【児童文学評論】 No.102 2006.06.25日号
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1.英語教育を語る いままで、こんなことおおっぴらに語ったことはないのだが、さすがに黙っていられなくなってしまった……のだ。 じつは、今年の一年生から、うち(法政大学社会学部)では、英会話の授業を廃止した。 現在の大学の英語教育の流れとは真っ向から対立しているのは承知している。 が、いまの日本で、多少でも英語にかかわろうとする人にとって必要なのは、英語の読解力だと思う。 もう二十年以上前から、日本における英語教育の文法・講読中心主義が批判され、会話中心の教育にシフトしてきた。そのかいあって、最近の学生は英語をきいたりしゃべったりすることに関しては、われわれよりはずっとうまくなっている。そしてそのぶん、読めなくなった。 問題はただそれだけといっていい。つまり、それがいいのかどうか、ということだ。 たとえば、ぼくの本年度担当している英語のクラス(35人くらい)で、「"so...that..." を知らない人、ちょっと手を挙げて」といったら、ふたりが手を挙げた……ということは、6、7人くらいはわかっていないということだろう。つまり、五人にひとりが知らない。そして10人くらいは、知ってるには知っているけれど、あやふや、ということだろう。 いまの中学校の英語の教科書を見てほしい。一年生の教科書はすべて、会話の文章で構成されている。この傾向はそのあとも続く。つまり、中学校では、小説やエッセイの文章をちゃんと読むようになるのは三年生からなのだ。 十年ほどまえ、中学校の英語教科書の編集者たちが、戦々恐々としていたことがある。もしかしたら、文部省から「中学校の教科書からは受身形をはずすように」というお達しがでる可能性があったのだ。 つまり、会話文では、受身形はあまり登場しない。例外的に 'be interested in' とかあるけど、それは、熟語として覚えさせればいい。 まあ、その危険は回避されたのだが、ここまで会話中心で押してこられると、おいおい……という気になってくる。 数年前、大学院の教え子が英語の実習にいったら、そこの先生が英会話の授業で「意味なんてわからなくてもいいから、英語でしゃべれ」と学生にいっていて、驚いたという話をしていた。が、それが現状なのだと思う。 なげかわしい。 日本は、インドやフィリピンのような国とちがって、日常ほとんど英語に触れることはないし、英語にうとくても、十分、いや十二分にちゃんとした暮らしを遅れる国なのだ。そんな国で英語を学ぶということは、どういうことなのか、そんな国で英語を使う職業につくというのは、どういうことなのか、それを考えるときにきていると思う。 去年、ある英語教育の雑誌からの依頼でエッセイをまとめた。それを紹介してみたい。 20年間大学で英語を教えてきて、また20年間翻訳をやってきて、いくつか考えていることがあります。ぼくは英語教育に関してはまったくの素人で、小中高の英語教育に関わったこともないので、もしかしたらずいぶん見当はずれかもしれないのですが、この場を借りて、少し書かせてください。 ひとつは、会話偏重の英語教育についてです。もちろん、理想をいえば、読む、書く、聞く、話すという四つの能力が互いに補い合い、助け合って、総合的な英語能力をつけていくというのが望ましいのはいうまでもありません。しかし、人間に与えられている時間は限られていて、学生は多くの科目を履修しなくてはならないわけで、英語にさくことのできる時間はさらに限られています。その限られた時間のなかで、四つのすべてを十全に身につけるのは、普通の人間にはおそらく不可能でしょう。 というわけで、過去においては読み書き(文法+読解)に重点が置かれていて、それが批判を浴びて、現在の会話中心の英語教育に変わってきました。たしかにいまの大学生は昔の大学生にくらべれば、オーラルの方面ではずいぶんその能力がのびてきています。たとえば第97回(2003年3月)のTOEICの総合結果を見ると、リスニングの平均点は326.o点、リーディングは260.1点です。 しかし日本という社会を考えた場合、これはよいことなのでしょうか。つまり、そういった能力が必要なのかどうかということです。たとえば、会社に就職したとして(しょっちゅう英語の会話が飛び交う外資系などの特殊な例を除いて)、どれくらい英会話の能力が必要とされるでしょう。メールやファックスが普及したいま、重要な取引や契約事項はすべて英文でやりとりされます。また、英語で取引先と交渉をするにしても、そのまえには膨大な量の英語の資料に目を通す必要があります。となると、聞く話すまえに、読めなくてはなりません。 もっと卑近な例を挙げますと、翻訳です。いうまでもなく、日本は翻訳大国で、おそらく世界でもっとも翻訳書の割合が多く、その質がもっとも高い国です。つまり、日本は明治以来、海外の情報を翻訳を通じて摂取してきたわけで、その構造はよほどのことがない限り変わることはないでしょう。公用語、半公用語として英語が日常に使われている発展途上国とはまったく違う形で、英語と接してきたわけです。インドやフィリピンの人々が英語がしゃべれるのに、日本人がしゃべれないのは当然なのです。 一年ほどサンフランシスコで暮らしたことがあります。そのとき、アダルト・スクールに半年ほど通いました。アダルト・スクールというのは、ほかの国からやってきた大人を対象に無料で英語教育をする学校です。そこの先生にこんなことをいわれました。 「カネハラ、日本人は英語が読めて、書ける。素晴らしい。アジアや中南米からたくさんの移民の人々がやってくる。たしかに彼らは英会話はできるから、最初のうちは目立つけれど、レベルが上がってくるとだんだんできなくなっていく。つまり、読み書きができないんだ。日本人は最初、英会話ができなくておどおどしているが、三ヶ月もすれば耳も口も慣れてくるし、もともと基本的な語彙も文法も身についているから、進みがとても速い。アジアや中南米からやってきた英語の流ちょうな人々は大学受験で必ずつまずく。しかし日本人は楽々と入学していく。日本の英語教育はけっして間違っていないよ」 しかしアダルト・スクールの先生からほめられるような英語教育を日本は捨ててしまいました。 日本語も英語も、言葉というのはすべて同じで、聞く話す能力は一定の時間、その環境に身を置けば身につくけれど、読み書きは意識的に学ばなければ身につかないものです。また逆に、日常に英語を聞く話すという環境がなければ、そういう能力はなかなか身につきません。となると、そういう環境がない日本において、何をすべきか、考えてみるべきだと思います。 最後に、大学の英語教育について、簡単に。 大学というのは、とくに文系の場合、「読んで、考えて、書く」ことを学ぶ場だと思っています。外国語教育も同じです。ですから、現在一部の大学が行っているように、英語教育を会話学校に投げ売りすることには反対です。読むこと、そして書くことを中心に教えるべきでしょう。英字新聞を読んだり、英語の原書を読んだりする楽しさを教えたい。さらに、いまのインターネット環境をみれば、昔なら会社のトップクラスしか知りようのなかった情報まで入手できる現代、また驚くほど多くの情報が英語になっている現代、英語を読む能力はいろんな方面で活用できるはずです。そしてまた、自分が何かを世界に向けて発信したいときに必要になるのは、やはり、英語を書く能力です。 いくら時代遅れといわれても、そこを中心に英語教育を行っていきたいと考えています。 なんで、こんなトピックを持ちだしてきたかというと、川島隆太と藤原智美の『脳の力こぶ』という、とても刺激的な本を読んで、それに触発されたからだ。 これは芥川賞作家と脳科学者の往復書簡という形になっていて、その最初の章は英語教育について。内容は以下の通り。 ・英語化される脳──言葉は道具ではない ・危ない英語教育──母語への執着が絶対必要だ ・通訳がいらない近未来──発音は重要ではない ・人柄を染め変える英会話──外国語教育としてのエスペラント語 ・脳では古典は外国語──日本人の英語嫌いは当たり前だ 途中でこんな言葉も出てくる。 「私は、英語早期教育絶対反対派です。幼児教育なんて冗談ではない。小学校からの英語教育も、現状では百パーセント無意味ではないかと考えています」 その理由については、この本をじっくり読んでみてほしい。 金原もまさに同感である。 たとえば、昔流行った、'thinking in English' という言葉。これも実にいい加減で、「英語で考える」という意味だけど、それは英語のできる人の場合であって、普通の人には無理でしょう。なけなしの英語で考えるということは、ろくに考えられないということなんだから。「言葉はその人を規定する」わけだし。豊富な言葉で考えれば豊かな考えも生まれるけど、貧弱な言葉ではろくな考えが生まれてこない。となると、まずは、日本人は日本語で考えて、それを英語に翻訳する、という過程を経ざるを得ない。というか、まあ、それが普通だし、それでいいんだって。そのうち、英語にたけてくると、日本語を介さないで英語で考えられるようになる……けど、それを最初からやろうったって、無理。文法も知らない、語彙も少ない……という状態で、どんな会話ができるのか、考えるまでもない。 なにより、英語が好きで英語を使う職業につきたい場合、その試験はまず、筆記だからね。 というふうなことを考えていくと、会話重視の今の英語教育はそろそろ見直しの時期にきていると思う。 じつは、数年前に社会学部に就任した英語担当の荒木さんと、そのへんはじつに話があって、うちの学部は今年から、大規模な語学カリキュラムの変更をすることになった。この改革の中心になってくれたのも荒木さん。とてもおもしろい人で、大学からアメリカなので、英語の読み書き会話は不自由することはまったくないんだけど、日本という国、日本人、日本語に対する考え方はとても鋭くて、教えられることも多い。 最後にひとこと、みんなが会話会話といっているいまこそ、読解力が売りになるとも思う。 2.あとがき(『盗神伝(IV・V)』『ブラックストーン・クロニクル(上下)』「シルバーチャイルド」三部作) まずは、あかね書房のM・W・ターナーの『盗神伝 IV/V』。 つい昨日まで、かわいい男の子だったジェンが、もういきなり王様だもん。だけど、まわりはみんな敵ばかり。しかしまあ、それにしても、今回は、抑えに抑えたジェンの心の動きがとても面白い。 次はミステリ作家、ジョン・ソールの『ブラックストーン・クロニクル』。児童書でもヤングアダルトでもありません。かなり、きつい、ときどき残酷なミステリ……というか、モダン・ゴシック。じつは、もうかなり前のこと、小峰書店の平柳さんにジョン・ソールを教えてもらって、すぐ扶桑社に電話して、出ている本を全部送ってもらって、読み終えて、次は早川……という具合に読みまくった。手法はオーソドックス。そして、ゴシック趣味。生理的にだめな人も多いかも。だけど、なぜか、つかれたように最後まで読んでしまう……ジョン・ソール、初めて訳すけど、訳しながらも怖い。共訳の石田さんは平気だったのかなあ。 クリフ・マクニッシュの「シルバーチャイルド」三部作。理論社の小宮山さんに感想をきかれて、「売れないかも知れないけど、とにかく凄い(わざと漢字にしたい!)作品! 絶対に訳したい」というふうなメールを送ったら、「じゃ、やりましょう!」という返事。まったく、男冥利につきる、というやつかな。そのイメージは、平井和正の『幻魔大戦』をはるかに超えている。まあ、めちゃくちゃな作品なのだ。 訳者あとがき(『盗神伝) 盗人を主人公にした、このユニークなファンタジー、いよいよ第三部の登場だ。第一部から第二部にかけて、物語はいきなり大きくなって、ダイナミックに流れてきた。それがこの第三部では、さらに激しくゆり動いていく。 しかし内容を紹介するまえに、ちょっと、舞台になっている国を整理しておこう。まず主人公ジェンの出身国はエディス。エディスは中立国だ。これをはさむようにスーニス国とアストリア国がある。が、この二国は敵対している。 さて、「おれに盗めないものはない」という言葉が口癖の少年ジェンがスーニス国王の秘密の使命を受けて、胸のすくような大活躍をしてもどってくるまでを描いたのが第一部(『盗神伝 I──ハミアテスの約束』)。それから、数年後、アストリア国の宮殿に忍びこんだところを見つかり、片手を切り落とされたジェンが、エディス国の女王と息のあった連携プレーで敵国を打ち負かすまでを描いたのが第二部(『盗神伝 II・III──アトリアの女王』)。 そして、いよいよこの第三部(『盗神伝 IV・盗神伝 V──新しき王』)。 第二部で、ジェンがアストリアの女王に片手を切り落とされる場面で、驚いた人は多いと思う。まったく、作者のターナーさんときたら、ほんとうに、読者をあっといわせるのが好きだし、うまい。なにしろ、この第三部ではジェンをアストリアの女王と結婚させてしまうのだから。第二部の終わりあたりで、こうなりそうなことは知らされているけれど、まさか実際に、本当に結婚してしまうとは、だれも思わなかったにちがいない。訳者も、思わなかった。普通のファンタジーなら、ジェンはエディス国の女王と結婚するはずなのだ。それが、冷酷非情なアストリアの女王と?! そもそも、ジェンの片手を切り落とさせた張本人だ。いったい、なぜ……? それだけではない。女王と結婚してアストリア国の王になったジェンは孤立無援。だれひとり頼る者もいなければ、信じられる者もいない。なにしろ、まわりはすべて女王に忠誠を誓った部下や兵士ばかりなのだ。そして女王自身、国のためしかたなく結婚はしたものの、ジェンのような身分のいやしい、他国の盗人などろくに相手にしていない。食事のときも踊りのときも、いやいやいっしょにいるのがだれにでもわかる。 ジェンだっておもしろいわけがない。最初から暗い顔で登場し、暇なときには窓から外をぼんやりながめている。そして宮殿の召し使いや兵士たちからばかにされ、いいようにからかわれ、あからさまに軽蔑される。 そこに出てくるのが若き熱血漢、近衛兵のコスティスだ。なんと、訓練中にジェン(アストリア王)の顔をなぐりつけてしまう。よっぽど、ジェンがいまいましく、憎かったらしい。ところが、ジェンはこのコスティスを追放するどころか、自分のそばに置くことにした。このへんが、作者のうまいところだ。 というわけで、ここから第三部は幕を開ける。ジェンとコスティスを中心に、アストリアの女王をうまくからませながら、物語は、思いも寄らない方向へ突き進んでいく。 さて、敵意と軽蔑のかたまりのような宮殿の王ととなったジェンの活躍を心ゆくまで楽しんでほしい。 作者は、最初から読者を驚かすのもうまいが、最後の最後に、読者をもう一度びっくりさせて、うならせるのはそれ以上にうまい。 ただ、この第三部はいままでとちがって、アクション映画のようなダイナミックな見せ場は少ない。それよりは、緻密に組み立てられたミステリに近い。それも、人の心の動きを細かく追っていく感じのミステリだ。だから、ゆっくり、じっくり読んでいってほしい。ジェンは自分が大人になったぶん、読者も少しだけ大人になってほしいらしい。 最後になりましたが、原文とのつきあわせをしてくださった池上小湖さんと、細かい質問にていねいに答えてくださった作者のターナーさんに心からの感謝を! 二00六年四月三日 金原瑞人 訳者あとがき(『ブラックストーン・クロニクル』) ジョン・ソール。一九四二年生まれ、アメリカの中堅ミステリ・ホラー作家、といった位置づけだろうか。日本でも人気があって、翻訳はすでに二十冊を超えている。 処女作は『暗い森の少女』(一九七七年)。日本語のタイトル通り、「暗い」(ただし、原作のタイトルは Suffer the Children)。過去に父親が娘を犯して自殺する、という事件があり、その百年後、同じ惨劇が繰り返されるというふうな展開。かなりえぐい描写もあり、そしてジョン・ソールのそれ以後の作品にもよくある「救いのない結末」。 ジョン・ソールはこの手の作品をかなり書いている。もちろん、一方には『マンハッタン狩猟クラブ』という、歯切れのいいミステリ・サスペンスもある。マンハッタンの地下鉄世界に放りこまれた青年が、犯罪者とともに、追っ手をかわして逃げまくるという小説だ。ただ、この作品でも、仲間の犯罪者というのがひと癖あって(男が好きで死姦が好き)、主人公は追っ手から逃げながら、この仲間もかわさなくてはいけない。そして、ひねりのきいたエンディング。 まあ、ある意味、わかりやすすぎるミステリ作家といっていいかもしれない。 が、なぜか前々から気になっていて、あるとき、十冊ほど買いこんで読みふけったことがある。ある種の魔力のようなものがあって、延々とグロテスクな場面や、残酷な描写が続いて、あげくのはてに暗いエンディングといったものも少なくないのだが、不思議な力があって、最後まで読んでしまう、いや、読まされてしまう。 スティーヴン・キングやクライヴ・バーカーといった、斬新なモダン・ホラーではまったくなく、スタンダードな古典的な恐怖小説をそのまま現代に持ってきたような作品を書くのだ。これが逆に、とても新鮮だった。 とにかく力がある。いやおうなく読まされてしまうのだ。圧倒的な力といっていい。 そんな力を持てあましていたジョン・ソールが初めてそれをバランスよく、巧みに使いこなした作品がこの『ブラックストーン・クロニクルズ』ではないかと思う。 モダン・ゴシックともいうべき『暗い森の少女』の特徴を色濃く残しながら(繰り返されるグロテスクな惨劇)、『マンハッタン狩猟クラブ』のテンポのよさとスリル、そしてラブロマンス。そう、悲惨な事件は起こるものの、この作品、救いはあるし、最後はハッピーエンドなのだ。 舞台は田舎町、ブラックストーン。うち捨てられて久しい精神病院に解体の鉄球が打ちこまれるところから物語は始まる。ここは新たに町のセンターとして再建されることになっていたのだ。ところが、いきなり資金繰りがうまくいかなくなって、計画は頓挫。それだけではない。やがて、ブラックストーンの町に災いが少しずつ蔓延し始める。 古い建物に怪しい人影が現れ、そこに隠してあったものを闇に紛れて届けると、その家には狂気があふれ、悲惨な出来事へと発展していく。最初は、人形、次はロケット……不思議なことに、その悲劇は過去に精神病院で起こった事件とどこかつながっているらしい。次の犠牲者は誰か…… この物語の中心人物はオリヴァー・メトカフ。町の新聞『ブラックストーン・クロニクル』の編集長で、今では使われていない古い精神病院の敷地内のコテージに住んでいる。父親はこの精神病院の院長をしていたが、オリヴァーが幼いときに自殺している。町の人々がおびえるなか、オリヴァーはこの謎を解かなくてはならないと感じる。オリヴァーはやがて、レベッカ・モリスンという女の子に心を奪われていく。レベッカは交通事故で両親を亡くし、そのときに軽い知的障害を負い、おばのもとに身を寄せ、図書館で働いている。 不気味な連続事件と、オリヴァーの恋と、オリヴァーの曖昧模糊とした過去、この三つが最後の最後で、ぴったり重なっていくところは見事としかいいようがない。 さて、スティーヴン・キングの『グリーンマイル』にヒントを得て書かれた、この作品、最初は、薄めの本が順次、六冊出版された。これを訳して合本にしたのが、この本。 発表と同時に大ブームになり、ファンクラブはできるし、ネットのサイトもできるし、ゲームまでできるし……といった調子。また、舞台になっているブラックストーンという町についても、あれこれ話題が絶えない。興味のある方は、ぜひネットサーフィンで遊んでみてほしい。 最後になりましたが、編集の深谷路子さんに心からの感謝を! 二〇〇六年五月二十二日 金原瑞人 訳者あとがき(「シルバーチャイルド」) クリフ・マクニッシュとの出会いは『レイチェルと滅びの呪文』が最初だった。これを読んだときは、敵役の魔女の姿形がぞっとするほど異様でグロテスクで、正直いうと、訳しながらも、その正確なイメージがなかなかとらえきれなかったほどだ。なによりそれを強烈に覚えている。しかし全体の印象としては、よくできたファンタジーだな、くらいだった。ところが第二巻目の『レイチェルと魔法の匂い』を読んだときは、ちょっと驚いた。いきなりのレベルアップ! はるか彼方からやってくる不気味な魔女軍団の迫力、まったく、すばらしいとしかいいようがない。そして、それを迎え撃つ地球軍の核となるイェミのあどけなさと不思議な能力が、それまでのファンタジーとはずいぶん違うような気がした。しかしなによりすごかったのは第三巻目の『レイチェルと魔導師の誓い』だ。地球の子どもたちが魔力を持ち始め、その姿まで変えて魔女たちの侵略にそなえ、今度は舞台がいきなり宇宙空間にまで広がっていく。 マクニッシュの想像力はとどまることを知らない。 「ハリー・ポッター」「ダレン・シャン」「バーティミアス」、どのシリーズもおもしろいし、文句なくファンタジーの傑作だと思う。が、想像力にかけては、いま、マクニッシュを超えるファンタジー作家はいない。マクニッシュの想像力は、いままでのありきたりのファンタジーからどんどん遠ざかっている。つまり、いままでになかった新しいファンタジーへと進んでいるのだ。 それを痛感したのがこの「シルバー」シリーズだ。 とにかく第一巻目の『シルバー・チャイルド』からして、なんとも説明のしようのないニュー・ファンタジーなのだ。 舞台はコールドハーバー。昔は造船所があったらしいが、いまは数本の鉄柱と放ったらかしになってる壊れかけの倉庫くらいしかない。あとは泥地が海まで何マイルも広がっているだけで、その周囲には巨大なごみ捨て場がつくられ、近くの町からごみが集まってくる。そこへ、なにかにひかれるように次々に子どもたちがやってくる。それも世界中から。そしてそのなかの何人かは、体が変化し始める。 いきなり大食になって、髪が抜けだし、皮膚がはがれ、そこから金色の光を発するようになっていく少年、まるで虫のように地面をはいずりまわるようになってしまった双子の姉妹、巨人のような少年、癒しのパワーを持つようになる少年……いったい、なぜ?……謎は深まるばかりだ。一方、コールドハーバーのまわりにバリアができて、大人はなかに入れなくなる。が、子どもたちは続々と集まってくる……いったい、なぜ? そんなふうに変身していく子どもたちの間に生まれる不安、不信、悲しみ、恐怖、そして連帯感と友情。その物語が、コールドハーバーという広大な泥地とそのまわりのゴミ捨て場を舞台に展開していく。 まず第一巻の最後、ミロの大変身で驚かない読者はいないだろう。そして第二巻、物語はさらに思いがけない方向に進んでいき、第三巻、「レイチェル」シリーズの最終巻をはるかにしのぐ激しい戦いが繰り広げられる。 「ハリー・ポッター」がファンタジーブームを引き起こしてから、数えきれないくらい新しいファンタジーが書かれてきたが、これほどユニークで、ダイナミックで、スケールが大きく、それでいていて感動的な作品はなかったと思う。それにしても第三巻目の迫力と感動! 読み終えて、思わず熱いものがこみあげてくる。 マクニッシュの異様な想像力はとどまることを知らない。彼の作品には、ある種、ゲーム感覚に近いものがあるが、この世界はゲームではとても表現できない。あちこちで炸裂するすさまじいイメージの数々は読者の頭のなかでしか再現できないからだ。読者は、マクニッシュの想像力のすごさに驚くとともに、自分の想像力の豊かさにも驚くはずだ。 モダン・ファンタジーの新しい波がようやく訪れたのかもしれない。この「シルバー」シリーズ、まさに新感覚、ニューウェーブのモダン・ファンタジーの登場といっていい。ミロが想像を絶する変身をとげてシルバーチャイルドになったように、ファンタジーは想像を絶する変身をとげて、このファンタジーの進化形「シルバー」シリーズになったのだ。 最後になりましたが、大奮闘のリテラルリンクのみなさん、原文とのつきあわせをしてくださった桑原洋子さんに心からの感謝を! 二〇〇六年五月十日 金原瑞人 |
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