あとがき大全(65)
金原瑞人

           
         
         
         
         
         
         
    
1.学生部長という仕事
 といっても、ぼくの場合は多摩キャンパスの学生部長であって、全学の学生部長とくらべれば、ごくごく楽なもので、中核派との戦いとかはないのだ。だから、ビラに顔写真を載せられて、「暴力教師、横暴!」とか書かれることもないし、蹴られたり殴られたりすることもない。
 多摩の社会学部に専任講師で入ったときは、自治会とのトラブルがあったり、一部学生との小競り合いがあったりしたものの、それも10年くらいのうちにおさまっていった。そしていま、自治会はない。それから数年して、市ヶ谷のほうでもほとんどの学部の自治会はなくなっていった。歴史的役割を終えた、とでもいうのだろうか。
 また、学友会という組織、いまの法政にはしっかりあるが、現在では、法政、中央、慶應のほかはないのではないか。これもどうなるのか。
 ぼくが法政大学に入学したのは二浪したあとだから、1975年。当時の法政にはまだかなり学生運動の名残が色濃くあって、前期後期の終わり頃にはよくバリケード封鎖があって、試験が中止になったし、暴力事件も流血騒ぎもあった。また、研究室が荒らされ、数十年にわたる研究資料・結果がすべて無に帰してしまって、呆然とした先生もいた。
 そんなことを思い出すと、たしかに隔世の感がある。
 ただ学生がおとなしくなったぶん、大学が強力になったところもあって、ぼくなんかからみていると、学生は大学にいいようにされているような気がしないでもない。もっと頑張れといいたい。まあ、ジレンマといえばジレンマであって、おまえはどちらの味方なんだといわれるとちょっと困る。
 しかし大学から給料をもらっているぶんには大学側の人間なのだが、学生課とか学生部長というのは、学生のために大学が作ったわけだから、やっぱり学生の味方でいいのだと思う。
 というわけで、4月からちょっと忙しい。6月も一泊二日の会議がふたつ入ってるし。ひとつは他県。
 5月はカート・ヴォネガットのエッセイ集を訳していた(短いけど、所々、難しくて……) あと、大学の翻訳ゼミではジェラルディン・マッコクランの『シェイクスピア物語』に収められている10の話を毎週ひとつずつやっているところ。あ、そうだ。シャロン・クリーチの詩の形の作品が3年越しでやっと仕上がった。偕成社の編集さんに渡して、ゲラにはなったけど、出るのはまだまだ先かな。
 とまあ、近況報告でした。
 そんなわけで、この「あとがき大全」も遅れ遅れで申し訳ありません。
 さて、5月に出た本であとがきのついているのはクリッフ・マクニッシュの『ゴーストハウス』とルイス・サッカーの『歩く』。

2.『ゴーストハウス』と『歩く』

   訳者あとがき(『ゴーストハウス』)

 クリフ・マクニッシュの頭のなかは、いったいどんなふうになっているんだろう。
 たとえば、『レイチェル』のシリーズ。第一巻目の異様な世界、グロテスクな魔女、不思議な事件、そのどれもがすごかったが、それが第二巻、第三巻と進むにつれて、異様さもグロテスクさも不思議さも、驚くほどスケールアップしていく。
 そして次の『シルバー・チャイルド』のシリーズでは、『レイチェル』を楽々と越えて、ぞっとするほど新鮮で新しい世界を作り上げてしまった。
 まったく、この人の想像力は、想像もつかない広がりを持っているらしい。
 そのマクニッシュの最新作がこの『ゴースト・ハウス』(Breathe : A Ghost Story)だ。英語のタイトルのとおり、「幽霊物語」なのだが、これまで、ファンタジーとは思えないほどユニークなファンタジーを書いてきたマクニッシュのこと、ただの「幽霊物語」とはまったくちがう。
 最初、四人の子どもの幽霊が登場する。人の目にはみえない、薄っぺらい体になって死んだときの服装のまま、宙を漂っている。ところが、妙なことになにかを恐れている。そこにジャックという少年がやってくる。はげしいぜんそくに悩まされていて、つい最近父親をなくしたばかりだ。ジャックは、目にみえないはずの幽霊たちがみえるらしい。それだけでなく、特殊な能力もあるらしい。こうして、子どもたちの幽霊とジャックの物語が始まり、やがて、幽霊たちの恐れているものが姿を現す。そしてジャックには死の影が忍び寄る。
 物語そのものも不気味だが、なにより恐ろしくて切ないのは、幽霊というのは、この世に置き去りにされた者たちか、あの世にいくことを拒んだ者たち、という設定だ。それがどんな悲劇を引き起こして、登場する幽霊や少年を引きずり回すのか、そのへんの恐怖をじっくり味わってほしい。
 ユニークな設定、全体に流れる不気味な雰囲気、予想もつかない展開、どれをとっても最高なのだが、最後の最後に、反則ぎりぎりのどんでん返しが待っている。「反則ぎりぎり」と書いたが、普通の幽霊物語だったら、「反則そのもの」になっていたにちがいない。ところが、マクニッシュはそれを恐ろしいほどの想像力と筆力でもって、「反則ぎりぎり」におさえこんでしまう。すごいなと思う。この本を読み切った読者は、最後の最後の最後のページを閉じるとき、きっとため息をつくにちがいない。
 きっと、一生忘れられない本になると思う。
 
 最後になりましたが、大奮闘のリテラルリンクのみなさん、原文とのつきあわせをしてくださった中田香さんに心からの感謝を!

     二〇〇六年五月十日
金原瑞人


   訳者あとがき(『歩く』)

 代々続く悪運を背中にしょって生まれてきたような少年スタンリーが「靴を盗んだ」という濡れ衣を着せられ無実の罪で、テキサスの焼けつくような陽射しのもと、毎日毎日、朝から晩まで穴を掘らされることになる……場所はグリーン・レイク、といっても「緑の湖」なんて嘘っぱちもいいところで、「からからに干上がった湖の底」……スタンリーたちを監督する大人は悪人ぞろいだし、スタンリーの仲間だってひと癖もふた癖もあるやつばかり……ルイス・サッカーの『穴』はそんなスタンリーの十四ヵ月を描いた話だった。
 といっても、暗い話じゃない。いや、それどころか、どことなくユーモラスで、途中からは痛快で、最後は、あまりに鮮やかなどんでん返しに、身をよじって笑い転げたくなる、胸のすくような冒険小説。身に覚えのない罪で、不幸と不運にめった打ちにされ、理不尽で不条理でどうしようもない状況で、ぐっと足を踏んばって、それらに立ちむかう、われらがスタンリーは素敵なヒーローだ。
 さて、その『穴』の続編の『歩く』、主人公はスタンリーからセオドア・ジョンスン(別名・アームピット)にかわる。アームピットもまたグリーン・レイク仲間だが、無実ではない。「特大サイズのカップに入ったポップコーンのせい」で乱闘になって捕まり、炎天下、穴掘りをさせられていた。そして穴掘りから解放されて二年後、アームピットはまた穴を、いや、溝を掘っている。
 このへん、やっぱり、ルイス・サッカーはうまい。
 アームピットは根はまじめなので、施設に舞いもどったりしないよう、高校を卒業しようと勉学につとめながら、造園会社でバイトをしている。そこへ、さびの浮いたホンダ・シビックで乗りつけるのがグリーン・レイク仲間のX・レイ。いい話があるからひと口乗らないか、という。カイラ・デレオンという超人気、売れっ子ポップシンガーのコンサート・チケットを買って、プレミアムをつけて売りさばこうというのだ。
 『穴』を読んだ人ならすぐに、「やめとけ!」と思うだろう。しかし次の瞬間、「やっぱり、ひと口乗っちゃうんだろうな……」と思うはずだ。そしてルイス・サッカーの読者ならきっと「あーあ、やめときゃいいのに。だけど、やめたら、たぶん、この話はここで終わってしまうんだろうな」と思うに違いない。
 このなんてことないもうけ話につい手を出したアームピットは、じりじりと悪運に引き寄せられ、あっと思ったときはすでに遅く、轟音をたてて回転する悪夢の車輪にしばりつけられて、坂道を転がり落ちていく。行く手に待ち受けるのは、ミステリタッチの命がけの冒険と、切ないラブロマンス。
 読者はきっと、「アームピットったら!」とかいいながらも、思わず笑ってしまうかもしれない。とことん運命にもてあそばれる話なのに、どこか、おかしい……ここが、ルイス・サッカーの持ち味だ。それにしても、最後にはそれをはねかえすアームピットは、スタンリー同様、かなりタフだ。
 しかし今回は『穴』とちがって、めちゃくちゃいい仲間が登場する。アームピットは、「生まれて初めて自分を尊敬し、思いやってくれる人間に」出会う。それは隣に住んでいるジニーという十歳の白人の女の子。生まれたときからの脳性麻痺で、たまに発作を起こすし、しょっちゅう言葉がつっかえる。このジニーとアームピットの関係がいい。おたがいに「支えあいながら、一歩一歩前に進んでいく生き方を身に着けようと」するふたりの姿は、やわらかく、じんわりと心を打つ。そのジニーの「え、え、X・レイの話なんか、し、し、信じちゃだめ」という忠告を無にするところから、アームピットの不運は始まる。
 そしてもうひとり、最高の仲間が登場する……けど、こちらは、ないしょだ。読んでのお楽しみ。ただひとことだけいっておくと、この仲間が登場することで、この物語は、すごくすごくすごく素敵な青春小説になっている!
 作品の背景について少し説明しておこう。舞台になっているオースティンという街はテキサス州、つまりメキシコと国境を接する州にある。暑い。夏は三十五度から四十度近くまで気温があがり、炎天下では芝生がみるみる枯れていく。南部の州で、かつては奴隷が強制的に働かされていて、いまでもアフリカ系アメリカ人(黒人)が多い。黒人の歌、ブルースの生まれた土地でもある。いうまでもなく、主人公のアームピットも黒人。だから、言葉も白人とは違う。ちょっと、軽いラップのノリのある言葉、とでも思ってもらうといいかもしれない。そんな特徴は日本語には訳せないけれど、なんとなく、そんな雰囲気だけでも伝わっていればいいなと思う。
 ルイス・サッカーの作品を読んでよく感じるのは、なにより物語のうまさと、アメリカ南部独特のほら話的スパイス、そして、じわっと伝わってくるユーモアだ。どうか、心ゆくまで味わってほしい。
 最後になりましたが、ていねいに原稿をみてくださった編集者の渡辺由香さん、原文とのつきあわせをしてくださった石田文子さん、それから、この作品の翻訳をまかせてくださった翻訳家の幸田敦子さんに心からの感謝を!
二〇〇七年四月十日          金原瑞人

(注)文中、「炎天下では芝生がみるみる枯れていく」とあるけど、もちろんジョークです、ジョーク。まさか本当だと思った人はいない……よね。