あとがき大全 6


           
         
         
         
         
         
         
    
一 翻訳について(一人称+終助詞)
 英語の一人称と日本語の一人称の(悩ましい)違いについては前回で終わりにするつもりだったのだが、また面白い事件があったので、ちょっと紹介しておこう。
 じつは数年前から六人ほどのグループで、英語のすぐれた短編をさがしてきては訳すという勉強会を開いている。おそらく来年くらいにはアンソロジーが二冊ほどできあがる……予定。この勉強会で圷さんが「Grandma's Tales」という短編を見つけてきてくれた。作者はヴェトナム系アメリカ人作家のアンドルー・ラム。どういう話かというと、母さんと父さんがラスヴェガスに遊びにいった次の日、おばあちゃんが死んでしまって、留守番をしていたふたりの子どもは仕方なくおばちゃんを冷凍庫に入れて両親の帰りを待つことにする……のだが、なんと冷凍したはずのおばあちゃんが生き返ってきて、それも英語はぺらぺらになって、行動力も実行力も数倍になって、九十四歳だったのに五十四歳くらいにしか見えなくて、パーティに出掛けるとか言い出して……とまあ、こんな調子。
 この作品でおかしいのは、おばあちゃんに引きずり回されるふたりの子ども。といってもすでに姉のナンシーは彼氏もいるし、語り手の「I」も高校一年生で、一年上のエリックというボーイフレンドがいる。問題はこの語り手。「映画はともかく、エリックに会いたかった。あの瞳、青いことといったら、思わず飲みこまれてそこで泳げそうなくらい。胸が熱くなるような笑顔。とにかくかっこいい」といっているのだが、そのうち「I'm bisexual.」というフレーズが出てくる。おいおい、ちょっと待った。おまえは男なのか、それとも女なのか?
 勉強会のメンバーのひとり圷さんは、語り手をきっちり「男」として訳してくれた。この短編のなかでその手がかりになるのは一箇所だけ。次の部分だ。
「ぼくたちがキスより過激な行為に進んでも、やっぱりおばあちゃんは気にしなかった。もう産婆役はたくさんだから、赤ん坊だけはできないようにしなさいよ、とかいっちゃって――もちろん冗談だけど」
 そうそう、ヴェトナムで戦争をはじめ過酷な運命に翻弄されてきたおばあちゃんにとって、バイであろうがストレートであろうがゲイであろうが、そんなことはささいな違いにすぎない……それはともかく、引用の部分を読み飛ばしてしまうと、この作品はまるっきり死んでしまう。というか、面白さが半減してしまうはず。
 そこでこの短編をコピーして、大学院の学生に要約を書かせてみた。ビンゴ! 語り手を女の子にしている学生がほとんど。もっともひとりだけ、こちらの意図に気づいて、語り手を表に出さずにストーリーをまとめた学生もいて、これには一本取られてしまったが。
 普通の読者は、ナンシーという姉がいて、エリックというボーイフレンドがいるという段階で、この語り手は女の子だろうと思ってしまう。そしてさっきの部分を読み飛ばしてしまうと、最後までそのままいってしまう。これはもちろん日本人に限らない。英語を母語とする人々だって、自分の間違いに気づかずそのまま最後まで語り手が女の子だと思って読み進めることもあるにちがいない。
 ということは、やっぱりこの短編、語り手が男か女かわからないように、主語を省いた一人称で訳すべきなのだろうか……圷さんに相談してみよう。
 という具合に、とにかく英語と日本語、一人称をめぐる葛藤は永遠に続くのである。というか、たとえば英語翻訳ソフトとか優秀なものがかなり出回っているけど、この一人称の問題すら解決できていない。言葉と言葉の障壁を機械がどこまで取り除いてくれるのか、前途多難であることは間違いない……といったからといって、翻訳ソフトを馬鹿にしているわけではない。いやいや、とんでもない。できることなら近いうちに、抜群に賢い翻訳ソフトが登場して、多くのすぐれた翻訳者の技を駆使して、誤訳の少ない、原文にふさわしい日本語にしてくれる日の来ることを心待ちにしている。ついでに、これまでの日本の作家の文体もマスターして、「あ、このマイクルの言葉は、三島の『春の雪』に登場する清顕の口調にして、ジェインの言葉は、古井由吉の『杳子』の主人公杳子の口調にして、それから地の文は村上春樹の『風の歌を聴け』の文体にして」……といった注文にも応えられるようにしてほしい。そうなれば、みんなが色んなふうに英語の作品を日本語で楽しめるわけで、本好きにとってはたまらないと思う。もちろん、そのソフトには自分の口調、自分の文体というのも入れておく。ついでに大好きな彼・彼女の口調も入れよう。
 そんなのはとうてい無理と考える人もいるかもしれないが、もう十年以上前に、写真をスキャナーで取り込んで、それをゴッホ風の絵にするとか、セザンヌ風の絵にするとかといったソフトはできているわけで、翻訳家がいらなくなる時代は意外と近いのかもしれない。

 さて、一人称の話はいったん打ち止めとして、次に終助詞の話に移りたい。この終助詞というのもやっかいな存在である。なぜなら、欧米の言語には存在しないから。中国語にも存在しない。しかしこれを使わないで会話を訳すことは不可能なのだ。
「帽子についている綿帽子、とてもかわいいね」
「帽子についている綿帽子、とてもかわいいねぇ」
「帽子についている綿帽子、とてもかわいいな」
「帽子についている綿帽子、とてもかわいいぞ」
「帽子についている綿帽子、とてもかわいいじゃん」
「帽子についている綿帽子、とてもかわいいじゃねえか」
 例を挙げればきりがないのでこのへんでやめておくが、とにかく、日本語の終助詞というやつは多彩で、便利で、会話の文章に微妙な、そしてときには決定的な色合いを添えてくれる。この優れものが、たまに翻訳の足を引っぱることがある。
 バベット・コールの『つるつるしわしわ:としをとるおはなし:つるつるしわしわの1さいから つるつるしわしわの80さいになるまで』(ほるぷ出版社)という絵本がその典型的な一例。
 見るからに意地の悪そうな孫がふたり、「おじいちゃんも おばあちゃんも どうして そんなに つるつるで しわしわなの」と聞くところから、この絵本は始まる。おじいちゃんもおばあちゃんも、そんな孫たちにはちっとも負けてなくて、待ってましたとばかりに、「あかんぼうのときも つるつるで しわしわだった」と、自分たちの生い立ちを語る。波瀾万丈の少年少女時代を経て、科学者をめざすが、ふたりとも夢を断念して、映画の世界に、そして結婚。それから息子が生まれるのだが、これがまたアドヴェンチャラスな息子で、赤ん坊の頃から冒険好き。火の輪を作ってやるとやっと、その輪に飛び込むようにしてベッドに入る……といった調子。やがてその子は大きくなり、ナイル川のワニを相手のレスラーになって……まあ、徹底的なナンセンス絵本。
 この絵本、おじいちゃんとおばあちゃんがそれまでの人生を語るという設定になっているのだが、どの部分をおじいちゃんがしゃべっているのか、どの部分をおばあちゃんがしゃべっているのか、さっぱりわからない。だって、おじいちゃん言葉もおばあちゃん言葉も英語にはないんだから。しかし日本語にはちゃんとある。そしておじいちゃん言葉にもおばあちゃん言葉にもとれる言葉なんて、日本語にはない。ということは、おじいちゃんの科白とおばあちゃんの科白をそれぞれ、こちらで決めて訳さなくてはならないということ。じゃあ、どう決めるか。
 かなり悩んだ結果、次の科白をおばあちゃんにいわせることにした。
「はらんばんじょうの じんせいだけど いつかは ふたりとも くたばっちまうのよねえ だれだって そうなんだから」
 あとは交互に、おじいちゃんおばあちゃんおじいちゃんおばあちゃん……と訳していった。
 しかし考えてみれば、英語で読み聞かせをする場合でも、語り手は、おじいちゃんの口調とおばあちゃんの口調を使い分けて語るはず。ということは、どの科白をおじいちゃんにいわせて、どの科白をおばあちゃんにいわせるかは、その語り手にゆだねられる。つまり、語り手の好きなように、ふたりの言葉の分担を決められるわけだ。ところが日本語版では、それができない。あらかじめ訳者が(ぼくが)、どちらかに決めてしまったのだから。その意味では、英語版の自由さがないともいえる。だから、どうぞ、子どもに読み聞かせるときには、おじいちゃんとおばあちゃんの言葉を、自由に入れ替えてくださって結構です。いろいろやってみてください。

 こういった終助詞に関する問題がなぜ起こるかというと、日本語の場合、言文が一致していないからだと思う。そもそも会話の文章から終助詞を排除することは不可能だし、客観描写の地の文に会話文の終助詞を使うのは絶対に変なのだ。
 そういう終助詞のない欧米の言語では、会話文でその語り手の性別を判断するのは難しいことが多い。だから、会話のあとに必ずといっていいほど、「he said.」「she said.」といった但し書きがつく。
 翻訳家の青山南が『ピーターとペーターの狭間で』(本の雑誌社)で、こんなことをいっている。かつては「he said.」「she said.」を、うざったい場合には省略していたけど、最近はていねいにそのまま訳すことにした。なぜかというと、省略すると、読者から「抜けてます」という手紙がくるから、言い訳をするのが面倒で……
 しかしやはり、日本語では「昨日、ティファニーにいって、おどろいちゃったの」といえば、だいたい女性の言葉だとわかるわけで、それにいちいち「と、彼女はいった」という文を添えるのはばかばかしい。そういうのが繰り返し出てくる場合は省略したほうがいいと思う。
 ところがアメリカでも、そういった付け足しをうざったいと感じた作家がいた。たとえばヘミングウェイ。ヘミングウェイは、「ハードボイルド(固ゆで)」と呼ばれる文体で作品を書いた作家として有名だが、その特徴は、感情表現をとことん抑え、無駄な部分を徹底的にそぎ落とした客観描写にある。非常にきびきびした、小気味のいい文体といっていい。だからヘミングウェイは、できるだけ「he said.」「she said.」を省略しようとした……その結果、誤訳を生むことになってしまった。「he said.」「she said.」抜きで会話文が続いていくと、たまにだれがしゃべってるのかわからなくなってしまうのだ。だから今までのヘミングウェイの翻訳では、発話者を間違えて訳している場合がかなりあるというのは定説になっている。とはいえ、それは日本人に限ったことではなく、英語圏の人でさえよく間違えていることがあるらしい。
 といった具合に、ある意味、終助詞というのはとても便利な道具なのだ。

 さてここで、終助詞についてもうちょっと考えてみよう。
 翻訳物を読んでいて気になるのは、男言葉と女言葉の使い分け。最近、とくに女性の翻訳者が多いせいもあって、男の言葉にやたら「ね」を使っている作品を見ることが多い。これは、はっきりいって目障りだし、変だし、なんか宝塚の男装の麗人(古いけど)の科白みたいで歯が浮いてしまう(宝塚の舞台でやってもらうぶんにはとても魅力的なんだけど)……というふうなことを翻訳学校なんかでいうと、必ず反論が出る。「だって、男の人もよく『ね』を使うじゃないですか。『この梅干し、おいしいね』といったふうに」
 たしかに言葉の女性化現象は現代の大きな特徴で、男もかなり「ね」を使う。しかし、だからといって、翻訳で「ね」を多用していいのかというと、そうではない。現実にそうであるからといって、それをそのまま文章に使ってはいけないのだ。
 むかし半田雄二さんが、ある図書館で講演をして、そのときとったテープをそのまま文字に起こしたことがある。それを読んだ人が、「あら、今回の講演は女の方だったの?」とたずねたらしい。文字面を見る限り、「ね」が多く、まさに女言葉なのだ。
 つまり、実際に話されている話し言葉と文章の話し言葉とのあいだには、かなり差があるのだ。だから、実際に男の人だって「ね」をよく使うからといって、それをそのまま文章でやってしまうと、妙に女っぽくなってしまう。現実をそのまま写しても、そのリアリティが出るとは限らないのだ。たとえば、ラジオ放送でよく使う雨の音は、大きな団扇に糸で豆をつけたものを振って出す。実際の雨音を録音したものより、こちらのほうが雨音らしくきこえる。現実をそのまま持ってくればリアリティが生まれるというわけではないらしい。リアルを演出する必要があるのだろう。
 しかし面白いことに、コミックだと、男の子が「ね」を多用してもほとんど気にならない。なぜかというと、そこに男の子の絵が描かれているから。ここが小説との大きな違いだと思う。映画やコミックでは、そういうずれがあまりないのだ。それが、小説だけの作品になると、そうはいかない。異様に女性的な印象になってしまう。そういう意味で、小説はかなり遅れている……というか、遅れざるを得ない。そもそも小説というのは頑固で保守的なのだ。
 とはいえ、村上春樹、江國香織、桜井亜美といった新しい作家たちの作品では、男の子もずいぶん中性的な口調でしゃべっている。やがて文学でも「ね」を多用した男言葉もごく普通になってしまうのかもしれない……とはいえ、それでも小説は現実をかなり後ろから追いかけているような印象はぬぐえない。その点、音楽や美術は時代に対してはるかに敏感である。一種の保守性、後進性は小説の宿命なのだろうか。

 さて、終助詞の話をすると次に気になってくるのは、それも含めた文体、あるいは登場人物の口調である。じつは十年ほど前、サンフランシスコでフランチェスカ・リア・ブロックの『ウィーツィー・バット』というヤングアダルト向けの本を見つけて、「おお、このような本があるのか!」と驚き、ぜひ日本に紹介したいと思い、このシリーズ五作の要約をまとめて出版社を回ったのだが、なかなか話がまとまらない。「こういうキオスクで売ってるような薄っぺらい本はねえ……」(某出版社)というネガティヴな反応から、「やりたいけど、翻訳物は今あまり出してないから残念だけど……」(マガジン・ハウス)、「たしかに面白いし、化ける可能性も大きいと思う。しかしうちの編集部の平均年齢では無理……」(集英社)といった反応まで様々。そんなときにひょっこり出会ったのが東京創元社の山村さん。要約を読んで、すぐにいい反応が返ってきた。そのあとすぐに理論社の平井君が、「あ、いいっすねえ!」といってくれて、同じくブロックの『少女神第9号』も出ることになった。
 そしていざパソコンに向かって『ウィーツィー・バット』を訳し始めた……のはいいのだが、なかなか前へ進まない。四苦八苦してようやく二頁分くらい打ち終え、プリントアウトして読み直してみて、絶句(赤面+苦笑い)
 四十過ぎたおじさんが無理をして女子高生の一人称を訳すのはやめようと痛感した次第。というわけで、このシリーズ、小川さんに共訳をお願いした。なにしろ主人公のウィーツィーはこんな女の子。「痩せていて、白に近いブロンドをクルーカットにしてた。ピンクのハーレクインのサングラス、ストロベリー色のリップ、飾りのさがったピアス、ラメ入りの白いアイシャドー、けっこうきれいな顔。ときどき、ウィーツィは、白いスエードのフリンジを縫いつけたリーバイスをはいたり、インディアンの羽根飾りをかぶったり、ときには、きらきら光る文字で詩が書いてある五0年代のタフタや、ピンクの子ブタやディズニーのキャラクターのついた、子供用のシーツで作ったワンピースを着て……」
 おじさんの訳す小説じゃない。
 このところそういうことをよく考える。自分の文体というのは、どこまでも自分の文体であって、いくら原文に合うように調整しても限界がある。そんなわけで、前回も書いたが、『メイおばあちゃんの庭』は斎藤さんにお願いしたわけだし。『のっぽのサラ』も、まだ若かったから引き受けてひとりで訳したが、いまならおそらく共訳か下訳を頼むと思う。そのほうがずっといいものができる。
 大学で創作のゼミを担当していることもあり、また翻訳を教えることもあり、二十代、三十代の人の文章をよく読むが、ぼくなんかとはまるっきり文体が違ってきている。新しさ、若さというのは、一種の魅力だし、これは大切に育てていかなくてはならない。そしてそういう新鮮な文体で訳してみたい作品もどんどん出てくる。そうなると、共訳や下訳の形で、できるだけ新しい血を採り入れていくほうが面白い。このところ共訳で出した本は、ほとんどが成功していると思う。小川さんとは、「ウィーツィ・バット・ブックス」で一緒に仕事をして、来年、東京創元社から出る同じくブロックの『The Rose and theBeast』、講談社から出るベンジャミン・ゼファニアの『Refugee Boy』でも活躍してもらう予定。
 また、代田さんとはあかね書房の「マインド・スパイラル・シリーズ」(来年第三巻が出る予定)で共訳していて、この文体がまた楽しい。代田さんとは「プリンセス・ダイアリーズ・三部作」でも一緒に仕事をする予定。その他、来年はスーザン・プライスの『スターカーム・ハンドシェイク』で中村さんと、コリン・ベイトマンの『ディヴォーシング・ジャック』で橋本さんと、スザンヌ・フィッシャー・ステイプルズの『シャバヌ』『ハヴェリ』で築地さんと……などなど、共訳が目白押し……と書いて、「目白押し」なんて言葉、もうあまり使わないよなと思ったり……
 とにかく作品によっては若い血がほしい……と、まるでドラキュラ伯爵のようになってきたが、そのうち共訳者の人たちもみんな独り立ちしていくわけで、そうなるとどうしよう……?
 とはいえ、そう悩んでいるわけではない。年寄りには年寄りの仕事がちゃんとあるのだ。たとえば、地味だが非常に味わい深い土佐次郎(高知県の有名な地鶏で、肉がとてもかたくしまっていておいしい)のような文体の小説(来年出す予定の本だと、ジム・ハリスンの作品)。あるいは凝った文体のミステリー。そのほか、新しさや新鮮さをそれほど要求しない作品は、児童書のなかにもかなりある。
 あともうひとつ、古典の訳し直しという仕事がある。最近の若い翻訳家は古い英語が苦手だし、そもそもあまり読んでいない。ぼくもやはり古い英語は読みづらくはあるけど、それほど嫌ではない。というか、案外と好きである。スティーヴンスンもキプリングもオスカー・ワイルドも。なにしろ修士論文はポーで書いているくらいだ。そのうえ、古典はキャピキャピの(この言葉も古いんだろうな)文体で訳す必要はないし、少し落ち着いた文体の方がいいと思う。

   二 昔のこと
 八八年から約三年間、朝日新聞で「ヤングアダルト招待席」という書評欄を担当していた。当時の書評、最後に(瑞)とあるのがぼくで、(幹)とあるのが赤木幹子。
 最初、朝日の出原さんから電話があって、「中高生向けの本の書評を書かないか」という問い合わせがあった。そこで本社に出向いて詳しいことを聞いてみると、「現在、一般書と児童書を紹介するコーナーはあるけど、そのちょうど中間、つまり中高生向けの本を紹介するコーナーがない。そこでそういう書評の欄を作りたい」とのこと。こちらとしては願ってもないことなので、その場でOKしたら、「毎週書いてほしい」といわれ、ちょっと困ってしまった。そりゃ無理でしょう。というわけで、ぼくの後輩のくせにぼくより偉そうな赤木幹子とふたりで隔週ということにしてもらった。それから幹子といっしょに細かいところをつめに再び出原さんと相談。新聞社側としては「ジュニアの本棚」というタイトルを考えているときいて、幹子が大反発。「ジュニアって、小学生じゃん! ヤングアダルトでいこうよ!」。出原さんは、むむ困ったという顔。当時、「ヤングアダルト」という言葉はまだ市民権がなく、なんとなくいかがわしい響きがないでもない……というのが新聞社側の意見だった。しかし出原さんがうまく調整してくれて、「ヤングアダルト招待席」という本の紹介欄が誕生した。いくつかの出版社が、「ヤングアダルト」という言葉を使ったことをとても喜んでくれた。いちばん嬉しそうだったのは、晶文社だったような気がする。社長がヤングアダルト出版会の会長をやっていて、とくに若者向けの本を出すことに力を入れていたから。
 八八年から九一年というのは、福武、偕成社、ほるぷといった出版社で児童書の翻訳をやっていた頃。考えてみれば、この三年間は自分にとって、とても重要な仕込みの時期だったような気がする。大学の非常勤講師をしながら、翻訳をしながら(次に翻訳する本をさがしながら)、隔週で書評を書きながら(その間に、次の書評の本をさがしながら)……英語の本と日本語の本を合わせると、年間五百冊くらいは目を通していたと思う(もちろん、一冊一冊すべて最後まで読んだわけではない)とくに「ヤングアダルト招待席」にはいい本を紹介しなくてはという気持ちが強かった。なにしろ日本で初めて「ヤングアダルト」と銘打った書評(それも毎週)なのだ、これで「ヤングアダルト向けの本はやっぱりつまらん」などといわれたりしたら、それこそ申し訳ない。幹子のほうも必死だったと思う。ぼくも毎週三日以上は本屋をのぞいて新しい本を漁っていたし、会う人ごとに、最近おもしろ本はなかったかたずねまくっていた。そのせいで「みっともない」とか「小商人みたい」とか陰口をたたかれていたらしいが、そんなことはいささかも気にならなかった。とにかくいい本を紹介すること、それしか頭になかった。
 担当の出原さんは、ほとんどクレームらしいクレームをつけず、好きに書かせてくれたし、たまに手を入れるときでも、なるほどと思わせるような直しをしてくれた。そのうち担当が上丸さん(図書館関係の記事などで活躍してくれた)に変わった。上丸さんもとてもいい印象がある。そして三年たって、さすがにピッチャー交替となった。朝日でも書評でこんなに長いのは初めてなのでといわれ、ぼくは同じく朝日新聞の「話題の本」のコーナーに移った。担当は……名字は忘れてしまったが、真帆ちゃんと呼ばれていた女性の記者さん。「金原さん、話題の本を取り上げることないんだからね。自分が話題にしたい本を書いてちょうだい!」といってくれた。ここでは月一回、ヤングアダルト向けのものから一般書まで自由に書かせてもらった。
 ところが真帆ちゃんと交替でやってきた担当が最悪(ぼくにとって)。たしかその担当者に変わって最初の書評のとき、『8(エイト)』だったか『バトル・ロワイヤル』(日本物ではなくフランス物)だったを取り上げたいというFAXを送ったところ数日たっても返事がこないので、OKなんだろうと思って書評を書いて送ったら、「これはこまる」という電話がきた。「いま話題になっている本を取り上げてほしい」とのこと。それならこちらがFAXを送ったときにいえよな、と思ったものの、「話題の本」の書評は気に入っていたので、適当に話を合わせて、送った書評を(引き下げたりせず)書き直して送り直した。もちろん、こちらとしては「いま話題の本」なんて取り上げるつもりは全くない。そんな感じで二回ほど原稿を書いたのだが、今度はいきなり「これを取り上げてくれないか」といって本が送られてきた。なんと、金賢姫の自伝。ていねいにお断りした。そのあとのことはあまりよく覚えていない。そのうち「話題の本」のコーナーはなくなってしまった。
 そのあとも朝日新聞とは縁があって、「ブックバンド」の書評を毎月担当し、そのあと再び九三年に「ヤングアダルト招待席」で何本か書評を書いている。このときは書評の最後のサインは(水)。それから「文庫・新書紹介欄」に移り、九四年まで書評を書いていた。というわけで、朝日新聞とは六、七年という長いつきあいだった。

   三 あとがきについて
 閑話休題。翻訳の話にもどろう。
 そんなわけで古典物の訳し直しはとても楽しいし、自分に合っていると思う。その手の仕事を最初に持ってきてくれたのは偕成社の別府さん。キプリングの『ジャングル・ブック』だった。偕成社文庫から出したいとのこと。ぼくは子どもの頃、あまり本を読まなかったが、夢中になった本はいくつかある。たとえば、小学校の頃だと、『西遊記』『水滸伝』『宝島』『ジキル博士とハイド氏』『アーサー王物語』『ギリシア神話物語』『アラビアン・ナイト』『O・ヘンリー短編集』『ポー短編集』『ジャングル・ブック』あたり。
 だから『ジャングル・ブック』の翻訳はとても楽しかった。ただ、この作品、オオカミ少年モウグリの物語として知られているが、それは全体の半分にすぎない。あとの半分は動物が主人公になっていて(マングース、ゾウ、オットセイなど)、これがまた素晴らしいのだ。しかし残念なことに、偕成社文庫版には、いわゆる「モウグリ物語」しか載っていない。そのかわり、といってはなんだが、未訳の「モウグリ物語」をひとつ最後に載せておいた。いわゆる番外編というやつ。詳しくは後書きを。
 偕成社文庫では、ほかに『宝島』『アーサー王物語』が出た。それから岩波少年文庫からも話がきて、『タイムマシン』『最後の一葉』が出た。担当は若月さん。そして来年、待望の『ポー短編集』が出る予定。ちなみに収録予定の作品は次の通り。
(エドガー・アラン・ポー短編集)
・アッシャー家の崩壊
・ウィリアム・ウィルソン
・モルグ街の殺人事件
・大渦にのまれて
・赤死病の仮面
・黒猫
・アモンティリャドの樽
 というわけで、今回は古典の訳し直しのあとがきを集めてみました。『ジャングル・ブック』『宝島』『アーサー王物語』『タイムマシン』『最後の一葉』です。

   四 あとがき
『ジャングル・ブック』
解説 法政大学講師 金原瑞人

この『ジャングル・ブック』という本はルイス・キャロルの『ふしぎの国のアリス』とならんで、子どもの本の古典的名作のなかでもとくにユニークなものとされています。このふたつの作品は、それまでになかった種類の物語だったのです。『ふしぎの国のアリス』は題名のとおり、不思議で奇妙でへんてこりんで、そのくせとても魅力的なナンセンス・ファンタジーですし、『ジャングル・ブック』は、主人公がジャングルの動物といっしょに暮らしながら、あれこれ冒険を重ねていくという動物冒険物語です。当時の人びとは、あっとおどろき、夢中になって読んだそうです。そしてその後、同じようなタイプの作品がぞくぞくとでてきましたが、けっきょくこのふたつを越えるものはでてきていません。
キップリングは一八六五年の十二月にインドのボンベイで生まれ、少年時代をイギリスですごしたのち、一八八二年の秋、ふたたびインドにもどって新聞記者として働くことになりましたが、やがて詩人として、また小説家として活躍するようになりました。おもしろいことに、二度、日本を訪れていて、くわしい記録をのこしています。キップリングの書いた詩や小説はぼうだいな数にのぼり、その数は三百を超すということです。そして一九一七年、ノーベル文学賞を受け、一九三六年に亡くなっています。
キップリングの作品ほどおおくの人に愛され、さまざまな階層の人に愛された作品もめずらしいのではないでしょうか。イギリスやアメリカなど英語圏の国においては、すぐれた文学者や政治家から、ごく普通の人びとや小学生まで、キップリングのファンはいたるところにいるのです。キップリングはおとな向けの小説や詩もたくさん書いていますが、子ども向けの本には、『ジャングル・ブック』のほかに、『なぜどうして物語』や『キム』や『プークの丘のパック』などがあります。
さて、『ジャングル・ブック』についてちょっとお話ししましょう。これはもともと一八九〇年代に書きためられた短編を集めたもので、正・続二巻からなっており、ここにおさめたモウグリの物語のほかに、オットセイやゾウが活躍する動物物語やインドの話など七編がふくまれています。このなかではマングースがコブラを相手に活躍する「リッキ・ティッキ・ターヴィ」が有名です。ここではモウグリの物語だけを選んで訳したので省略したのですが、冒頭に作者のまえがきがついています。ここに訳しておきましょう。

このような種類の本を書くにあたっては、おおくの点で、さまざまな専門家の方がたの好意にあまえることになる。そういった方がたの助言にたいして十分に礼をつくさなくては、それこそ、そういった親切を受ける資格などなくなってしまうことであろう。
まず第一に、博学にして博識である荷物運びのゾウ、インド政府の登録番号一七四のバハドゥル・シャー(「偉大なる王」という意味)に感謝をささげたいと思う。シャーは、心やさしい妹のパドミニとともに、こころよく、「象使いのトゥーマイ」や「女王陛下の召し使い」にでてくるおおくのことやものについての情報を提供してくれた。
またモウグリの冒険の物語は、いつということなく、あちこちで、それもたくさんの方がたからきいて集めたものであるが、これらの方がたのほとんどからは、けっして自分たちの名前を公にしないでほしいといわれてきた。だがここがインドからはるかはなれた国であることを考えると、名前をあげて感謝するのも別段かまわないのではないかという気がする。そのうちのひとりはジャッコ高原の古い岩にすむ、尊敬すべきインド人の紳士である。この紳士は、自分たちの階級の特徴について、いくぶん辛辣ではあるが、十分に納得のいく説明をしてくれた。それから、最近解散したシオニーの群れのひとり、勤勉にしてとどまることを知らぬ研究家であり学者であるサヒーに感謝をささげたい。そしてまた南インドの地方のほとんどの市場でよく知られている舞踏家……師とともにおどるマズル・ダンスでもって若者や美人を魅了し、おおくの村の文化に貢献のあった舞踏家に感謝をささげたい。サヒーとこの舞踏家のふたりは、人間性、風俗、習慣などについての貴重な情報を提供してくれた。これらの貴重な情報が、「トラよ、トラよ!」「カー登場」「モウグリの兄弟たち」といった話のなかで、いたるところに使われている。
また「リッキ・ティッキ・ターヴィ」のあらすじについては、北インド屈指の爬虫類学者になみなみならぬ世話になった。この怖いもの知らずの、独立気鋭の学者は「知識をふやすことなくして生きることなかれ」をモットーにしていたが、つい最近、東洋の毒ヘビの研究に打ちこみすぎたため、命を落としてしまった。
さらに、「インド女王号」で旅をしていたときに起きたうれしい事件のおかげで、わたしはいっしょに乗りあわせたひとりのお客にささやかながらも力をかすはめになったのだが、このかたからどんなに気前のいいお礼をいただいたかは、「白いオットセイ」を読んで読者みずから、ご判断いただきたい。

論文などの冒頭につけるかたい調子のまえがきをもじったものです。少し解説をしておきましょう。なかにでてくるインド紳士というのは、おそらくはサルのこと。また毒ヘビの研究にいれこみすぎて死んでしまったインド屈指の爬虫類学者というのはマングースのこと。といったぐあいに、ここで作者が感謝しているのはすべて動物ばかり。だからかたい文章がかえって効果的というわけです。なかなか楽しいまえがきではありませんか。
この時代は、イギリスが世界のあちこちに植民地をもっていて、ほとんどのイギリス人は大英帝国こそ世界一の国と信じてうたがいませんでした。キップリングもそのうちのひとりで、そのころの植民地だったインドを愛してはいたのですが、その優越感のようなものが『ジャングル・ブック』にもときどき顔をだします。残念なことですが、それが当時の一般的なイギリス人の考えであったことを考えると、そこだけを非難するのもかわいそうな気がします。
『ジャングル・ブック』は日本でもかなり有名だったらしく、古くは明治時代から翻訳や翻案がでています。手元にあるものを二、三紹介してみましょう。
まずは菊池寛。この作家については、いまさらなんの説明も必要ないでしょう。菊池寛は創作のほかにも、かなりの数の翻訳や翻案をだしています。どうも昔の作家というのは、いや今も同じかもしれませんが、あまり収入がよくなかったらしく、アルバイトとして翻訳や翻案をかなりこなしていたようです。たとえば芥川龍之介も『ふしぎの国のアリス』の翻案を手がけています。残念ながら芥川は、その途中で自殺してしまい、そのあとを菊池寛がついで、共訳の形で出版されています。
文藝春秋社から一九二八年(昭和三年)にでた、小学生全集のなかの菊池寛の『ジャングル・ブック』の翻案をのぞいてみましょう。こんな感じです。
「諸君、この本は表題からして『ジャングル・ブック』といふ、日本の言葉でいへば『籔の本』である。それで、私は諸君にまづそのジャングルの話から始めようと思ふ。」
そして、菊池寛の名前のつけかたがまたおもしろいのです。たとえば、「統領狼……アケイラ、虎蔵……シーア=カーン、熊太郎……バール、豹介……バギーラ、蛇一……カー」といった調子です。やはり菊池寛という人は読みやすい本を心がけた、根っからのエンタテナーだったんだなという気がしませんか。
偕成社から一九五九年(昭和三四年)にでた「児童世界文学全集」のなかの『ジャングル・ブック』は大佛次郎の翻案で、三編がおさめられています。また一九五五年、中野好夫が岩波書店から『ジャングル・ブック』のなかのモウグリの話をぬきだして上下二冊にまとめたものをだしていますし、一九七四年には西村孝次が学習研究社から『ジャングル・ブック』の日本初の全訳をだしています。また一九七九年には福音館から詩人の木島始がモウグリの話をぬきだしたものをだしています。
この本の最後にある「ラクにて」という中編について説明しておきましょう。これは『ジャングル・ブック』にはのっていない話で、「モウグリの兄弟たち」が発表されるまえに書かれた作品です。この中編は、モウグリが登場するほかの短編とはちょっと雰囲気がちがっていますし、それまでの話とちぐはぐな箇所もあります。
おそらくキップリングは、インドを舞台にしたオオカミ少年の物語を書こうと思ったとき、ふたつの案がうかんだのでしょう。そして「ラクにて」を書き、そのあとで「モウグリの兄弟たち」を書いてみて、けっきょく「モウグリの兄弟」の路線でいくことにしたのだと思います。とにかく番外編なのですが、これもなかなか味のある作品なので、最後にそえておきました。


『宝島』
解説 法政大学助教授 金原瑞人

ロバート・ルイス・スティーブンソンの傑作『宝島』、いかがだったでしょうか?
ぼくは今でこそ、子どもの本の翻訳をしていますが、小学校のころは、いわゆる児童文学というものを読むことは、あまりありませんでした。いってみれば、授業が終わると校舎の屋上か校庭で下校時間まで遊び、家に帰ると宿題をしてテレビをみて寝る、という毎日で、読んだ本といえば、たいがいが、「怪盗ルパン」のシリーズ(ホームズよりはルパンのほうが好きでした)、江戸川乱歩の本、ノンフィクションといったものばかりでした。
しかし、何度も何度もくりかえして読んだ本も何冊かあります。『西遊記』『水滸伝』『ジャングル・ブック』『十五少年漂流記』、そしてこの『宝島』です。
『西遊記』や『水滸伝』や『ジャングル・ブック』は、わくわくしながら読んだものですが、『宝島』はぞくぞくしながら読みました。はじめて読んだのが小さいときだったせいもあるのでしょうが、ずいぶんこわかったのをよくおぼえています。海賊たちがジム少年の家を襲うところ、船のなかでリンゴ樽のなかにはいって海賊たちの話をぬすみぎきするところ、宝のありかを指している骸骨を海賊たちが発見するところ、帆桁の上での対決……!
自分がほんとうにジム少年になったような気持ちで、こわいこわいと思いながら、ついつい読んでしまう。そして読みおわってしばらくすると、また読みたくなる。そんな本でした。
これほど強烈な印象を受けた本は、あまりありません。

『宝島』を書いたスティーブンソンは、一八五〇年生まれの、イギリスの作家です。大学で工学と法律を学び、アメリカにわたってファニー・オズボーンという女性と結婚したのち、イギリスにもどって小説を書きはじめ、一八八三年、この冒険小説『宝島』で一躍、人気作家になります。『宝島』は、夫人の連れ子、ロイド・オズボーンにささげられています。スティーブンソンはロイドのことがずいぶん気にいっていたようで、この義理の息子といっしょに、何冊かの本を出しています。
スティーブンソンという人は、代表作『宝島』を読んでわかるとおり、旅がとても好きだったようです。アメリカのほかにも、ベルギー、フランス、スイスなどを旅行しているし、四十歳くらいのときには南洋にいってしばらくホノルルで暮らしたのち、サモア島に住むようになり、一八九四年、ついにそこで死んでしまうのです。
このころは、ヨーロッパの文化人がこぞって、アジアや南洋に出かけていった時代で、スティーブンソンのほかにも、『ジャングル・ブック』で有名なキプリングは青年時代をインドで送っていますし、フランスの画家、ゴーガンはタヒチ島やドミニカ島でかずかずの名画を描いています。
日本でも夏目漱石をはじめ、スティーブンソンのファンは多く、そのうちのひとりが中島敦(一九〇九〜一九四二年)です。『名人伝』『山月記』『李陵』といった小説で有名な作家ですが、彼はそのほかに『光と風と夢』という作品を書いています。これは、サモア島に移住したスティーブンソンを主人公にしたものです。
スティーブンソンは『宝島』のあと、いわゆる二重人格をあつかったものとして有名な『ジキル博士とハイド氏』や、『誘拐されて』、『カトリオナ』、『新アラビアンナイト』など、多くの作品を書いて十九世紀のイギリスを代表する作家になります。
しかし、やはり今日まで世界中で読みつがれている代表作は、『宝島』でしょう。
ストーリーはむだがなく、スリルもサスペンスもふんだんにもりこまれ、最後まで読者をひきつけてはなしません。とくに、まるで目のまえで事件が展開しているような気にさせてしまう描写のうまさと、ふんい気のもりあげ方のみごとさ。それは本の最初の部分を読むだけでなっとくできます。まさに〈名人〉としかいいようがありません。
それから登場する人物のおもしろさ。沈着冷静なくせに熱血漢でもあるリブジー先生、すぐ調子にのってしまうお人よしの地主トリローニさん、勇敢だけどついついやりすぎてしまう主人公のジム少年……。わきをかためる端役も負けてはいません。宿屋でいばりちらすくせに、いつもなにかにおびえている〈船長〉、独特のふんい気をもつ目の見えない海賊ピュー……。
しかしなんといっても『宝島』を代表する登場人物は、ジョン・シルバーではないでしょうか。ぼくが昔読んだときは、とてもこわい海賊のような感じがしたのですが、何度も読みかえすうちに、すっかりこの海賊が好きになってしまいました。
金のためならなんでもする冷血漢でありながら、どことなくひょうきんで、いばりくさったかと思うと、ぺこぺこして相手の顔色をうかがったり、抜け目がなく、ずるがしこく、そのくせ思わぬ失敗をしてしまう……が、したたかに反撃のすきをねらっている。こんな悪党を生き生きと描いたスティーブンソンには、心から脱帽してしまいます。
そう、ある意味で『宝島』の主人公はジョン・シルバーなのかもしれません。
やはりイギリスに、オーソン・ウェルズという人がいます。映画史に残るといわれている『第三の男』『市民ケーン』『審判』などに出ている名優です。このウェルズが脚本を書き、主演した映画に『宝島』があります。なんの役をやったかというと、ジョン・シルバーです。
ウェルズは『宝島』を映画にしたくてたまらなかったようです。そしてもちろん、ジョン・シルバーの役もやりたくてたまらなかったのでしょう。
オーソン・ウェルズのジョン・シルバー。なかなかいい味をだしています。
さて、今では子どもの本として知られている『宝島』ですが、イギリスやアメリカでは、昔から大人にも人気があります。それはストーリーや登場人物たちが魅力的なだけでなく、文章そのものが魅力的だからでしょう。なかで起こる事件や筋書きがわかっていても、大人になって読みかえしておもしろいというのは、なにより文章のせいだと思います。
それは訳してみて、つくづく感じたことでもあります。まずなにより、むだがない。そしてその場面場面があざやかにうかびあがってくる。ですから、一行でもおろそかにすると、次がうまくつながらないのです。訳しとばすことができず、一行一行、ていねいに訳していき、最後にまた原文とつきあわせて、手をいれていく……この作業にこれほど神経を使った作品ははじめてでした。が、同時に、とても楽しい作業でもありました。
たくさんの人びとが『宝島』にとりつかれて、日本語に訳してきました。阿部知二、西村孝次、野尻抱影など、かぞえあげればきりがありません。
どれも、それぞれに味わい深い翻訳です。
ぼくが『宝島』を訳すにあたって、まず考えたことは、原文の風味をそこなうことなく、新しいものにすることでした。簡単にいってしまえば、ジム少年を現代の男の子や女の子たちに身近な人物にすることです。読むときに、ジム少年といっしょになって宝探しの冒険にでかけられるような本にすることでした。
さて、それが成功しているかどうか、ご判断はおまかせします。


『アーサー王物語』
解説 金原瑞人

「ギリシア・ローマ神話」と「千一夜物語」と「アーサー王伝説」、読み物として、この三つほど世界で広くしたしまれているものはないでしょう。なぜこれほど人気があるのか。それはいうまでもなく、「おもしろい!」からです。ちょっと古い言い方をすれば、「古今東西を通じて」、これほどおもしろい物語はほかにない、といってもいいかもしれません。そしてまた、これほどたくさんの作家が手をかえ品をかえ、いろんなふうに語りついできたものもほかにないでしょう。
たとえば「アーサー王伝説」はそれこそかぞえきれないくらいの作家がいろんなふうに書き、そしていまも、多くの作家がさまざまな形で書きつづけています。夏目漱石もアーサー王を主人公にした作品をひとつ書いています(『薤露行』)。
さて、この「アーサー王伝説」ですが、どのようにして誕生したのか、かんたんに説明しておきましょう。
紀元六世紀ごろ、イギリスにアーサー王のモデルとなった人物がいたようですが、はっきりしたことはわかっていません。しかし当時、多くの人々の尊敬を集めるすぐれた王がいたことはたしかなようです。その後、この王は伝説にうたわれ、いくつかの書物にもとりあげられ、その誕生から死にいたるまでの物語はしだいにふくらんで大きくなっていきます。多くの騎士の物語が加わり、魔法にまつわる物語が加わり、聖杯探求の物語が加わり……というぐあいです。
そして十二世紀に、ジェフリー・オブ・モンマスという年代記作者が『ブリテン王列伝』という本を書きました。このなかで、アーサー王の物語がかなりくわしくえがかれています。そのあと十五世紀になってトマス・マロリーがこれをもとに、『アーサー王の死』という作品を書きあげました。『アーサー王の死』は、アーサー王を主人公にした物語の決定版ともいうべきもので、文章は古いのですが、とてもおもしろく、楽しく、そしてかっこいいものにしあがっています。
このようにしてアーサー王の物語は広く読まれるようになり、十八世紀、十九世紀、二十世紀と、さらに多くの「アーサー王物語」が誕生していきます。またアーサー王以外の登場人物、たとえばラーンスロットやガウェインなど円卓の騎士を主人公にした物語も出てきますし、二十世紀のアメリカ人技師がアーサー王の宮廷にタイムスリップしてしまうという、奇想天外なパロディも出てきます(マーク・トウェインの『アーサー王宮廷のコネチカット・ヤンキー』)。そして現在では、「アーサー王物語」のストーリーや武器や小道具などがコンピュータ・ゲームの題材に使われるようになりました。
何度読んでもあきることなく、どんなふうにでも形を変えて楽しむことのできる「アーサー王物語」は、「ギリシア・ローマ神話」や「千一夜物語」と同様、とにかく「おもしろさ」がぎゅうぎゅうに詰まっているにちがいありません。騎士と騎士のあらあらしい戦い、騎士と乙女のロマンス、魔法や予言や奇跡、喜びと悲しみ……たくさんのものがいっぱいに詰まっているのです。

さて、ぼくは子どものころから「アーサー王物語」を何度もくりかえし読んできて、いつかは自分で翻訳したいと思っていました。そしてその夢がかなうことになったのですが、そこでなやんだのは、どの本を訳すかということでした。「アーサー王と円卓の騎士」をえがいた本は、それこそ山ほどあるのです。なやんだ結果、いくつか条件を考えました。まだ翻訳のないもの、子どもでも読めるもの、センチメンタルではないもの……この三つです。とくに三番目を重視しました。日本で子ども向けに出ている「アーサー王物語」はちょっとロマンチックすぎるし、そもそもほとんどが「です・ます体」で書かれています。しかしぼくの頭のなかにある「アーサー王物語」は、騎士がくりひろげる勇壮な戦いの物語であり、残酷な運命にふりまわされる人びとの物語であり、「よきもの」も「美しきもの」もついにはすべてがほろんでいく壮絶な物語なのです。
そういう「アーサー王物語」はないものか、ずいぶん長いことさがしていたのですが、やっと一冊みつけました。それがこの本、ジェイムズ・ノウルズの『アーサー王物語』だったのです。とにかく、「かっこいい!」本です。
「アーサー王」はこうでなくちゃ!
というわけで、この本は思い切り「かっこよく」訳してみました。「だった」「なのだ」という文体を使い、むつかしい漢字もばんばん使っています。すこしくらい意味がわからなくても、かまわず先へ進んでください。そしてときどき、声にだして読んでみてください。こういう日本語もあるのです。ぼくの想像のなかの「アーサー王物語」はこういう言葉でできているのです。

作者のジェイムズ・ノウルズ(一八三一〜一九〇八)は、建築家でジャーナリスト。
ロマン派の作家や詩人とつきあいがあり、自分で評論の雑誌をだしたりしています。ただ、ノウルズの書いたもので現在でも出版されているのは、この『アーサー王物語』ぐらいでしょう。
ノウルズの『アーサー王物語』を訳すにあたって、何点かおことわりをしておきます。まず、いくつかのエピソードを削りました。たとえば、「トリスタンとイゾルデ」、これはもともと「アーサー王物語」の本筋にはあまり関係のないエピソードですし、ノウルズの本の場合、ジャン・コクトーの映画などで有名な「トリスタンとイゾルデ」伝説とはかなりちがっています。そのほかにも数点けずったエピソードがあります。イギリス人ならすぐにわかるけれど、日本人にはよくわからないような部分については、簡単な説明を入れるか、けずりました。また、ノウルズ本人のあきらかな思いちがいと思われる部分は適当になおしてあります。
地名についても、多少説明が必要でしょう。この物語の時代はおよそ五世紀か六世紀といわれているのですが、そもそもアーサー王自身が実在の人物とも架空の人物ともいいがたいので、地名もあいまいです。たとえば宮廷はどこにあったのか、キャメロットなのかカーレオンなのか。普通はキャメロットということになっていますが、このキャメロットも、ウィンチェスターなのか、カドベリーなのか、あるいはほかの場所なのかまるっきりわかっていません。ノウルズは、アーサー王はカーレオンに宮廷を置いたと書いています。そしてキャメロットで槍試合を行ったと書いたりしています。カーレオンとキャメロットをごっちゃにしていたのかもしれませんし、宮廷はカーレオン、いくつかの行事はキャメロットでおこなうと考えていたのかもしれません。

最後になりましたが、この本、挿し絵の佐竹さんも、翻訳の金原も、気力十分でのぞみました。どうぞ、存分にお楽しみください。


『タイムマシン』
訳者あとがき

『タイムマシン』の作者ハーバート・ジョージ・ウェルズは一八六六年、イギリスのケント州生まれ。幼いころから読書が好きだったけれど家は貧しく、服地をあつかう店で働いたりしながら、やがて教員になり、のちのロンドン大学で科学を学びます。ところが結核で入院し、病院生活を送るうちに小説を書き始めます。こうして書きだしたのが、当時としてはユニークで新鮮だった、空想科学小説、つまりSFでした。
そして一八九五年に『タイムマシン』を発表して、一躍有名になります。国じゅう、この小説の話でもちきりだったそうです。ウェルズはこれ一作でイギリスの大作家になったといってもいいでしょう。いまから一世紀以上も前にこんな小説を書いたのですから、無理もありません。
なにしろ世界初のガソリンエンジンで走る二輪車が発明されたのが一八七六年、日本で初のガソリンエンジン自動車ができるのが一九〇七年、ライト兄弟が人類初の動力飛行に成功するのが一九〇三年なのです。
SF作家ウェルズの名前をイギリスじゅうに広めたこの『タイムマシン』という小説、最初の舞台は十九世紀、主人公が住む屋敷の一室。ここでは毎週木曜日の夜、数人の仲間が集まって食事をしながら、楽しくおしゃべりをすることになっているようです。その日、主人公TTは「いま学校で教えている幾何は、そもそもその土台がまちがっている」と、熱っぽく語り、三次元から四次元へ、そして時間へと話を進めていき、時間をいったりきたりすることも可能なんだと断言します。
そして次の舞台はなんと西暦八十万二千七百一年の未来世界。主人公はここで命がけの冒険をすることになります。
ウェルズは想像の大きな翼に乗って、未来世界とそこに暮らす人類を描きました。科学が進んで頂点に達したあと、社会は、世界はどんなふうに変わっていくのか、そして人類は……?
いってみれば、科学的な味つけのしてある冒険小説+推理小説といった感じの作品かもしれませんが、ウェルズの人間をみつめる目のやさしさと、厳しさを感じさせる作品でもあります。とくに最後の「エピローグ」。ぼくは読むたびに、『アーサー王物語』やトールキンの『指輪物語』や那須正幹の『ぼくらは海へ』の最後を思い出してしまいます。とても切ないけれど、やさしい終わり方ではないでしょうか。
ウェルズは『タイムマシン』の大成功のあと、『ドクター・モローの島』(一八九六年)、『透明人間』(一八九七年)、『宇宙戦争』(一八九八年)、『月世界最初の男』(一九〇一年)と、次々に傑作を発表し、SF小説の土台を作っていきます。
そして二十世紀に入り、こういった作品を引きついで、アイザック・アシモフ、アーサー・C・クラーク、ロバート・ハインライン、レイ・ブラッドベリといったSF作家たちが大きな世界を作っていきます。そう、二十世紀はSF小説の世紀でもあったのですが、その土台を作ったのがウェルズだったのです。
ウェルズはSF作家としてみごとなお手本を示してくれました。豊かな科学的知識、奇想天外な物語を生み出す想像力、謎をきれいに解決する論理性、人間をみつめる鋭い目……すばらしいSF小説を書くためには、これらすべてが必要なことを教えてくれたのです。
それはこの『タイムマシン』を読めば、よくわかると思います。
ウェルズはSFのほかにも『世界文化史大系』や『生命の科学』などの教養書・文明批評書を書いたり、政治の世界に身を投じたりと、さまざまな面で活躍し、一九四六年に亡くなりました。
ぼくも昔、夢中になって読んだ『タイムマシン』、どうぞお楽しみください。
二〇〇〇年八月 金原瑞人


『最後のひと葉』
訳者あとがき

もうずいぶん昔のことだが、身内数人で芝居をやろうじゃないかということになった。もちろん全員、芝居なんて初めてで、劇場は、いなかにあるわが家の応接間。観客は親兄弟および、招待を断れない、人のいい知り合い。もちろん、入場料はなし。それどころか、食事に飲み物までつく。十人ほど集まってくれたような記憶がある。
さて、脚本は妹が書くといったものの、オリジナルを書く才能はとてもないので、なにか短編小説をもとに作ることになった。じゃあ、なにがいいだろうといって、数人で考えたところ、すぐに「そりゃ、オー・ヘンリーだろう」ということに意見がまとまった。なにしろ、おもしろくて、ストーリーがはっきりしていて、だれにでもわかる、そして、短くて感動的だ。じゃあ、どの短編にしようかということになった。なにしろ、にわか作りのしろうと劇団だから、笑わす芝居は絶対に無理。泣かせる芝居のほうが、ずっとやりやすい。というわけで、「最後のひと葉」に決定した。
いま思い出すと、笑うしかないが、とりあえず公演は無事に終わり、出演者一同、芝居は二度とやるまいと固く誓った。
そのオー・ヘンリーの短編を訳すことになった。ぼくが子どもの頃は、日本でも大人気だった。本好きでオー・ヘンリーを読まない人はいなかったくらいだったし、オー・ヘンリーという名前は知らなくても、いくつかの短編のあらすじくらいはだれでも知っていた。
「なにしろ、おもしろくて、ストーリーがはっきりしていて、だれにでもわかる、そして、短くて感動的だ!」
オー・ヘンリーというのは、読者をあっといわせるようなアイデアが次から次にわいてくる不思議な頭の持ち主で、そのうえ人の気持ちをつかむのが驚くほど上手で、さらに文章がうまい。一種の天才だと思う。その作品は、形を変えて映画やTVドラマで何度もくり返し使われてきた。また、フレドリック・ブラウンや星新一などのショート・ショートも、オー・ヘンリーがいなかったら生まれていなかったはずだ。映画、TV、小説などの世界にこれほど大きな影響を与えた作家も少ないだろう。また「よみがえった良心」など、実際に芝居になった作品も少なくない。
「なにしろ、おもしろくて……」なのだから。

さてオー・ヘンリー(O.Henry)は一八六二年、アメリカのノースカロライナ州生まれ。子どもの頃から本が大好きで、とくにチャールズ・ディケンズが気に入っていたらしい。おそらく『クリスマス・キャロル』とか『オリヴァー・ツィスト』といった、ユーモラスで、感動的な物語が好きだったのだろう。しかし上の学校へはいけず、十五歳から社会に出て、やがてテキサスにいって牧場で働いたり、銀行で働いたりするが、そのうち「ローリング・ストーンズ」という週刊の新聞を創刊する。そして、その頃に結婚。が、新聞はあまり売れず、新聞社をたたんで、新聞記者になり、風刺のきいた記事と絵で評判になる。しかし銀行時代のことで訴えられ、中南米に逃亡。ところが妻が危篤という知らせをうけて、アメリカに帰り、逮捕され、刑務所に収容される。罪状は銀行の金を使いこんだということだが、実際に使いこんでいたのかどうかはわかっていないし、本人もこの件に関してはあまり話さなかったらしい。ともあれ、刑務所の生活はかなりひどいものだったらしいが、ここで本格的に小説を書き始め、数年後、出所するとニューヨークに出て、小説家としてデビューする。四十歳そこそこである。そして南米や西部をはじめ、さまざまな場所を舞台にした作品を書くが、なんといってもニューヨークを舞台にしたものが多い。この短編集でとりあげたものも、やはりニューヨークの物語が中心になっている。オー・ヘンリーはニューヨークの街をすみずみまで知っていて、心から愛していたのだろう。
こうして十年間のうちにおよそ三百ほどの短編を書いて、一九一〇年この世を去った。
オー・ヘンリーの短編は、ユニークな発想、心温まるユーモア、あざやかなオチ、と三拍子そろったものが多く、世界各国でたくさんの人々に愛されてきた。
ここに訳した作品には、短編小説の楽しさ、おもしろさがぎっしり詰まっているはず。
どうぞ、ゆっくり味わってみてください。
二〇〇一年 五月五日 金原瑞人