あとがき大全(35)

【児童文学評論】 No.76     2004.04.25日号

           
         
         
         
         
         
         
    
1.瀬戸川猛資さんとトパーズプレス
 アメリカにウィリアム・スリータという、とてもいい作家がいる(Kanehara's favorite)。ヤングアダルト(ジュヴナイル)むけにSFや、スラプスティックな(スプラターと間違えないように)作品を書いている人で、発想もすごいし、語り口もうまいし、構成も抜群。日本ではあまり知られていないのが不思議なくらい……いや、そう不思議でもないか。『チャーリーと真実のどくろ』など〈マジック・ショップ・シリーズ〉のブルース・コウヴィルだってあまり知られてなかったし、『ホエール・トーク』のクリス・クラッチャーだって、日本ではほとんどだれも注目していなかった。
 ニューベリーとかカーネギーとかといった賞をもらった作品はすぐに出版社が検討するし、ほかの児童文学愛好家がこぞって買って読む。しかし『豚の死なない日』(リチャード・ニュートン・ペック)や『青空のむこう』(アレックス・シアラー)も、そんな賞は受賞していない。これから翻訳をやりたいと思っている人にひとこと。有名な賞をもらった作品はいろんな出版社やいろんな人が目を通しているわけで、そんなものを後追いの形で追いかけてもまず収穫はない。自分の好きなジャンルをこつこつ、まめにさがすのがいい。金原のやってきたのは基本的には落穂拾いか、あるいは、だれも手をつけようとしないマイノリティ、エスニックの部分である。
 ところで、ウィリアム・スリーター、何作かは訳されていて、そのうちの一冊が『インターステラ・ピッグ』。おそらくスリーターの代表作といっていいジュブナイルSFだ。
 これについてちょっと書いておきたい。じつは、この本を出したのはトパーズプレスという出版社で、社長は瀬戸川猛資さん。まあミステリ、映画に興味のある人でこの名前を知らなかったら、ちょっと反省していい。両分野の批評で非常にいい仕事をしている人である。この瀬戸川さんが、ええい、自分の出版社を立ち上げてやれとばかりに作ったのがこのトパーズプレス。メタローグを立ち上げた安原顯と似たところがあった。
 その瀬戸川さんからポール・ジェニングズの作品がかなり売れたので、「とにかくおもしろい本のシリーズを出したいんだけど、なにかいい作品がない?」という問い合わせのきたのが、90年代の後半かな。それを取り次いでくれたのが、イラストレーターのひらいたかこさん。ともあれ、新宿は京王プラザの喫茶店で、ひらいさん、瀬戸川さん、金原の三人で集まって、あれこれ言い合って、そのうち金原の提案したのがペネローピ・ファーマーの『イヴの物語』とスリーターの『インターステラ・ピッグ』の二冊。
 うわー、めちゃくちゃ作風ちがうじゃん! なに、この取り合わせは? などと驚かなくてよろしい。両作品の共通項は「おもしろい」なんだから。金原はその両方のおもしろさがわかる度量の広さが売りである。
 瀬戸川さんは要約を読んで、多いに気に入ってくれ、「両方、行きましょう」と、ゴーサイン。このとき金原の心づもりでは、『イヴ』は斉藤倫子さんとの共訳で、『インターステラ』は金原の単独訳で、という予定だった……のだが、齋藤さんに『イヴ』の原書を送って相談してみたところ、「性的な描写がかなり出てくるし……」という返事。まあ、ある意味、齋藤さんらしい。そこですりあわせをして、『イヴ』は金原が訳して、そのつきあわせを齋藤さんが、『インターステラ』は齋藤さんが訳して、そのつきあわせを金原が、ということになった。
 とりあえずはめでたい。
 ところで、トパーズプレスの瀬戸川さんは1999年、突然亡くなってしまった。五十歳。
 ジュンク堂書店の通販を調べてみたら、トパーズプレスから出ている翻訳物ではほかにこんなものが出ている。
『魔女の館』(シャーロット・アームストロング著 近藤麻里子訳)
『狩人の夜』(デイヴィス・グラッブ著 宮脇裕子訳)
『海の狼』(ジャック・ロンドン著 関弘訳)
『雨の午後の降霊術』(マーク・マクシェーン著 北澤和彦訳)
『やってられない物語』(ポール・ジェニングス著 谷川四郎訳)〈ジェニングスの作品はほかにも数冊出ている〉
 さすがに、瀬戸川さんらしいラインナップだと思う。
 またこの他にもトパーズプレスからは評論やノンフィクションも出ている。
 ついでに書いておくと、このトパーズプレスの本、まだなんとかネットの書店で入手できる。ちなみに『インターステラ』も在庫わずかとか。また『イブの物語』も出版当時、齋藤美奈子さんが朝日新聞で取り上げてくださった傑作。これを機に、ぜひぜひ手にとってみていただきたい。
 考えてみれば、金原も今年、五十歳。しっかりいいものをさがして翻訳しなくちゃ。

2.設定年齢と精神年齢とのギャップ、という問題
 さて、ここで翻訳の話に移ろう。
 そんなわけで二冊がトパーズプレスから出ることになったのだが、『イヴ』のほうはさておき、問題は『インターステラ』のほう。齋藤さんの訳文を読むと、どうも主人公の男の子の口調が幼い。高校生という設定なのだが、どう読んでも中学生くらい。ううーん、困った。というわけで、齋藤さんにもそれは伝えたのだが、結果としてはやっぱり、いささか幼い感じはぬぐい得ない。
 そのとき、どうしてだろうと考えてみたのだが、全体の設定がやっぱり高校生向けの本というよりは中学生以下向けの本で、主人公の科白も行動もそのあたりの感じなのだ。なら、いっそ中学生を主人公にすればよかったのに……という感じの作品。
 これだと、どうしても主人公は幼く読めてしまうし、そういう具合に訳す以外にないのだ。これをいかにも高校生っぽく、少し大人っぽく訳すと、ばかみたいになってしまう。こりゃ、しょうがないよなと思ったものだ。しかし作品は作品としてとてもおもしろい。
 なんでこんなことを書いたかというと、ちょうどいまウェンディ・マスの『マンゴー』(仮題)という作品を訳し終えたところで、同じことを考えているからだ。
 主人公が共感覚者(数字や文字が色とともに見えてしまう。たとえばLは青く光る黒、とか)の女の子で十三歳。といっても共感覚者というのはある意味、ひとつの仕掛けであって、かなり変わった知覚を持つ女の子の心の動きをうまく捉えているのがこの作品の魅力。しかしちょっと困った。
 これは小林みきさんに下訳をお願いした。なんとなく文体が近いような気がしたからだ(小林さんとは今年、ドナ・ジョー・ナポリの『クレージー・ジャック』(青山出版社)で共訳をお願いすることになっている)
 そして最初、小林さんの訳文をみたとき、「あ、幼いかな」という感じがした。十三歳の女の子にしては、なんとなく口調が幼い。そこで、少し大人っぽく変えてみようとしたところ、これがどうもうまくいかない。考えてみれば、しゃべっている内容や行動が子供っぽいのだから、しょうがないのだ。
 『インターステラ』といい『マンゴー』といい、作品の登場人物の年齢設定がなんとなく、いまの日本ではちぐはぐなところがある。こういう場合どうするかというと、それはその人物の精神年齢に合わせる以外にない。十三歳なのにとか、高校生なのにとかいわれたって、しゃべってる内容が内容なんだから、しょうがないのだ。まあ、そのへんは目をつぶってもらうしかない。逆に、これを高校生らしい口調にしてしまったら、それこそ変になってしまう。
 『理由なき反抗』を観たとき、アメリカの高校生ってむちゃくちゃ大人っぽいなあと思ったものである。なにしろ、スーツ着て、車運転するし。ナイフで喧嘩するし。うけた感じは、日本の暴走族なんかよりずっと大人っぽい。しかし一方で、またこんな幼い感じの高校生が登場する作品もある。


2.再び再び、ひっくり返らないということ
 いったい何度、このテーマを繰り返すのだろうと自分でも不思議なのだが、考えれば考えるほど、これは翻訳の本質にかかわっているような気がして、ついつい、そういう例があるたびに紹介したくなってしまう。
 じつはこの数年、板橋区絵本翻訳コンテストの審査員を冨田さんといっしょにつとめている。このコンテスト、これでもう10回目。以前はこのほかに山形県のものもあったし、バベル絵本翻訳大賞もあった。が、いまはどちらもなくなってしまった。寂しい限りである。
 ところでこの板橋区のコンテスト、今回の課題は Jane Simmons の Where the Fairies Fly というかわいい絵本。主人公はルーシーという女の子。ルーシーはお話をするのが大好きというくだりがあって、そのあと次のように続く。
She told deep blue sea stories to Mum...
flying up high in the sky stories to Dad,
and magic stories to her little brother Jamie.
 驚いたことに、ここの部分の訳、次のような感じのものが圧倒的に多かった。
「おかあさんには ふかくて青い海のお話を
 おとうさんには 空たかくとぶお話を
 そして弟のジェイミーには魔法のお話を」
 誤訳かといわれれば、「いや、誤訳ではない」と答える……が、どうしても引っかかってしまう。
 ちょっとゆっくり英語を朗読してみよう。たぶん、こんな感じではないだろうか。
She told deep blue sea stories・・・to Mum...
flying up high in the sky stories・・・ to Dad,
and magic stories・・・ to her little brother Jamie.
 つまり、日本語にするとこんな感じかな。
「ふかくて青い海のお話は……おかあさんに
空たかくとぶお話は……お父さんに
ふしぎなお話は……弟のジェイミーに」
 (……)の部分はちょっと間を置くところで、(いったい、だれに話してあげるんだろうな)と、読者の気持ちを引っぱるところ。
 だとすると、最初から「おかあさんには……」と持ってきては、なんか違う。やっぱり、こういう感じは大切にしてほしいと思う。

3.なぜ英語を日本語に訳すときにはひっくり返ってしまうか
 これは難しい。ひとつの理由は、文法的な構造が違うからである。
 「父と母は浅草にいった」をそのまま英語にすれば、"Father Mother Asakusa go." になってしまう。しかし英語ではそうはいわない。"go to Asakusa." になる。しかしこれを、関係代名詞や分詞構文までに使ってひっくり返るように訳すのは、おそらく漢文の訓読からきているのだと思う。ところが、ここで注意したいのは、漢文の訓読というのはあくまでも初心者が漢文を読むための便宜的な練習方法であって、江戸時代でも明治時代でも、上級者はそのまま目で追っていったはずで、わざわざ訓読みしなかったはずである(と思う)。いってみれば、英語を読み慣れてくると、頭からすいすい読んでいけるわけで、いちいち、関係代名詞があるたびにひっくり返って意味を取って、それから次にといった読み方をしないのと同じである。
 ところが、漢文の場合、結局この訓読法がそのまま活字になって流布してしまった。いうまでもなく、それは漢文の読めない初級者のために、である。この初級者のための訓読(翻訳)がそのまま漢文の翻訳として定着してしまったのが、そもそものはじまりのような気がする。
 しかしおもしいことに漢詩をみると、そうはなっていない。漢詩は一行ずつ訓読するようになっていて、決して次の行とひっくり返ることはない。ところが、それが叙述の文章になってくると、かなり大規模な工事が行われるのである。
 たとえば……と思って、昔使った覚えのある(勘違いかも知れないけど)『詳解漢文』(中西清・月洞譲/昇龍堂)を買ってきて、ざっと目を通したところ、そういう例はほとんどないことがわかった。「一・二・三、上・中・下、甲・乙・丙・丁、さらに、天・地・人」といった記号まで使った訓読法があるものの、案外と頭から読むようにできている。
 あれ、困った……というわけで、この章、続きはまた次号か、その次くらいに。

4.あとがき
 今回、あとがきはふたつ。
 アレックス・シアラーの新作『チョコレート・アンダーグラウンド』(求龍堂)とローリー・ホールス・アンダーソンの『スピーク』。『チョコレート・アンダーグラウンド』のほう、短いのは、そろそろシアラーについて書くことが少なくなってきたから。

   訳者あとがき(チョコレート・アンダーグラウンド』
 思い切り感動の『青空のむこう』、スリリングで胸をうつ『十三ヵ月と十三週と十三日と満月の夜』、そしていよいよ第三弾はこれ!
 書くたびにテーマも内容も変わっていく天才作家アレックス・シアラー、この『チョコレート・アンダーグラウンド』もまた、いままでのものとはがらっと変わった作品だ。
 舞台は、名前は明らかにされていないが、おそらく現代のある国。そこで政権を握った「健康健全党」が、国民すべての健康のために、チョコレートをはじめとする甘いお菓子をすべて禁止してしまう。そしてこれに違反した者は逮捕され、罰金をはらわされ、強制的に恐ろしい教育をほどこされることになった。
 これに怒ったふたりの少年、スマッジャーとハントリーは、この悪法と戦おうと立ちあがる。そして新聞雑誌やお菓子をあつかっていたバビおばさんがふたりに協力して、三人の抵抗運動がはじまる。
 さて、三人はどういう戦いをいどむのか、そして冷酷な政府を相手に勝算はあるのか。
 書くたびに作風の変わるシアラーだが、この本にもシアラーらしさがしっかり表れている。ユーモラスでコミカルで、楽しくて、ちょっと恐い、だけど、最後は勇気がわいてくる、そんな本なのだから。
 「チョコレートが禁止されるなんて、そんなばかな」と思っている人は、この「チョコレート」を「自由」と置き換えてみてほしい。すると、ぞっとしないだろうか。どうせ選挙にいったって、結果は変わりはしないんだからといって無責任なことをいっているうちに、思いがけない政府が誕生するかもしれない。
 読者の方からの感想をいくつか。
・この本は「チョコレート」と同じように元気をくれる栄養剤のような本だと思った。何度も繰り返して味わいたい。シリアスな(ビターな)部分あり、ワクワク感の詰まった甘い(ミルクの)部分もあり、最高な一冊でした。
・「お金のためじゃなく、希望を残すためにやりたい」そんな純粋で真剣な思いのために行動できるって、いいなぁと思います。
・「あー!! 今、チョコが食べたい!!!」という気もちになります。

 最後になりましたが、読者モニターの方々、編集の深谷路子さん、翻訳協力者の菊池由美さん、原文とのつきあわせをしてくださった宮坂聖一さんに心からの感謝を。
二00四年三月三十一日
                金原瑞人

   訳者あとがき
 Speak。
 いいタイトルだ。そこでなんとかうまく、この作品にぴったりの日本語のタイトルをつけようと頑張ったのだが、どうしてもだめだった。
 Speak。
 主人公は「話せない」女の子、メリンダ。といってもしゃべれないのではなくて、「あのこと」を話すことができない。心に深い傷を負うことになった、あの事件を。友人にも、両親にも、先生にも、だれにも話せないまま、彼女は高校生になった。
 そこからこの作品は始まる。
 あの事件の真相を知らない元友人からは冷ややかな目でみられ、ある転校生とは知り合いになるけれど、その仲もぎくしゃくしてしまう。やがて、あの事件の張本人も同じ高校に入学していることがわかってくる。
 そうしたなかで次第に自分の殻に閉じこもっていくメリンダの気持ちが書かれていく。といっても、ただただ暗い作品ではない。メリンダはユーモラスに、ときにはちょっと皮肉っぽく、学校のことや仲間のことや家のことを書き留めていく。それもまさに現代の高校生の生き生きとした言葉で。おそらく、日本の読者も、このメリンダの感じ方、メリンダの言葉には、思い切りうなずくのではないかと思う。
 もちろん、それはアメリカの女の子もまったく同じで、アマゾンドットコム(合衆国のインターネットによる本の通販会社)には読者からのコメントがとてもたくさん寄せられている。「絶対に読んで!」とか「大人にも読んでもらいたい!」といったもののほかにも、「とてもリアル」とか「すごくよくわかる」といったものも多い。それは、新入生の不安や、高校生活や、仲間からつまはじきにされた女の子の気持ちが、メリンダの歯切れのいい言葉で驚くほどうまく映し出されているからだろう。
 そして次第に孤立していきながらも、メリンダは必死に自分をつかもうとする。そこでは美術を教えている風変わりな先生や、横暴な教師に断固として立ち向かう男の子がいい味を出している。
 はたしてメリンダは「話す」ことができるのか。
 おそらく読み出したら、途中でこの本を置く人はほとんどいないだろう。そして最後まで読み終えたら、思わず歓声を上げたくなると思う。
 そう、思い切り元気の出る本多。
 これほどに魅力的な青春小説には、なかなか出会えない。

 ローリー・ホールス・アンダーソンはこれまで数冊絵本を出していて、長編小説はこれが初めてだが、この本一冊でずいぶん多くの賞を受賞している。これからの活躍が楽しみだ。

 さて、最後になりましたが、編集の津田留美子さん、翻訳協力者の豊倉省子さん、原文とのつきあわせをしてくださった段木ちひろさん、英語に関する質問にていねいに付き合ってくださったカレン・滝川さんに心からの感謝を。二00四年四月二十日          金原瑞人

5.その他
 じつは4月1日から6日までフロリダ州マイアミにいってきました(というか、マイアミの本屋にいってきた) そのときのことをエッセイにまとめたので、HPに載せます。写真も一緒に。
 おそらく4月中か、5月の上旬くらいまでにはアップできると思います。