あとがき大全(62)

金原瑞人

           
         
         
         
         
         
         
    
   

1.なぜ日本人は外を見なくなったか
 理由はよくわからない。けど、それって、あまりいいことじゃないと思う。
 音楽は邦楽、小説は国内作家。そして、日本は美しい国であるという押しつけ。日本人の目が内側へ内側へ向いていって、上からも締めつけられて、ずいぶん窮屈になってきたような気がする。
 たしかに、邦楽のレベルも上がってきたし、国内作家の作品のレベルも上がってきたから、それで十分、そもそも、親しみやすいし……というスタンスはわかる……けど、世界は広いし、そこには信じられないほどの可能性が潜んでいる……ということを忘れてはいけない。日本なんて、ほんとに小さい。世界のごくごく一部に過ぎない。そのなかの東京はもっと小さいし、その私鉄沿線に住んでる自分はもっと小さい。そんなに小さな自分が日本のなかのものだけで充足していていいのだろうか。もちろん、いい。いいけど、外に目を向ける楽しみというものもあるのに、もったいないじゃん。
 いまでも、ある種の本が読めない国がある。国の方針に大きくはずれた本を禁書にする国がある。いうまでもなく、日本でもそういう時代がかつてあった。そういう国や、そういう時代においても、ごく一部の人々は、こっそり隠れて、そういう本を読んだし、そういう本を広めようとした。
 それなのに、いま、これほど自由な(そうでない部分も最近増えてきたけど)日本で、自ら文化的鎖国状態を選んでいる人々の気が知れない。
 とは思うものの、こういう論議というのは難しくて、あくまでも趣味の問題だから、押しつけられないし、押しつけるものでもない。考えてみれば、邦楽だったら、歌詞は歌詞カードがなくても大体わかるしね。翻訳物より日本作家の作品のほうが、入っていきやすいしね。
 となると、なにをかいわんや、である。
 しかし、翻訳文学で中高大学時代を過ごしてきた自分としては、なにかいいたい。
 というわけで、『12歳からの読書案内(海外作品)』(すばる舎)という本を作ってみた。執筆者は次の通り。
 「月刊MOE」の編集者の位頭さん、翻訳家で書評も書いている三辺律子さん、児童文学の研究者で、とくに英語圏のエスニック物に強い鈴木宏枝さん、産経新聞社文化部の宝田茂樹さん、自らもめった斬りにされながら、軟弱な作品をめった斬りにして気炎を吐く書評子、豊崎由美さん、センスの良さと斬新な言葉遣いでめきめき頭角を現してきた歌人の東直子さん、この「児童文学書評」サイトの主催者、ひこ・田中さん、フランス物の翻訳ならまずこの人という、平岡敦さん、フリーランスの編集者で書評も書いていて、来年から理論社の『ミステリーYA』を立ち上げようとしている光森優子さん、そして現役の大学生7名。それに、あさのあつこさんと森絵都さんの特別寄稿もあり。
 まずは、紹介されている100冊の本の、数行の概要だけでも拾い読みしてみてほしい。絶対に日本の作家には書けない作品、驚きに満ちた作品がずらりと並んでいる。
 というわけで、この本のまえがきとあとがきを。

まえがき
 『12歳からの読書案内』が好評なので、海外編を編まないかという話が編集者からきた。むちゃくちゃうれしい。じつは海外編を出したくてたまらなかったのだ。いまの日本、若者も年輩も、またその中間もみんな目が内側に向いて、日本しか見なくなってきている。音楽も邦楽なら、読書も国内作家ばかりだ。
 たとえば、大学の生協書籍部で「読書マラソン」というのをやっていて(大学四年間で本を百冊読もうという企画)、こないだ「読書マラソン五十選!」というのが書籍部の雑誌に載った。『ラッシュライフ』『4TEEN』『つめたいよるに』『カラフル』『センセイの鞄』など、ヤングアダルト向けの本が多いし、なにより文庫が多いのもほほえましい……のだが、よく見ると、圧倒的に日本の現代作家のものが多い。翻訳物は『異邦人』『あなたに似た人』『夏への扉』など、古典、ミステリ、SF、ノンフィクション、ごちゃまぜにして八点のみ。それもたいがいが古い。
 また、集英社の今年の夏の文庫フェアのリストをながめて驚いた。翻訳物はほとんどない。光文社の「本が好き!」という小冊子に毎号載っている「書店員さんのお勧め本」のコーナーも、九割以上が日本作家の作品だ。
 集英社の「青春と読書」という読書情報誌の二〇〇六年十一月号に、石田衣良がこんなことを書いている。
 「なぜ、これほど日本人は外を見なくなったのだろう?」と始まるこのエッセイは、日本人は洋楽をきかなくなり、翻訳物を読まなくなり、「ひどく内むきになってしまった」と訴える。そして日本だけが「美しい」という発想の貧困さを指摘し、「すべてはほかのたくさんの国との調和から、国々の美しさというものが生まれる」と主張している。
 石田衣良らしい、きっぱりとした、いいエッセイだと思う。
 世界は広い。そして世界の想像力は驚くほどの可能性と意外性に満ちているし、なにより楽しい。ぜひぜひそれを味わってほしい。

あとがき
 この本で紹介を担当したのは、最年長は金原で、最年少は大学生。作家、歌人、批評家、編集者、翻訳家、学生、その他の人たち。趣味も性格も状況もそれぞれに違うが、本好きという一点では共通している。そしてまた、金原が心から信頼しているという点でも共通している。自分のブックガイドとして、また図書館のヤングアダルトサービスの手引きとして、そしてなにより、一冊の短編小説集風の読み物として楽しんでいただければ、うれしい。
 ただ、注意してほしいのは、斎藤孝風の「親子でいっしょに読むブックガイドではない」ということだ。おそらく、この本は人畜無害、文部省推薦のよい子のための読書案内ではないし、国語教育のたしにもまったくならない。ものによっては、子どもは親に隠れ、親は子どもに隠れて、こっそり読むべき本もある。読書というのは元来、危険なものなのだと思う。つきつめれば、「生・死・愛」しかない。いや、「性・狂気」も追加しよう。
 そのわくわく、はらはら、ぞくぞくする感触は親や子どもとは恥ずかしくて共有できないこともある。いっしょに読むなら友だちや恋人という本だ。そのへん、お間違いのないように。
 二〇〇六年十一月吉日                金原瑞人 


2.その他のあとがき(『ダークタワーの戦い〈エリオン国物語 II〉』『小鳥たちが見たもの』『アナンシの血脈(上)(下)』

   訳者あとがき(『ダークタワーの戦い』)

 ――さあ、出発するのだ、アレクサ!
 第一巻『アレクサと秘密の扉』で、動物たちの助けを借り、自分の住む町を邪悪な陰謀から救ったアレクサは、その大活躍から一年後、ウォーヴォルドから手紙をもらい、旅へ出るよう命じられる。
 死んだウォーヴォルドがどうして? 不思議に思いながらも、アレクサは{もちろん/傍点}胸を踊らせ、また秘密の扉からこっそり町の外へ抜け出す。
 旅の仲間は、前回でおなじみの小人のヤイプスとリスのマーフィー。オオカミのダライアスは現役を引退して、奥さんのオデッサが代役をつとめることに。そして今回は新たに人間の仲間が加わる。第一巻の終わりに名前が出てきた元囚人ジョン・クリストファーだ。
 ところが、アレクサはもう動物とは話ができない。魔法の石の力は消えてしまったのだから。ところが旅の始まりでアレクサはふたたび魔法の石を手に入れる。しかも、今度のはただの魔法の石じゃない。エリオン国の運命を握る石で、創造主エリオンを滅ぼそうともくろむ邪悪な存在アバドンが必死になって手に入れようとしてきたものだった。
 つまり、国の運命、創造主の生死がアレクサの手にゆだねられたのだ。
 なぜ、そんな大事なものが自分に託されたのかわからないまま、アレクサは国を守るために旅をつづける。
 やがて、ひとつひとつ、謎が明らかになっていくが、その先に待ちかまえていたのは……!
 第一巻は、裏切り者をつきとめるミステリー風の物語だったが、この第二巻は、手に汗握る本格冒険ファンタジーだ。
 守るものが町から世界にスケールアップするとともに、敵は囚人から創造主を倒そうともくろむ何者かにスケールアップ。冒険のスケールも難度も危険度も一気に高くなる。
 人食いコウモリの群れ、毒が塗られた棒が無数に立ち並ぶ針の谷、狂暴な野犬、悪徳の限りをつくす残酷な男、そのしもべである巨大な鬼!
 少女、小人、リス、オオカミ、囚人というグループが、この困難を乗り切れるのだろうか。敵味方入り乱れての、わくわく、はらはらの物語が始まる。
 そして最後の最後でアレクサを待っている秘密とは……?
 物語の完結編、エリオン国物語3も、まもなく刊行されるのでどうぞお楽しみに!

 なお、最後になりましたが、編集の野田理絵さん、原書とのつきあわせをしてくださった海後礼子さん、そしてなにより、細かい質問にていねいに答えてくださった、作者のパトリック・カーマンさんに心からの感謝を!

      二〇〇六年十月二十九日
                           金原瑞人・小田原智美

   訳者あとがき(『小鳥たちの見たもの』)

 一九七七年。中国では副首相の座を失脚していたトウ小平が復活し、ディスコ・ミュージックがダンスフロアを席巻し、スペースシャトル〈エンタープライズ号〉が有人の飛行実験を成功させ、映画〈スター・ウォーズ〉が何百万もの観客を動員し、ある漁船が太平洋の底から死骸を引きあげ、恐竜の屍かと話題になった。
 オーストラリアのとある地域のなんのへんてつもない住宅地では、三人の子どもがアイスクリームを買いに出たまま、もどらなかった。
 同じく、オーストラリアのとある地域のなんのへんてつもない住宅地で、エイドリアンという男の子が、朝刊の不鮮明な写真をじっと見ていた。そこに写っているのは、怪物。頭をがっくりさげている姿は、みじめな敗北者のようだ。冷たい水の墓場から引きずり出されて、さらし者にされるなんて、恐ろしい怪物でも、悲しかった。

 こんなふうに始まるこの物語はいったい読者をどこに導いていくのだろう。
 最初から、この物語には漠然とした恐怖、不安、そして謎……敗北、悲しみ、そして切なさが漂っている。
 主人公は九歳の少年エイドリアン。両親は離婚し、母親が精神を病んでいるため、祖母に引き取られている。が、祖母は厳格なうえに、もう子育てをする自信も気力もない。いっしょに暮らしている、おじ(母親の弟)のローリーは二十五歳だが、ある事件以来、ほとんど家から出ようとしない。エイドリアンは内気で、運動オンチで、学校では目立たないし、友達もひとりしかいない。いつも何かにおびえ、おどおどしていて……
 あるとき、エイドリアンは公園で泣いている女の子ニコールに出会い、死んだ小鳥をいっしょに埋葬することになる。ニコールは近所に越してきたばかりで、家には男の人(父親?)と、妹と弟がいるのはわかっている。そういえば、歩いて十五分ほどの店までアイスクリームを買いにいったきり、いなくなってしまったのも三人の姉弟だった。もしかしたら、ニコールたちは失踪したあの三人なのかも……。
 この作品は、エイドリアンの恐怖と不安と孤独を驚くほどたくみにすくい上げていく。それは置かれている環境のもたらす不安であるとともに、子ども時代特有の恐怖でもあり、ニコールもそれらをエイドリアンと共有している。
 ほとんど事件らしい事件も起こらないまま、エイドリアンの不安はつのっていく。
 そして……。

 気がつくと、エイドリアンは声をあげていた。激昂した鳥が鳴き叫ぶ声だ。エイドリアンは両肩から大きな白い翼を広げ、ビニールの上に飛びたった。ニコールが消えた地点に向かって。

 不安に満ちた冒頭から、この鮮烈で静けさに満ちた美しいエンディングにいたるまでに、なにがあったのか知りたい方はぜひ、ゆっくり、最初から読んでみてほしい。この詩とも小説ともつかない、不思議な雰囲気の漂う物語は、ささやかだが、どこまでも広がっていく宇宙をそのなかに秘めている。
 ハートネットの『木曜日に生まれた子ども』を訳したとき、そのあとがきで、こんなふうに書いた。

 一般書の世界でもそうだが、ヤングアダルトむけの本の世界でも、信じられないほどの個性と想像力で新しい領域を切り開いていく、魔法使いのような作家がたまに出てくる。たとえば現在、イギリスならデイヴィッド・アーモンド、アメリカならフランチェスカ・リア・ブロック、オーストラリアならこのソーニャ・ハットネット。三人ともほかの作家とはまったくちがう「何か」を持っていて、ちょっとずれた作品や不思議な作品を投げかけてくる。そして、どの物語も激しく強烈なのに、どこかやさしい。

『小鳥たちが目にしたもの』は、『木曜日に生まれた子ども』とはまったく手触りがちがう。もっともハートネットは、ふたつと同じ風合いの作品を書かない。書くたびに新しく、書くたびに読者を驚かせ圧倒する。が、どこかですべての作品がつながっている。それは、主人公や登場人物への思いやりと共感、子どもたちをとりまく無関心な社会や人々に対する厳しい眼差しと、心からの怒り、そしてこの独特の文体だろう。
 それにしても、『木曜日』の主人公の弟ティンが地下に迷路のようなトンネルを掘り進んでいくのに対して、『小鳥たち』のエイドリアンは最後、空に羽ばたく。まるで、救いは地下か空か水のなかにしかないかのようだ。

 なお、最後になりましたが、編集の田中優子さん、原文とのつきあわせをしてくださった菊池由美さんと秋川久美子さんに心からの感謝を!
        二〇〇六年九月                 金原瑞人


   訳者あとがき(『アナンシの血脈』)

 二〇〇三年、ニール・ゲイマンが子ども向けに書いた『コラライン』(ヒューゴー賞、イギリスSF協会賞受賞 )を翻訳したとき、ちょっと評判になってうれしかった。「子どもにとっては冒険小説、大人にとっては恐怖小説」という感じのゴシック・ファンタジー、かわいいことはかわいいけど、不気味なこともまた不気味で不思議な作品だった。
 『コラライン』は、SF作家テリー・プラチェットの言葉を借りればこんな感じの本だ。
「震えが背骨を駆け下り、靴から駆け出し、タクシーに飛び込み、飛行場までいってしまうだろう。この本には、素晴らしいフェアリーテールがもっている、なんとも言葉にできない恐怖がある。まさに傑作。この本を読んだら最後、これまでと同じ目でボタンをみることはもうできなくなってしまう……」
 そのゲイマンが書いた大人のためのファンタジー『アナンシの血脈』(Anansi Boys)がついに日本の読者にお目見えとなった。
 さて、作品の紹介の前に、簡単にゲイマンの紹介をしておこう。
 まず、イギリス生まれで、アメリカ在住。「サンドマン」というグラフィック・ノヴェル・シリーズ(いってしまえばアメコミなのだが、そのユニークな内容とカルト的な人気のせいか、こう呼ばれることも多い)の原作者。そしてSF・ファンタジー作家で、『ネバーウェア』で世界幻想文学大賞を受賞、American Gods(角川書店より出版の予定) でヒューゴー賞とブラム・ストーカー賞を受賞している。ついでに書いておくと、宮崎駿の『もののけ姫』の英語吹き替え版の脚本を書いたのもゲイマン。
 そのゲイマンの最新作がこの『アナンシの血脈』だ。
 アナンシというのは、アフリカの民話や神話に登場するトリックスターで、クモでありクモ男であり神様でもある。驚くようなことをなしとげる英雄のこともあるが、おばかなことをしでかしてしまう道化のこともある。ゲイマンはこのアナンシを、作品のなかで「物語の神」として登場させ、次のように説明している。
「アナンシは、物語に自分の名前を与えた。すべての物語はアナンシのものだ。そうなる前はトラ……のものだった。物語は暗く、邪悪で、苦痛に満ち、ハッピーエンドでおわるものなどひとつもなかった。けれど、それは大昔のこと。いまでは、すべての物語はアナンシのものなのだから」
 さて、田舎町でファット・チャーリーという青年の父親が死んだ。じつはこの父親というのがアナンシだった。え、神様が死ぬの……というつっこみたくなる気持ちはわかるが、それは最後まで読んでみてほしい。ともかく、とりあえず、アナンシは死ぬわけで、その葬式あたりからこの物語は始まる。ファット・チャーリーは父親の葬式のときに、自分には双子のきょうだいがいることを知って、呼び寄せてしまう。これがスパイダー。チャーリーはなんの取り柄もない、ださださ男だが、スパイダーはハンサムでスマートで、女の子にもてるうえに、不思議な能力まで備えている。そしてチャーリーの生活に土足で踏みこみ、ガールフレンドまで自分のものにしてしまう。チャーリーは失地挽回とばかりに、異世界に飛びこんで鳥女と約束をかわし、スパイダーを追い出そうとするが、これを境に、この物語と世界が大きくゆらぎはじめる。チャーリーとスパイダーの運命や、いかに!?
 まあ、「サンドマン」や American Gods を読めばわかるが、ゲイマンの知識と興味の広さには驚くしかない。そしてなにより、斬新なイメージを使いながら、それを現代にからめて生き生きした物語を作り上げる才能にもまた、驚くしかない。それはこの『アナンシの血脈』を読んでもらえばすぐにわかってもらえると思う。まさに「現代のアナンシ」と呼ぶしかない。
 
 最後になりましたが、編集の津々見潤子さん、翻訳協力者の圷香織さん、原文とのつきあわせをしてくださった秋川久美子さんに心からの感謝を!

        二〇〇六年十一月二十日
金原瑞人

3.最後に
 今年もまた、おつきあいくださって、ありがとうございます。来年もまた、こんな調子でやっていきたいと思います。
 どうぞ、よろしくお願いします。