あとがき大全(47)

金原瑞人

           
         
         
         
         
         
         
    

1.おわび
 三月のチャールズ・オグデンの『世にも奇妙な動物たち』(松山さんと共訳)以来、新刊が出ていないうえに、前回の「あとがき大全」が休みというわけで、「だいじょうぶですか?」「まさか、病気?」といったメールがあちこちからきて、あ、ごめん、という感じ。すいません。
 じつは、先月、今月、来月と、異様にハードなスケジュールで、時間があまり取れない。理由はいくつかあって、ひとつは四月から始まる大学を軽く見過ぎていたということ。昨年度サバティカルで、のんびり翻訳をしたり、資料や本を買いに海外にいったり、論文のひな形を作ったりしていて、今年の四月から大学に復帰したのだが、これが思いのほか重い。大学の授業そのものは、例年通りでたいした負担にはならないものの、うちの学部、なんと来年度からカリキュラムを大幅に変えることになっていて、そのための準備やら会議やらが次々に飛びこんできた。こちらは昨年度、大学にいなかったものだから、そのへん、事情もよくわからず、右往左往。そのうえ、ほかの委員会もあり、また入試問題の作成も始まって、右往左往×2。そのうえ、じつは、昨年末、飛びこみの仕事をふたつ、いろんな事情があって引き受けてしまった。
 ひとつは、カプコンというゲーム会社から出る予定の『シャープ・ノース』の翻訳。去年末に依頼があって、今年の三月には出したいとのこと(こちらは期日までになんとか上げたのに、出版社の都合で、結局、本が出るのは六月になりそう) 訳し上がりは、原稿用紙にして900枚。ストーリーはとても面白いんだけど、あまりに時間に余裕がなさすぎ。あ、無理、無理、という感じだったのだが、声をかけてみたら、大谷さんが共訳者として名乗りを上げてくれ、さらに石田さんがつきあわせを担当してくれるということになり、なんとなく引き受けてしまった。この、「なんとなく」というのが曲者で、引き受けてしまってから、「あれ、だいじょうぶかな?」
 というのも、考えてみると、昨年、『大地の子エイラ』第四部の翻訳を引き受けてしまったのだった。これは大久保寛さんが訳すことになっていたのが、入院とかで、急遽ピンチヒッターが必要となり、編集の木葉さんからこちらに話がきて、なんとかならないかとのこと。じつは、『エイラ』の第二巻の書評、ずいぶん昔に「図書新聞」に書いていて、ちょっとなつかしい作品だ。『スカイラー通り19番地』の下訳をしてくださった小林さんに共訳でどうかと打診してみたら、頑張ってみるとのこと。訳し上がりが、おそらく2700枚。上中下の三巻本で出ることになっている。一巻、約900枚。というわけで、現在、900枚の本四冊に追いまくられている始末。
 はっきりいって、だめそう。どれかが犠牲になりそう。あ、犠牲になった本の編集者のかた、ごめんなさい。
 とか言いながら、今月もなぜか、ちゃんと、カエターノ・ヴェローゾのコンサート、芝居(『王女メディア』)、文楽(『桂川』、落語(『桂文我、独演会』、映画(『Little Birds』)、歌舞伎(夜の部)には行く。とくに歌舞伎は勘三郎の最後の襲名披露。3月の襲名披露、17日のチケットを昼夜取っておいたところ、福岡から講演のお呼びがかかり、キャンセルして飛行機で行っちゃったこともあり、今月ははずせない。それに、もう四年も習っているわりにちっともうまくならない三味線のおさらい会もあるし。来月は講演がふたつに、なんと二泊三日のゼミ合宿もあるし。それに来月はコクーン歌舞伎もあるしなあ。こんなことでいいんだろうか。
 しかしまあ、今までもこれでやってきたんだし、どこかに迷惑をおかけして、すいませんとあやまってきたことだし、首をくくることもあるまいと、腹をくくっている。
 という、おわびにもならない、おわびですが、どうぞ、これからも、ごひいきに。

2.共感覚
 じつは、うちのHPに法政の卒業生、細川さんからメールがきた。ウェンディ・マスの『マンゴーのいた場所』(金の星社)を読んでの感想。というか、彼女自身が軽い共感覚の持ち主らしい。そこでちょっとたずねてみたら、返事がきたので、ご紹介を。

> あ、そうそう、ぼくのアメリカの知り合いが、共感覚についてのドキュメントをとってる。不思議な人がいるもんだなと思ったんだけど、細川さんがそれ?

私の場合は、『マンゴー…』のミアほど強くはないですけど。というか共感覚と確実にいえるかどうかもちょっとアヤシイですけど(苦笑)
数字と文字に色がある感じですかね。文字は組み合わせによって変わったりしてそんなに確実じゃないですけど数字は確実です。
小さい頃は一桁の足し算を色で丸暗記してたので「計算」が理解できずに算数苦手でした(^^;
白+茶、赤(ピンク系)+緑、黄緑+黄、赤(朱色系)+グレイ、青+青、これらが全部10でグレイ+緑、黄+黄、青+茶が14で…といった感じです。
(ようするに1から9まで順番に白、赤(ピンク系)、黄緑、赤(朱色系)、青、グレイ、黄色、緑、茶となっています。0はもっと透明な白っぽい色)
人の誕生日とか、歴史の年号とかは色の印象で覚えてましたよ。
誕生日は覚えるのかなり得意です。
音に関して言えば、ミアのように生活の雑音にすら色がみえてしまうようなことはなく、かなり限定されます。たいてい合唱だったりオーケストラだったりクラシックの楽器や音楽でハーモニーがきちんとしている音楽である場合がほとんどです。
今までは私自身が絵を描く人間だからそういうのが見えるんだ、くらいにしか思ってなかったのですが…これも共感覚の一種になるのでしょうか? そのへんはよくわからないですね。
私も針療法でもやってみようかしら(笑)
ではではまた!

 細川さん、ミアと同じように絵が好きで、なんと、イラストレーター。興味のある方は、「絵描き屋URL:くじら亭画廊(http://www.kujira-tei.com)」を訪ねてみてほしい。

 じつは、この「共感覚」、『マンゴー』を訳す前から、知っていた。というのも、サンフランシスコで知り合った角谷くん(当時、映画を撮る勉強をしに留学中で、現在もサンフランシスコでバイトをしながら、CMを撮ったりしている)から、「金原さん、共感覚って、知ってはりますか? それについてのドキュメントを撮るんですけど……」というメールがきた。なんだそれ、と思って調べてみたら、色々とわかってきたんだけど、はっきりいって信じられなかった。それから一年くらいして、金の星の編集者、東沢さんから、すごくいい本なので、読んでみてと送られてきたのが『マンゴー』。これはもう訳さないわけにはいかないだろうと思ったのだった。それを角谷くんにメールで知らせたら、「妙な縁ですね、面白そうだから読んでみます」という返事がきた。それが、細川さんとこまでつながるとは。
 じつは細川さん、ぼくの教え子ではない。法政大学も昔は、夏休みを利用しての一ヶ月の海外語学研修というのを行っていて、ぼくも一度その引率をまかされたことがあって、そのときの学生のひとり。場所は、真夏だというのに、なんとテキサス州ウェイコウ(Waco)のベイラー大学(ロバート・ブラウニングを記念したブラウニング図書館があるので有名)。いや、暑かった。昼間は40度くらいになるし。朝方、青かった芝生がみるみる枯れていく。
「いや、金原くん、テキサスはたしかに暑いけど、乾燥しているから意外と平気だよ」とかいわれていったのだが、40度は40度である。それにウェイコウという町は、昔、テキサスから北へ牛を売りにいく途中にあった宿場町で、かつてはにぎやかだったらしいが、いまはさびれていて、あまり見るところもない。ただおもしろいのは、ドクター・ペッパーという炭酸飲料水ができたところなので、ドクター・ペッパー・ミュージアムがある。
 そういえば、このときは色々あった。ベイラー大学に着いてすぐに、ひとりの男子学生が額を数針縫うけがをした。事情をきいてみたら、ベッドから飛んだら、額がドア枠にぶつかったという。やれやれ。彼は、グランドキャニオンあたりで抜糸をした……と記憶にはある。
 まあ、そのうち、詳しく書くとしよう。

3.差別語
 5月29日、NHKホールで「NHK古典芸能鑑賞会」というのがあって、出しもののひとつに『酒餅合戦』というのがあるという。なんか、よくわからないけど、酒と餅がけんかをして、大根が仲裁に入るとかいうナンセンス物らしい。杵屋正邦作曲の、長唄と常磐津と義太夫のかけあいが楽しいとのこと。女流義太夫の三味線を弾いている寛也さんがそれに出演するというので、楽譜を見せてもらったんだけど、歌の部分にチェックが入っていた。
 「酒は気違い水と……」の部分の「気違い」が変えてあったのだ。そう、放送されるものについては、かなり厳しい言葉のチェックがある。「気違い」は使えない、というわけで、ほかの言葉に置き換えてあった。
 おもしろいことに、芝居、文楽、歌舞伎、落語など、その場限りのものについては、差別語の規制はまったくない。あるとき、桂文我さんが「この話には差別語が出てきます。差別語というのは放送されるときには使ってはいけないということになっています。ということは、ここでは使えるということです」と断って、堂々と使っていた。また先月、蜷川幸雄演出による、アーノルド・ウェスカーの『キッチン』(小田島雄志訳)では、「気違い」がキーワードとして頻繁に出てくる。「もうひとり気違いを連れてくるんだな」(うろ覚えながら)というふうな科白が堂々と出てきた。
 大人計画の『イケニエの人』という芝居でも「きちがい」はとても大きな役割を果たしていて、この言葉がなかったら、この芝居は成立しない。もちろん、この芝居はオンエアーされることは絶対にない(はず)。
 じつはこういった差別語と呼ばれる言葉はずいぶんたくさんあって、「めくら」「びっこ」「いざり」「せむし」などの身体障害に関するものから、「屠殺」「穢多」といった部落差別に関するものまで、まあ、リストアップすれば一冊の本ができるくらいある(そういう冊子も実際にある) ついでに書いておくと、これらの言葉は、ワープロソフトからも除外されていて、漢字に変換できない。だからよく使う場合には、自分で単語登録することになる。
 寛也さんが、古典芸能について目についたものをリストにして送ってきてくれたので、紹介しておこう。

@文楽の例 
奥州安達が原 三段目 環の宮明御殿の段(通称・袖萩祭文の段)
NHKのテレビ放映のさい、以下のところを、カット・変更しています。
S57・10大阪朝日座公演 録画
演奏―竹本越路大夫・鶴澤清治
浄瑠璃に出てくる順に、
(@)カット「親に背いた天罰で目もつぶれたな」の「目もつぶれたな」
(A)カット「不幸の罰で目はつぶれる」
(B)言い換え「非人の子」→「不憫の子」
(C)カット「生れ落ちると乞食さす子を」
(D)言い換え「盲(めくら)」→「めしい」
以上です。
なお、「物貰い」「目無鳥」はそのまま放送されました。

国立劇場制作課の方に、先日聞いたところによると、
○国立劇場での上演は、原作(改作も含む)主義で、差別語などの規制は一切しない。
○NHKの放送のときは、NHKの放送コードにより、規制がある。
とのことです。

A歌舞伎の例
NHK中継(ナマ中継です。最近、生中継は死語ですね。年がばればれ・・・)の時、『助六由縁江戸桜』の海老蔵の助六が(襲名のときです。えっと去年?)、失念しましたが、何か放送コードに引っかかる事をいうのですが、海老蔵のマイクのみを切って、全体を拾うマイクは入っていたとみえて、遠い感じですが聞こえていました。まったく切る、とか、ピーを入れるのではない、苦肉の策と見えました。

 今回、時間に余裕がないので、この差別語については、次回に続く、ということにしておきたい。
 ただ、翻訳家としていわせてもらうと、まず、英語にはこういった言葉の規制はない。'blind, cripple, crazy, lame, hunchback, butcher' といった言葉はごく普通に出てくる。じゃあ、こういった英語の単語に差別意識はないのかといえば、ないはずはない。ある。
「あら、あんたの娘、めくらなの?」
「そういう言い方って、無神経じゃない」
 といったふうに出てくる。だからといって、そういう言葉を画面や紙面からなくそうという方向性はほとんどない。そういう言い方をする人間の差別意識を表現するには最も効果的な方法なのだから。ところが、こういった場合でも、日本の児童書の出版社は、たじろいでしまう。
 'hunchback' を「リーダーズ英和辞典」で引くと、「せむし。猫背の人」と出てくる。えらい。そして'Hunchback of Notre Dame' を引くと、『ノートルダムのせむし男』と出てくる。えらい。これはヴィクトル・ユゴーの歴史小説『ノートルダム・ド・パリ』のことなのだが、欧米でも日本でも、とくに子ども向けの場合、『ノートルダムのせむし男』として親しまれてきた。
 これがディズニープロでアニメ化された。邦題は『ノートルダムの鐘』。おいおい、またかよ、と、英語の原題をみたら、'The Bell of Notre Dame' とあった。なんだ、アメリカでもタイトルを変えてたんだと思ってしまった。が、森達也の『放送禁止歌』(光文社文庫)を読んで、驚いた。彼もまったく同じように考えたらしいのだが、そこをしっかり調べるところが、ぼくと違う。えらい。以下引用。

「しかしそうではなかった。調べてみたらアメリカでのタイトルは、原題 'The Hunchback of Notre Dame' のままだった。日本の配給会社は、邦題ばかりかビデオパッケージに表記する原題まで、ご丁寧に変更したわけだ。それもあの著作権管理に世界一うるさいと評判のディズニーを相手に。それだけの情熱とエネルギーがあるのなら、表現と規制について、もっと突き詰めて考える時間だって作れたはずだと思う。」

 この文庫本になった『放送禁止歌』、なんと、2000年に解放出版社から出ている。どんな内容かというと、岡林信康の『手紙』や赤い鳥の『竹田の子守歌』など、放送されなくなった歌がたくさんあるけれど、なぜ放送されなくなったかと追ってみたら、なんのことはない、ほとんどが放送局の自主規制であって、ほとんどどこからもクレームなんかついてなかった、というもの。
 ぼくが中学生の頃は、フォーク全盛の時代で、みんなでこういう歌を歌っていた。『竹田の子守歌』なんかは、ある意味、スタンダード。ところが、ある時を境に、さっぱりきかれなくなった。竹田というのは、京都市竹田地区のことで、被差別部落。それが原因だというのは、よく指摘されるけれど、もっと詳しく知りたければ、ぜひ、この本を読んでみてほしい。差別とは何かという問題に、とても明解な答えが出されている。
 それから、この歌に関して、もうひとつ付け加えておくと、じつはぼくも昔からよくわからなかった部分があって、それについて、詳しく書かれているのが印象的だった。問題の部分は、次の箇所。

早もゆきたや、この在所越えて
向こうに見えるは 親の家

 当時よくいわれたのは、「在所」というのは「未解放部落」ということだった。しかし、この子守が被差別部落の子で、部落以外のところに子守にやってきているとしたら、「この在所越えて」は、なんとなくおかしい。じゃあ、この女の子は、部落以外の所から、この竹田にきて子守をしている……まさか! これについて、森達也も同じような疑問を持ったようで、そのへんも詳しく書かれている。
 とまあ、書き出すときりがないので、あとは次回に回すけど、最後にひとついっておきたいのは、児童書の出版社も、せめて「四つ足の動物」とか「四つんばいになって」という表現くらいは使わせてほしい、ということだ。
 知らない人のために付け加えておくと、「よつ」というのは、差別語に分類されているらしい。少なくとも、児童書の出版界ではそう考えている。
 最後の最後に、ぜひ森達也の『放送禁止歌』(光文社文庫)、読んでください。

4.あとがき(『四つの風、四つの旅』『トラウマ・プレート』)
 というふうな差別語の話をして、「四つ」は差別語だよとかいっておいて、この本のタイトルは『四つの風、四つの旅』(ローニット・ガラーポ作、ソニーマガジンズ)なのだ。正直いって、この本、解説するのが難しい。そして金原自身、感動しているかというと、そこもよくわからない。ともあれ、妙な本で、妙に気になる本なのである。
 それから、もう一冊、『トラウマ・プレート』(アダム・ジョンソン作、河出書房新社)。これはとてもとてもお勧め。ただし、一般書であって、ヤングアダルト物でも児童書でもない。中身はかなり強烈だ。やけどに注意。

   訳者あとがき(『四つの風、四つの旅』)

 長いこと翻訳の世界にいると、思いがけない本に出会うことがある。たとえば、この本。『四つの風、四つの旅』(Strong Winds from Nowhere、そのまま訳せば『どこからともなく吹く強い風』)が手元に送られてきたときには、戸惑ってしまった。なにしろ、十八の穴が空いた紙を、背で針金でとめてある。内表紙の下を見ると、'Tel-Aviv 69080, ISRAEL' と書いてある。まだ校正途中の仮とじかと思って問い合わせてみたら、完成品とのこと。なにより驚いたのは、文字が鮮明でくっきり浮き上がっていて、字面がとても美しいことだ。指でなぞってみたら、もうほとんど日本では見られなくなった活版印刷だった。
 この作品は、こんなふうに始まる。その年の冬はことに厳しく、作物はすべて枯れてしまった。村では長老たちが集まって、なにが原因だろうと話しあった。村人は働き者だから、怠惰が原因ではない。貧しいから、貪欲が原因でもない。醜いから、虚栄心も原因ではない――いや、ただひとり、美しい少女がいた。ターシャだ。そういえば、ターシャが生まれた春はとても美しかったが、あれ以来、そこまで美しい春は来ていない。ターシャが生まれた春、神々はこの村に美の扉を開いてくださったのに、ターシャが美をひとりじめしたのだ。ターシャが死ねば、村に美がそそぎこみ、幸運がもどってくるに違いない。しかし、春の第一日に生まれた者は、神聖だといわれる。村人はターシャを殺すのはやめ、世話をする者をつけて、村から追い出すことにした。祖父のシーヨンは世話役をひきうけ、ターシャとともに砂漠の旅に出た。
 さて、たぐいまれな美しさと特別な力を持って生まれた少女、ターシャは運命にしたがい、町から町へ放浪するうちに、世界に憎しみと恐怖が広がっているのに気づく。争いを避け、世界に愛をとりもどすため、ターシャは四つの風の王国にのりこむ……。
 なんとなく、ファンタジーっぽい。波瀾万丈の冒険が展開しそうだ。が、その手の作品を期待している人には、「読まないように」と自信を持っていっておく。
 これはいわゆるファンタジーではない。物語性も薄いし、物語の展開もほぼ最初から予想がつくし、起伏もほとんどない。ファンタジーというよりは、淡々と語られる「教えの書」といった感じだ。『アルケミスト』に似ていなくもない。
 自分がこれまでに訳した本のなかでは、ベン・オクリの『見えざる神々の島』(青山出版社)が、これにもっともよく似ている。しかしオクリの作品は、めくるめくようなイメージや禅問答のようなレトリカルな問答が飛びかうが、この作品は、言葉もイメージもわかりやすく平明で、少しも飾ったところがない。が、言葉や文のひとつひとつが、表面上の意味以外の意味をふくんでいる。ターシャの名前でもある「海にたどりつく者」に出てくる「海」という言葉にしても、「世界の果て」「イアン」「新しい世界」「愛」と、ざっと四つの意味が重ねられている。じっくり考え、意味を咀嚼しながら、一ページ一ページ大切に読まないと、この本の魅力は伝わってこない。
 つまり、そういう読み方のできる人には、とても魅力的な本ということだ。そういう読者には、ぜひ、ターシャといっしょに、心の旅をしてみてほしい。

 最後になりましたが、リテラルリンクの奥田知子さんと原文とのつけあわせをしてくださった片桐美穂子さん、多くの質問にていねいに答えてくださった作者のガラーポさんに心からの感謝を。
   二00五年四月十二日               金原瑞人

   訳者あとがき(『トラウマ・プレート』)

 久々にしんどい思いをした。これほど翻訳がつらかったのはベン・オクリのブッカー賞受賞作『満たされぬ道』以来かもしれない。ダン・ローズの『ティモレオン』や、J・T・リロイの『サラ 神に背いた少年』なんかも、しんどいといえばしんどかったが、これほどではない。
 とにかくこの作品は手強かった。すさまじい迫力、ゆるむことのない緊張感、突飛な発想、意表をつくイメージ、あちこちで噴き出す攻撃性、きついアイロニー、おおらかなユーモア、とにかく最初から最後まで圧倒され、翻弄され続けた。
 「サンドッグ」「ニューイングランド・レビュー」「エスクワイア」といった雑誌に掲載された短編を収録した、アダム・ジョンスンの処女作『トラウマ・プレート』は出版と同時に、「ニューヨーク・タイムズ」「サンフランシスコ・クロニクル」「サンフランシスコベイ・ガーディアン」「シカゴ・トリビューン」「エスクワイア」を初め数々の雑誌や新聞の書評でとりあげられ、絶賛された。まさに大型新人の登場である。
 ここに収められている九編、テーマも題材も設定も語り口も味わいもそれぞれにユニークでおもしろい。
 たとえば、「ティーン・スナイパー」は、パロアルト警察の狙撃班リーダーを務めている十五歳の少年が主人公。射撃の腕は天才的だが友達はいなくて、唯一の話し相手は、ROMSと呼ばれる爆弾処理ロボット。スコープ越しに標的の姿をとらえるとき、相手をよく知っているような錯覚に襲われることがある、この少年がふと恋をする……
 たとえば、「みんなの裏庭」は、警官を辞めて動物園の夜警になったマックと、ますます暴力的になり、手に負えなくなっていく九歳の息子との物語。マックは、増えすぎた動物を殺すという仕事もしなくてはならない。そのいやな仕事と、息子があるとき結びつく……
 たとえば、「死の衛星カッシーニ」は、毎週木曜日、癌患者のセルフヘルプ・グループのチャーターバスを運転しているベンの話。癌患者たちはカテーテルを挿しこんだ身体で夜の街に繰り出しては人々をぎょっとさせる。そんなある夜、ベンはグループに新しく加わったばかりのスーという女性と知り合う……
 たとえば、「トラウマ・プレート」ルースは両親が防弾チョッキのレンタルショップを経営しているため、毎日、防弾チョッキをつけて高校に通っているうちに、それなしでは不安でたまらなくなり、水泳部もやめてしまうが、ボーイフレンドができて……
 とりあえず四編ほど紹介してみたが、どれも強烈なインパクトをもって迫ってくる。プロットも構成も驚くほど巧みにできているが、なにより無駄のない文体が快い。どれも奇抜な設定ながら、どの主人公も普遍的な問題を抱えている。肉親や親しい人との別離、孤独、喪失感、トラウマ、不確かな未来に対する恐れ、自分の限界を超えられない閉塞感、いらだち、そういったものが奇妙なストーリーのなかで不思議な説得力をもって語られる。まさに現代の短編を読む快感がここにはぎっしり詰まっている。
 この短編集のなかで、そういった作品とはまったく色合いの違うものがひとつあって、これがまたすごい。タイトルは「カナダノート」。
 一九六三年、カナダ情報局の指示にしたがい、殺人光線の開発に取り組んでいた連中にもとに、ソ連が月ロケット打ち上げを計画しているという連絡が入り、カナダの有人ロケット開発を引き継げとの命令がおりるが、できあがったロケットがなんと、小さすぎて、だれも乗れそうにない、そこで……というふうなナンセンスSFなのだが、これがただのナンセンスでは終わらない。ばかばかしくも、なぜか爽快なヒロイック・ファンタジー風不条理劇になっていく。
 じつはアダム・ジョンスンの第二作目 Parasites like Us は、この短編を思い切りダイナミックに展開させたような長編なのだ。
 一万二千年前、初めて北米大陸にわたってきた人類、クロービス人。アメリカ中部で、彼らの槍先型尖頭器が発見される。発見した学生が、実験として、その槍先で豚を殺したことから、旧石器時代の恐ろしい疫病が発生。まず豚インフルエンザが発生して各地で豚の処分が始まり、アメリカは豚のアウシュビッツと化する。疫病はまたたくまに鳥に伝染し、そして人間へと。生き残ったのは……
 といった具合に、破天荒な物語が、強烈な皮肉と、抱腹絶倒のユーモアと、絶妙のペーソスをまじえて、展開していく。またそれを構成するユニークな登場人物たち。たとえば、エガーズ。いくつもの奨学金を受けている優秀な学生だが、論文のために一年間ほど旧石器時代の生活をしていて、食肉加工場でもらってきた動物の毛皮を着て、大学構内にマンモスの骨と動物の毛皮で作った小屋に住んでいる。そして、未来の科学者にあててこの物語を語る主人公もいい味を出している。この作品、ぜひ訳したい。が、訳すには、『トラウマ・プレート』の数倍の体力と気力を必要としそうなので、目下思案中である。
 ともあれ、まずはこの短編集、存分に楽しんでいただきたい。

 本書の翻訳についてひとつお断りしておきたい。じつは二人称の短編がふたつ入っている。欧米では、このような作品がたまにある。日本でもいくつか翻訳があって、今までは「君は」とか「あなたは」とか「おまえは」というふうに訳されてきた。しかし、これはあまりに不自然だ、ということで訳者ふたりの意見が一致した。もちろん、日本でも二人称の小説がないことはないが、欧米にくらべるとかなり少ない。それに日本語の二人称の小説と、英語の二人称の小説はかなり違う。そもそも英語において二人称は 'you' しかない。
 そこで作者と相談のうえ、二人称の短編は少し手を加えることにした。
 まず「死の衛星カッシーニ」は二人称の作品だが、一人称で訳した。
 次に「トラウマ・プレート」。原書はちょっと凝った構成になっていて、全体が三部に分かれている。第一部は父親の視点から、第二部は妻の視点から、第三部は娘の視点から描かれているのだが、それぞれ一人称、三人称、二人称で書かれている。翻訳ではこれをやめて、すべて一人称にした。作者からは、「それ、おもしろいかもしれない」という返事をもらっている。

 最後になりましたが、編集の木村由美子さん、原文とのつきあわせをしてくださった野沢佳織さん、質問や相談に快く応じてくださったアダム・ジョンソンさんに、心からの感謝を!

   二00四年三月三日               金原瑞人