほかの生物を殺しながら、自分たちだけ便利で快適な生活をつづけていていいのでしょうか。この本は、そんなことをうったえているようです。
 もちろん、作者は、大声でそんなことをどなったりしてはいません。ただパイパー先生の口をかりて、「人間というのは、ひどいことをするもんだ。」と低い声でつぶやくだけです。
 しかし、コビトペンギンのピンコーを、かわいくかわいくえがくことによって、作者のいいたいことは読者の心に、ずしんと重くひびくのではないでしょうか。
 この小説の校正をしている最中に、ソビエトで原子炉が爆発しました。また国内でも、知床の原生林の木が数百本も切り倒されそうですし、逗子にある関東ゆい一の大きな原生林がなくなってしまいそうです。たくさんの鳥や動物が死に、また死につつあります。
(一部、章割りが原文とちがっているところがあることを、お断りしておきます。)
   『さよならピンコー』(コリン・シール作 ぬぷん児童図書出版)



 金原瑞人という名前で出した最初の訳書が、『さよならピンコー』(じつは、それ以前に数冊、ハーレクインを訳したことがあるが、そのときはペンネーム) いやあ、なつかしい。たしか八六年の発行だったと思う。十五年前。大学院の博士課程を修了して(正確にいうと「単位取得満期退学」)、あちこちの大学で非常勤講師を務めていた頃だ。出版社は昨年倒産した「ぬぷん児童図書出版」。なぜ、ぬぷんから訳書を出版することができたかというと、当時そこの選本や翻訳を担当していた犬飼和雄先生が、「訳してみないか」といってくださったから……なのだが、そこへいくまでにはかなり長い話がある。
 一九七八年、つまり大学四年生の十一月、いくつかの出版社を落ちて、卒業後どうするかという決断に迫られた。そこでカレー屋をやることにした。その頃東京にきていた妹と妹の彼氏(わが高校の同級生で、現在、わが弟になっている)を巻きこんで、屋台のカレー屋をやることにしたのだ。そして一ヶ月ほどカレーばかり作っていた……ところ、大学で卒論の指導教授だった犬飼先生とばったり会ってしまい、「やあ、金原君、就職はどうなったね」ときかれ、「全部だめだったので、カレー屋をやります」と答えたところ、「カレー屋はいつでもできるから、大学院にこないか」と誘われてしまった。恥ずかしながら、当時は大学院がなんのためのものかちっとも知らなかった。いや、そもそも法政大学に大学院があることさえ知らなかった。
「大学院て、何をするところですか?」
「週に二日ほど授業を受けて、あとは本を読んでいればいいんだよ。授業といっても学部の授業に毛が生えたようなものだし、奨学金ももらえるんじゃないか」
「え、こんな就職難の時代に(当時はオイルショックのあおりでかなりの就職難だった)、そんなおいしい話があるんですか」
「ああ、おいしい話なんて、どこにでも転がっているよ」
 という双方まったくいいかげんなやりとりがあって、親に電話して相談してみたら、「ああ、いいんじゃないか」という返事がかえってきた。どうやら親のほうも大学院がどういうところなのかあまりよく知らなかったらしい。そんなわけで、次の年の三月の試験に受かって、めでたく大学院に進学することになった。
 それから犬飼先生のところで翻訳の勉強会に参加することになり、やがて訳書を出すようになるのだが、そのへんのことはまた次回。

 ところで、オーストラリアの児童文学作家コリン・シールはとてもオーソドックスな作品を書く人で、テーマや視点や手法に新しいものはないが、ストレートな語り口と骨太な構成はとても魅力的で、それは『さよならピンコー』や『青いひれ』といった作品によく表れている。しかし何より印象的なのは、その自然描写のうまさだろう。

「十月の朝の空は、きれいに晴れあがっていた。湾は一枚のガラスのようで、カーブをえがいてどこまでもつづく砂浜は、明るく金色に輝いていた。その砂浜と海がふれあってつくりだすカーブが、鎌の形ににているので、この湾ぞいの町にはシックルベイという名前がついていた。シックルというのは鎌という意味で、ベイというのは湾という意味だ。おまけに湾のはしに細長くつきだしている岩だなは、鎌の柄のようにみえた。波うちぎわのぬれた砂は、太陽の光できらきら輝き、まるで、とぎすまされた鎌の刃のようだった。カースチとティムは、さん橋のまえをとおった。ちょうどさん橋からでた漁船が、ぽんぽんと軽い音をたてて、湾から外海にむかうところだった。小さな波をたてながら進む漁船は、鏡の海をわっていく矢じりのようにみえた」

 それと激しいアクションを描くうまさ。たとえば、この本のなかでは津波でタンカーがまっぷたつに折れるところとか。また『Seashores and Shadows』という作品のサメ狩りの描写もすごい。体長六メートルもあろうかという巨大なサメとの数時間にわたる闘い、そしてなんとか舷側まで引きよせ、銛をうちこもうとした瞬間にサメが体をひるがえし、トローリングの釣り針をはずして海のなかにもぐっていくところ……とにかくうまい。そして二度目の追跡では、船の後部甲板にとりつけた椅子にしっかり体を固定させてトローリングを行うのだが、椅子を止めているボルトのゆるみのために、椅子ごと海中に引っ張りこまれる。この場面も印象的だ。
 『さよならピンコー』や『青いひれ』など、翻訳されているものしか読んでいないと、こういった特徴を見落としがちなのだが、コリン・シールは冒険小説としての面白さを十分にたんのうさせてくれる作家なのだ。それプラス、ヒューマニスティックな物語の展開。いってみれば、冒険好きでロマンチックなヒューマニスト。それがたまに作品の甘さにつながることもあるが、あと何作か日本に紹介されてもいいんじゃないかと思う。
 ともあれ、ぬぷんが倒産したために、この二冊はもう入手できなくなってしまった。手元にも数冊を残すのみ。古本屋でさがさなくちゃ。(金原瑞人