あとがき大全(60)

金原瑞人

【児童文学評論】 No.105   2006.09.25日号

           
         
         
         
         
         
         
    
1.前置き
 二ヶ月のごぶさたでした(前回は休んでしまって、申し訳ありません)。みなさま、お元気でしょうか。
 というわけで、このシリーズ、なんと60回目。ざっと五年間。そういえば、東販週報という取次店の雑誌に連載しているヤングアダルト向けの連載も80回目くらいだ。年を取るはずだと思う。
 今年は後半から異様に立てこんできて(あれこれ)、楽しく仕事をしたり、芝居を観たりしているうちに、あと3ヶ月で師走というところまできてしまった。なぜ、師走にこだわるかというと、何冊か〆切があるうえに、ヘミングウェイの『武器よさらば』の〆切もあるからだ。
 そう、中高時代、ヘミングウェイはよく読んだなあ。それを将来、自分で訳すことになるなんて、これっぽっちも考えてなかった。あの頃は、レマルクの『凱旋門』『西部戦線異状なし』、そしてヘミングウェイの『武器よさらば』『誰がために鐘は鳴る』あたりは生意気な中学生の必読書だったような気がする。『大地』や『風と共に去りぬ』よりワンレベル上の感じ。ただ、フォークナーは別格で、中学生には歯が立たず、高校に入ったら読んでやる、くらいに思っていた。もちろん、ジョイスの『ユリシーズ』やウルフの『ダロウェイ夫人』なんかも読めるはずはなかった。
 が、家に文学全集があったので、背文字で覚えているのだ。
 当時、うちには筑摩の日本文学大系と世界文学大系と河出書房のグリーン版があった。思い出してみれば、体系本はなんと三段組み。グリーン版も二段組みだった。いうまでもなく字は小さい、というより、微細であった。が、楽々と読めた(あくまでも字に関することであって、内容は別)。年を取ると、こんな字が読めなくなっちゃうんだ、へえ……とか思っていたら、読めなくなってしまった。小さい字がつらい。
 こないだ、京橋に試写会を観にその会場にいってみたら、だれもいない。しかたなく受付の人にたずねてみたら、どうやら会場が違ったらしい。試写会状には地図が載っているのだが、これが細かくて、目印になる店の名前なんか、まったく読めない。そのうえ、眼鏡もない。恥を承知で、受付の人に、「ちょっと、これ、読んでもらえます?」と頼んでしまったのだった。
 じつは、筑摩の体系本、大学の研究室にあるのだが、もう読むことはない。字が小さいうえに、訳が古すぎる。そろそろ始末するかなと思ってはいるものの、もう読めないものも入っている。そのうち、簡単に入手できるものは捨てていこうかなと思っているところだ。
 というのも、光文社から古典の新訳文庫シリーズが出始めたからだ。
 トゥルゲーネフの『初恋』、バタイユの『マダム・エドワルダ/目玉の話』、ケストナーの『飛ぶ教室』、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟I』など、どれも新しい訳で読める。活字も大きい……というか、まあ、文庫なので、大きいというほどではないが、小さくはないぞ。
 一回目配本のなかで、とくに目をひいたのがカントの『永遠平和のために/啓蒙とは何か』だ。カントって、案外、わかるじゃん……という気がしてしまったのだ。それが錯覚であれ勘違いであれ、そんなふうに思わせてくれる翻訳は素晴らしい。
 それからもう一冊、ジャンニ・ロダーニの『猫とともに去りぬ』がおもしろい。これは初訳。カルヴィーノの奇想小説を短編にして現代風にして、連ねたような短編集。
 お勧めです。


2.あとがき(『ブラックストーン・クロニクル』『イカルス・ガール』『ゴールドラッシュ! ぼくと相棒のすてきな冒険』『かかしと召し使い』『アレクサと秘密の扉』『コンスエラ』文庫版)

 二ヶ月分なので、5冊。ただし、ダン・ローズの『コンスエラ』は文庫版。ダン・ローズの『ティモレオン』の解説は江國香織さんが書いてくださった。今回は、歌人の東直子さんが書いてくださった。どちらの解説も、読んでいて、切なくなるほど、いい。ダンも果報者である。ついでに、金原も。
 ともあれ、あとがき、どうぞ、楽しんでください。
 と、ここまで書いて、メールがきたのでチェックしてみたら、アスペクトの編集の人から連絡で『アレクサと秘密の扉』のあとがきでまちがいがあると、読者からの指摘があったとのこと。
 『不思議の国のアリス』の作者が、なんと、C・S・ルイスになっているというのだ! え、まさか!
 そう思って、自分の書いたあとがきを読んでみて、一瞬血の気が引いてしまった……というのは嘘で、笑ってしまった。ほんとに、間違ってる。
 すいません。
 ここでは、間違いのまま載せておきます。
 どうぞ、笑ってやってください。



   訳者あとがき(『ブラックストーン・クロニクル』)

 ジョン・ソール。一九四二年生まれ、アメリカの中堅ミステリ・ホラー作家、といった位置づけだろうか。日本でも人気があって、翻訳はすでに二十冊を超えている。
 処女作は『暗い森の少女』(一九七七年)。日本語のタイトル通り、「暗い」(ただし、原作のタイトルは Suffer the Children)。過去に父親が娘を犯して自殺する、という事件があり、その百年後、同じ惨劇が繰り返されるというふうな展開。かなりえぐい描写もあり、そしてジョン・ソールのそれ以後の作品にもよくある「救いのない結末」。
 ジョン・ソールはこの手の作品をかなり書いている。もちろん、一方には『マンハッタン狩猟クラブ』という、歯切れのいいミステリ・サスペンスもある。マンハッタンの地下鉄世界に放りこまれた青年が、犯罪者とともに、追っ手をかわして逃げまくるという小説だ。ただ、この作品でも、仲間の犯罪者というのがひと癖あって(男が好きで死姦が好き)、主人公は追っ手から逃げながら、この仲間もかわさなくてはいけない。そして、ひねりのきいたエンディング。
 まあ、ある意味、わかりやすすぎるミステリ作家といっていいかもしれない。
 が、なぜか前々から気になっていて、あるとき、十冊ほど買いこんで読みふけったことがある。ある種の魔力のようなものがあって、延々とグロテスクな場面や、残酷な描写が続いて、あげくのはてに暗いエンディングといったものも少なくないのだが、不思議な力があって、最後まで読んでしまう、いや、読まされてしまう。
 スティーヴン・キングやクライヴ・バーカーといった、斬新なモダン・ホラーではまったくなく、スタンダードな古典的な恐怖小説をそのまま現代に持ってきたような作品を書くのだ。これが逆に、とても新鮮だった。
 とにかく力がある。いやおうなく読まされてしまうのだ。圧倒的な力といっていい。
 そんな力を持てあましていたジョン・ソールが初めてそれをバランスよく、巧みに使いこなした作品がこの『ブラックストーン・クロニクルズ』ではないかと思う。
 モダン・ゴシックともいうべき『暗い森の少女』の特徴を色濃く残しながら(繰り返されるグロテスクな惨劇)、『マンハッタン狩猟クラブ』のテンポのよさとスリル、そしてラブロマンス。そう、悲惨な事件は起こるものの、この作品、救いはあるし、最後はハッピーエンドなのだ。

 舞台は田舎町、ブラックストーン。うち捨てられて久しい精神病院に解体の鉄球が打ちこまれるところから物語は始まる。ここは新たに町のセンターとして再建されることになっていたのだ。ところが、いきなり資金繰りがうまくいかなくなって、計画は頓挫。それだけではない。やがて、ブラックストーンの町に災いが少しずつ蔓延し始める。
 古い建物に怪しい人影が現れ、そこに隠してあったものを闇に紛れて届けると、その家には狂気があふれ、悲惨な出来事へと発展していく。最初は、人形、次はロケット……不思議なことに、その悲劇は過去に精神病院で起こった事件とどこかつながっているらしい。次の犠牲者は誰か……
 この物語の中心人物はオリヴァー・メトカフ。町の新聞『ブラックストーン・クロニクル』の編集長で、今では使われていない古い精神病院の敷地内のコテージに住んでいる。父親はこの精神病院の院長をしていたが、オリヴァーが幼いときに自殺している。町の人々がおびえるなか、オリヴァーはこの謎を解かなくてはならないと感じる。オリヴァーはやがて、レベッカ・モリスンという女の子に心を奪われていく。レベッカは交通事故で両親を亡くし、そのときに軽い知的障害を負い、おばのもとに身を寄せ、図書館で働いている。
 不気味な連続事件と、オリヴァーの恋と、オリヴァーの曖昧模糊とした過去、この三つが最後の最後で、ぴったり重なっていくところは見事としかいいようがない。
 さて、スティーヴン・キングの『グリーンマイル』にヒントを得て書かれた、この作品、最初は、薄めの本が順次、六冊出版された。これを訳して合本にしたのが、この本。
 発表と同時に大ブームになり、ファンクラブはできるし、ネットのサイトもできるし、ゲームまでできるし……といった調子。また、舞台になっているブラックストーンという町についても、あれこれ話題が絶えない。興味のある方は、ぜひネットサーフィンで遊んでみてほしい。

 最後になりましたが、編集の深谷路子さんに心からの感謝を!

    二〇〇六年五月二十二日
                                  金原瑞人 


   訳者あとがき(『イカルス・ガール』)

 ヘレン・オイェイェミの『イカルス・ガール』(まだ、本になる前の段階のもの)を読み終えたとき、思わず体が震えてしまった。なんともいえない、強烈な終わり方で、しばらく自分にもどれなかった。不思議な小説だった。ファンタジーといえばファンタジーだし、ホラーといえばホラーだし、幻想小説といえば幻想小説だし、ラテンアメリカのマジックリアリズムの作品だといえば、そうかもしれない。
 ジャンル分けはどうでもいい。大切なのは、この奇妙でつかまえどころのない小説が、とても魅力的だということだろう。
 主人公は八歳の少女ジェス。お母さんはナイジェリア人で、お父さんはイギリス人。ロンドンに住んでいる。俳句を作るのが大好きで、本を読むのも大好き。いつも本を大切にしているけれど、じつは、書き足したり、自分の文章を付け加えたり、もとの文を書きなおしたりする癖がある。とくに『若草物語』と『小公女』はめちゃくちゃに書きかえてある。ただ、戸棚に閉じこもるのも大好きで、ときどき悲鳴をあげる発作に悩まされているし、学校でも問題児扱いされている。
 そんなジェスを心配した両親は、一家でナイジェリアに遊びにいくことにした。そしてジェスはそこでティリティリという女の子に出会い、いっしょに遊ぶようになる。ただ、ティリティリは不思議な力を持っているし、ほかの人には見えないらしい。
 ジェスはロンドンにもどってきて、元の生活にもどるが、ティリティリに再会する。そして楽しい遊び相手のはずだったティリティリが思いがけない一面を見せるようになって、ジェスに双子の妹がいたことがわかるあたりから、物語は急展開。一気にサスペンス小説のようになっていく。とにかく、いままでにはちょっとなかった新しい作品だ。それは文体にも表れていて、ジェスの気持ちが、あちこちに噴き出している。
 しかしなにより印象的なのは、主人公ジェスの心の動きだろう。イギリス人とナイジェリア人の血を引くジェスは、学校でも居心地が悪く、友だちとも先生ともうまくいかないが、それは家庭でも同じだ。両親が自分を思ってくれているのはわかっているけれど、親に本当の気持ちをいえることは少なく、けっきょく自分のほうがひいてしまう。人とのコミュニケーションも苦手で、ひとりで本を読んでいるほうがずっと好きだ。それに加えて、悲鳴の発作。
 どこにいても居心地が悪くて落ち着かない、そんなジェスの自分探しの旅が、この作品の中心になっている。いったい、自分はなんなんだろう。どこかに居心地のいい場所があるのだろうか。ジェスはティリティリに悩まされながら、必死にさがそうとする。
 そして衝撃のエンディングへ!
 このエンディングは、ちょっとわかりづらいかもしれないが、よく読んでみてほしい。切ないけれど、納得できるし、ある意味、ハッピーエンドといえなくもない。おもしろいしめくくりかただと思う。

 作者は一九八四年、ナイジェリア生まれ。一九八八年、イギリスに移住、現在はケンブリッジ大学コーパス・クリスティ・カレッジで政治社会科学を学んでいる。エミリー・ディキンソンとチャック・パラニウク(映画「ファイト・クラブ」の原作者。作家)が好きとのこと。
 これは作者が十八歳のときの作品らしいが、そんなことはどうでもいい。何歳の人が書いたものであれ、いいものはいいし、素晴らしいものは素晴らしい。どうか、そんなことを気にしないで、この作品にひたってほしい。

 最後になりましたが、編集者の福永恵子さん、原文とのつきあわせをしてくださった××××さん(注・ここ本のあとがきにはちゃんと名前が入ってます)、細かい質問にていねいに答えてくださった作者のヘレン・オイェイェミさんに心からの感謝を!

          二〇〇六年六月十日         金原瑞人


   訳者あとがき(『ゴールドラッシュ! ぼくと相棒のすてきな冒険』)

 アメリカのユーモア小説と冒険小説の両方でいちばん有名な作家は、たぶん、マーク・トウェインだろう。
 『トム・ソーヤの冒険』や『ハックル・ベリー・フィンの冒険』は、少年を主人公にした、ユーモアたっぷり、スリルとサスペンスもたっぷりの、アドベンチャー・ストーリーだ。もう百三十年ほど昔の作品だけど、いまでも、じゅうぶん、たっぷり、心ゆくまで楽しめる。
 いまのアメリカで、そんなマーク・トウェインにいちばん近い作家は、たぶん、シド・フライシュマンだろう。
 『真昼のゆうれい』『ジンゴ・ジャンゴの冒険旅行』なんかは、はらはらどきどき、胸わくわくの、むちゃくちゃ楽しい冒険小説だ。もしマーク・トウェインが生きていたら、フライシュマンの肩をたたいて、ウィンクしたと思う。いや、世界の古典冒険小説、『宝島』を書いたイギリスのスティーヴンソンだって、いま生きていたら、「シド・フライシュマン? あいつの冒険小説には、まいったね」というにちがいない。
 それからフライシュマンといえば、『マクブルームさんのふしぎな畑』や『マクブルームさんのへんてこ動物園』も有名だ。これはアメリカ人が好きそうなほら話。うまいことだまされて、一エーカーぽっちの畑を買わされたマクブルームさん一家の大活躍が描かれている。爆笑まちがいないし。もしマーク・トウェインが生きていたら、フライシュマンの肩をたたいて、にやっと笑ったと思う。
 つまりフライシュマンは、冒険小説やほら話を書かせたら、だれにも負けない人なのだ。そのフライシュマンの書いた「冒険+ほら」小説の決定版がこれ、なのだ!
 第一章がまず、「密航者たち」。十二歳の少年ジャックと、山高帽をかぶって黒ラシャの上着を着た執事のプレイズワージィが、ジャガイモのたるから出てくるところから、物語が始まる。
 「え? 執事ってなに?」と思う人が多いかもしれない。いまではこんな職業についている人はほとんどいない。しかし昔のヨーロッパやアメリカでは、珍しくなかった。なにをするかというと、大きなお屋敷や、身分の高い人の家で、家政や事務を一手に引きうける。使用人がたくさんいるときには、その指揮、指導をする。いってみれば、使用人頭、といった感じで、ご主人様のために心をつくすというのが基本。
 じつはカズオ・イシグロという日系イギリス人作家の『日の名残』という小説があって、この主人公が「執事」。ほう、とことん本気の執事というのは、こういうものなんだということが、よくわかる。ただ、子ども向けの本ではないので、もし興味があったら、高校生くらいになってから読んでみるといい。とてもいい作品なので。
 さて、執事のプレイズワージィ(「すばらしい」という意味)が、ご主人であるジャックに付きそって、なぜ豪華帆船に密航したかというと、それは当時、アメリカ西海岸のカリフォルニアにいくためだった。なぜ、カリフォルニアにいこうとしたかというと、金が出たからだ。この本の最初の「はじめに」というところを読んでみてほしい。そう、「ゴールドラッシュ」というやつだ。
 プレイズワージィとジャック少年は、あることからお金が必要になって、金をさがしに出発したのだ。そしてそこから、ふたりの大冒険が始まる。驚くほど頭がよくて機転がきいて、すらりと細身なのに、どんなものにもひるまない、クールなプレイズワージィと、元気で正直でまっすぐなジャックの、絶対にありえないけど、なんとなくありそうな、ゆかいな旅を、どうぞ、楽しんでください。

 「砂金」について、ちょっと説明を。「砂金」というと、まるで砂のような金だと思う人が多いと思う。しかしそうではなくて、どちらかというと「粒金」といったほうがいい。米粒くらいの大きさのものから、小石くらいの大きさのものまで、いろいろだ。
 砂金といえば、日本では佐渡島が有名だが、そこのエピソードをひとつ紹介しておこう。江戸時代、佐渡の金山で働いていた男たちのはきつぶしたわらじを、新品と無料で交換した人がいた。なぜそんなことをしたかというと、使い古したわらじを集めて焼くと、そのあとにわらじにくっついたり、はさまっていた小さな金が残ったからだ。
 この本を読んだ人にはわかると思う。世界は広いようでいて、同じようなことを考える人間がたくさんいるらしい。
 それから、注意しておきたいことがひとつ。この本のなかで、アメリカ・インディアン(最近は「ネイティヴ・アメリカン」という)や中国人をばかにしたような表現が出てくるんだけど、これは、当時の人々がそんなふうに考えていたわけで、いまはそんなことはない。アメリカはこの小説の時代から百年くらいの間に、暮らし方だけでじゃなくて、考え方もずいぶん変わったのだ。もちろんそのかげには、差別をうけてきた黒人やインディアンや中国人たちの長くて苦しい戦いがあった。そのことは歴史の本で読んでもらえたらと思う。


 さて、最後になりましたが、編集の浦野由美子さん、原文とのつきあわせをしてくださった石田文子さん、すてきなメッセージをくださった、作者のフライシュマンさんに心からの感謝を!

  二〇〇六年七月十五日                   金原瑞人


   訳者あとがき(『かかしと召し使い』)

 こないだ児童書の出版に関わっているイギリス人と話をしていたら、この頃大ブームのファンタジーの話になった。いろんな作家や本の名前があがってきてんだけど、その人は最後の最後にこんなことをいった。
「『ハリーポッター』もおもしろいけど、やっぱり読みごたえがあって、大人も夢中になれる最近のファンタジーは『黄金の羅針盤』だなあ」
 『黄金の羅針盤』はフィリップ・プルマンが書いた三部作の第一部で、これがすごくおもしろい。子どもむけに書かれたファンタジーなのに、大人も絶対に楽しめる。
 そのプルマンが、もう少し年下の子どもたちにむけて書いたのがこの『かかしと召し使い』。『黄金の羅針盤』ほど重厚でもないし、分厚くもないし、長くもないし、深く深く考えさせられるようなところはない。そのかわり、軽やかで、スリムで、短めにまとまっていて、ユーモラスで、おかしいし楽しい。
 ある日、カブ頭に麦わら帽子をかぶり、つぎはぎだらけの服を着たかかしに稲妻が落ちて、動きだした。そして自分を作ってくれたおじいさんの言いつけどおりに生きていくことにする。その言いつけはこう。
「自分の仕事をしっかり覚えておくんだぞ。自分のいるべき場所もだ。礼儀正しく、勇ましく、誇りを持て。思いやりを忘れるな。せいいっぱいがんばれ」
 こうして、かかしは、困った人をみたら助け、女性には親切に、巣から落ちた小鳥は拾いあげ、盗賊や悪党はこらしめて……と思って、どんどん前へ前へと突き進んでいくけれど、このかかし君、じつはカブほどの脳みそもない(英語では、まぬけな人のことを「カブ頭」とかいってばかにする)。脳みそは、たぶん、豆つぶほどしかないんじゃないか。
 だから、やることなすこと、みんな見当はずれで、失敗つづき。ところが、このかかしにはジャックという召し使いがついている。このジャック君、まだまだ若い(というか、幼い)けど、なかなかかしこくて、機転がきく……けど、たまにまちがうこともあるし、逆に、かかしがばかなことをしてしまうけども、それが裏目に出て(じゃなくて、うまいほうに転んで)、うまくいったりすることもある。なんか、変な話だ。
 とまあ、このでこぼこコンビは、次々にたいへんな目にあう。山賊のねじろに忍びこんだり、軍隊に入ったり、無人島に流れついたり……そうそう、かかしはとても切ない恋も経験する。そして最後は……もちろん、ハッピーエンド!
 いい本です!
 読みはじめたとたんに、わくわくしてくるし、途中、はらはらしては笑って、笑ってははらはらして、最後の最後まで楽しいし、読んだあとまで楽しさが残る。それから、ふと、あれこれ考えてしまう。あとがきの最初のところで、「『黄金の羅針盤』ほど深く深く考えさせられるような場面はない」と書いたけど、もしかしたら、このナンセンスな冒険ファンタジーは、『黄金の羅針盤』よりずっと考えさせてくれるかもしれない。そのへんは、読者によってちがうかな。

 さて、最後になりましたが、リテラルリンクの奥田知子さん、翻訳協力者の小田原智美さん、原文とのつきあわせをしてくださった鈴木由美さんに心からの感謝を!
      二〇〇六年八月二十八日            金原瑞人
 


   訳者あとがき(『アレクサと秘密の扉 エリオン国物語I』)

 壁の中!
 この発想というか、アイデアが、まず、すごい。
 壁といっても、建物の壁じゃない。四つの大きな町を囲み、さらに、それらの町をつなぐ道も囲っている。つまり、中国にある万里の長城なんかよりずっと長い、驚くほど長い壁がひとつの世界を作っている。それも、のしかかってくるようにそびえ立つ壁で、とても外はのぞくことができない。それどころか、壁を越えることなど、まずできない。つまり、閉ざされた世界なのだ。
 中心の町はブライドウェル、そこから三方に道がのびていて、それぞれの先にはルーネンバーグ、ラスベリー、ターロックの町がある。
 主人公は十二歳の女の子、アレクサ。ラスベリーの町長の娘だ。
 さて、幕が開くといきなり、主人公のアレクサが、ずいぶん年寄りの親友ウォーヴォルドの死をまのあたりにする。
ウォーヴォルドは最後にこういう。
「壁の中には、たくさんの秘密が隠されている。そして、壁の外には、さらに多くの秘密がうごめいている……ふたつはまもなく出会うことになる……彼らの言うことはいつでも正しかったのだ」
 しかし、そのウォーヴォルドこそ、この恐ろしいほど高く長い壁を作った張本人なのだ。
 ウォーヴォルドを殺したのはだれか、ウォーヴォルドがいいたかったことはなにか、「彼ら」とはだれのことなのか、壁はこわすべきなのか、大事に守るべきなのか、そもそも、壁に隠された暗い秘密とはいったい……
 謎が謎を呼び、やがて、四つの町すべてをゆるがすような事件へと発展していく。
 というふうに紹介すると、とてもこわいファンタジーのような気がするかもしれないけど、そんなことはない。
 アレクサが図書館にしかけられた秘密の通路を抜けて、外の、言葉をしゃべる動物たちと知り合って、次々にいろんな冒険にでかけていくところなんか、とても楽しい……けど、ちょっと怖くて……しかし、わくわくする。
 こんなふうにして、最後の最後、アレクサが見事にすべてを解決してみせる……が、まだまだ謎は続く。

 この作品、じつは「著者あとがき」にあるように、「週に一回、ふたりの娘に聞かせるために作ったお話」だったのだが、それが口こみで次第に広がっていって、そのうち出版社から本になって出て、ベストセラーになってしまった。そしていまのところ、第二部まで出ていて、第三部も近いうちに出るらしい。
 そういえば、『不思議な国のアリス』も、C・S・ルイスが、大好きな女の子のために作った物語だった。

 さて、最後になりましたが、編集者の野田理絵さん、原文とのつきあわせをしてくださった××××さんに、心からの感謝を!

   二〇〇六年六月二十六日                    金原瑞人 


   訳者あとがき(『コンスエラ・文庫版』)

 いままで訳してきたなかで個人的に思い入れの大きい一般書がいくつかある。たとえば、ベン・オクリの『満たされぬ道』、ミッチ・カリンの『タイドランド』(『ローズ・イン・タイドランド』というタイトルで映画化・監督はテリー・ギリアム)、ジム・ハリスンの『神の創り忘れたビースト』などなど。どれもひと癖もふた癖もある小説ばかりだ。ひと筋縄でもふた筋縄でもいかない、強者といってもいい。さわやかな青春物や、感動的なヤングアダルト小説も大好きなのだが、強靱でしたたかで、それでいてしなやかな作品も大好きだ。こういった読者を選ぶような、傍若無人で生意気で、すきさえあれば、噛みついてきそうな本たちの魅力は、なににも替えられないものがある。
 そういった種類の本を読者に投げつけてくる作家のひとりにダン・ローズがいる。彼の『ティモレオン:センチメンタルジャーニー』を訳し終えたときは、不安でいっぱいだった。この暗くて危険な作品の魅力をいったいどれくらいの読者が受けとめてくれるのか、まったく見当がつかなかったのだ。しかしありがたいことに、出版と同時に、批評家の豊崎由美さんをはじめ多くの方々がほめてくださり、また、「ダヴィンチ」のプラチナ本にも選ばれ、多くの人々に読まれることになった。そのうえ、なんと文庫にもなって、その解説を江國香織さんが書いてくださった。その文章の見事なこと。
「この先百回引っ越しをしても、この先百年生きたとしても、私の本棚には『ティモレオン』が入っていると思う……本棚に『ティモレオン』を一冊所有することによって、私はたしかに世界を所有している。『ティモレオン』一冊分の、圧倒的にして完璧な『世界』を。」で始まるこの解説は、一編の短編小説のような輝きがある。
 英訳して作者に送ってあげたいと心から思う……けど、まだ送っていない。
 それはともかく、ダン・ローズの二冊目がこの『コンスエラ』。この短編集は、『ティモレオン』より二年ほど前の作品で、原題は Don't Tell Me the Truth about Love 。いかにも、ダン・ローズらしい。ちなみにGoogleで'tell me the truth about love' を検索すると、二千六百件ほどヒットする。まあ、英語ではおなじみのフレーズだ。この頭に 'Don't' をつけるところが、いかにもダン・ローズらしい。「たのむから、やめてくれ」という意味か、「もういいよ」という意味か、「やれやれ」というニュアンスか、それとも……と思ったら、どうぞ、この短編集を。どれもが「愛」についての、「愛」をめぐるものばかりで、どれも主人公は男で、ほとんどがハッピーエンドで終わらない。
 愛する女性の腕に抱かれて演奏されることを願う青年、自分を愛しているなら片眼をえぐれと女に迫られる若い恋人、ごみ埋立地に出没する美女をとことん愛してしまった男、若さや肉体や美貌ではなく自分自身を愛してほしいと次々に難題を吹っかけてくる女に翻弄される金持ちの息子……まさに、ほとんど全編、男の受難の物語といっていい。
 そしてその受難、苦難が報われるかというと、まあ、読んでもらうしかないが、さすが『ティモレオン』の作者、痛いところばかりをついてくる。心温まる甘ったるいラブストーリーを読みたい方には、絶対にお勧めしないし、お勧めできない。
 残酷で、滑稽で、皮肉で、グロテスクで、しかし、切ない愛の物語ばかりがずらりと並んでいる。
 アンデルセンではなくグリムの世界を、恐怖とユーモアをまじえて、現代に再現したような短編集とでもいえばいいだろうか。
 いってみればバロックの宝石箱。ありきたりの愛の物語に飽き足りない読者のために用意された、いびつな真珠がここにはごろごろころがっている。
 ついでながら、ダン・ローズ、幸せな作家で(訳者も幸せなのだが)、日本でさらに三冊目の翻訳、『小さな白い車』も出ている。これまでの二作とちょっと変わった、茶目っ気たっぷりの物語。ダイアナ妃を殺しちゃった、単純で、浅はかで、優しくて、したたかで、手強くて、とてもキュートな女の子ヴェロニカと、彼女をとりまく変な人々が織りなす、ちょっと変でおしゃれな現代の童話だ。
 さて、ダン・ローズは寡作な作家なのだが、どうやら Gold という本が出たらしい。早く読まなくちゃ。
 最後になりましたが、文庫化にあたって編集の香西章子さんに大変お世話になりました。あと、たまにメールをくださる作者のダン・ローズさんにも心からの感謝を。

     二〇〇六年八月一八日
                金原瑞人