気まぐれ図書室(7)

──ここで会ったが百年目──
西村醇子

           
         
         
         
         
         
         
    
 今月のタイトルを考えているとき、ふと「ここで会ったが百年目」というフレーズが浮かんできた。最近は、刊行中のシリーズの続刊こそ買うものの、あまりマンガを読まなくなっていた。ところが先月、友人に『雨柳堂夢噺』(波津あき子)を教えられて以来、またマンガに熱中している。つぎつぎに読み漁る羽目になったのも、ひとえに波津作品との出会いのおかげ。そこで、こういう場合に「百年目」の表現が使えるかと期待して辞書を見た。すると「運命のきわまるとき、おしまい」または「めったにない好機」とあり、思い描いていたイメージとは少しずれている。
 「百年目」は、百を使った慣用表現のひとつだ。英語のミリオネア(百万長者)が、大金持ちを表しているように、「百薬の長」とか「百鬼夜行」でも、百は漠然と多さを表している。先ほどの「ここで会ったが百年目」も、じっさいには百年という時間の長さとは無関係だった。ところが例外がある──あのペローの「眠りの森の美女」である。
あらすじは述べるまでもないだろうが、要するにお姫様が呪いにかけられ、死ぬかわりに百年間眠りつづける。そして百年後、ひとりの王子が通りかかり、この姫の蘇生に立ち会う、というもの。「ねむり姫」「いばら姫」「野ばら姫」ともいう。
さて今月、『ねむり姫がめざめるとき』という本が阿吽社から出た。(……ようやく、きょう取り上げる本までたどり着いた。)おそらくこのタイトルだけでは、昔話の研究書――たとえばI・フェッチャー『だれが、いばら姫を起こしたのか』(ちくま文庫)──の仲間がもう1冊増えたように思われるだろう。けれどもそれは、大いなる誤解である。
「フェミニズム理論で児童文学を読む」というサブタイトルが示すとおり、これはロバータ・シーリンガー・トライツが、児童文学のフィールドでフェミニズム批評を実践した本である。ちなみに原書の表紙は、濃い紫色をベースにし、丸いベルのついた目覚し時計のなかに「ねむり姫」の目覚めを表す図柄を収めたものだったが、日本語版の表紙は、もう少しやわらかでおしゃれな印象を与える。白地に縦書きで行書調の黒のタイトルが入り、その上に原書と同じ紫色を重ねてある。イラストは、タイトルの左側に茶色の細い線で、いばらをモチーフにしたと思われる、絡み合うつる草が描かれ、右側は空白。何気なく手にとりたくなる装丁だが、内容は手ごたえがある。
 トライツの本を読むのは、どんな人だろう? 序文には狙いは「フェミニズムと児童文学の接点をさぐること」だと述べられている。やはり(1)フェミニズムに関心がある (2)児童文学に興味がある、のどちらかだろう。もちろん、(3)フェミニズムと児童文学双方に興味がある、というケースも考えられる。
 この本の最大の魅力は、フェミニズム理論が、児童文学の理解に役立つことを示す実践にあると思う。
 これまで、フェミニズムと児童文学は、昔話または個別の作家・作品論のなかで論じられるケースが多かった。フェミニズムの理論書はかなり出ているが、「フェミニズム+児童文学」という組み合わせは珍しい。2001年に日本イギリス児童文学会編『英米児童文学ガイド:作品と理論』(研究社)を出版したとき、「フェミニズムの批評」という1章(執筆者:横川寿美子)をもうけたのも、そのためである。そしてそのなかでも触れられていたトライツの本が、今回訳された『ねむり姫がめざめるとき』なのである。
全体の流れは、最初に理論の確認作業をおこない、つぎに個々の作品の解説という手順の繰り返しになっている。登場人物の役割を分析し、作家の用いているメタファーやテキスト間交流の手法(間テキスト性)を考察し、主体性や声を注目した研究をへて、最後に教師が児童文学を教えるときにぶつかる問題で締めくくっている。
 このなかでわれわれにとって一番なじみ深いのが、2章「ステレオタイプをくつがえす──伝統的性役割の拒否」だろう。フェミニズムは、「最後にはいやおうなく受身になる、という結末から、女の主人公を解放し」たことだけでも、児童文学に貢献している。そしてトライツは、男女どちらかの価値を否定したり肯定することなく、両者を平等に扱う両性具有の概念に可能性を見出している。……おそらく茅田砂湖の『スカーレット・ウィザード』(中央公論社)が例にあがっていれば、と思ったのはわたしだけだろうか。
 アプローチに目新しさがあり、しかも読んでいてスリルを味わったのが、「エイジェンシー」(主人公の行為する力;行為主体性)を取り上げた3章「ジェンダー問題としての主体性──隠喩とテキスト間交流」と4章「沈黙を乗り越えて──声を取り戻す少女たち」である。児童文学は、現実にはむずかしいような、行為主体性をもつ子どもを描くことができる。パトリシア・マクラクランの『おじいちゃんのカメラ』を例にとれば、祖父を拒み、その被写体になることを拒否していた主人公ジャーニーが、カメラ・レンズの両側に位置するようになって、はじめて「祖父との人間関係を受け入れ、そのなかで、自分の主体性を確立し、相互に与えあいのできる関係をきずいてゆく」というような分析は非常に説得力がある。
各章にはかならず最後にトライツによるまとめ部分があり、理解を助けてくれる。入門書を意識したという訳語の選び方も、順当である。八人の訳者(織田まゆみ、多田昌美、矢野真知子、永田里奈、福本由紀子、横田順子、水間千恵、松下宏子)が本文を担当し、全体を吉田純子・川端有子が監修している。
 なお、この本を読み、トライツがおこなっている「読み直し」の意味を知るためには、なかに出てくる児童文学をある程度読んでいることが望ましいだろう。さもないと発見の喜び(の何割か)を、みすみす逃すかもしれない。たとえば女性作家ではヴァジニア・ハミルトン、ルイーズ・フィツヒュー、マーガレット・マーヒー、フランチェスカ・リア・ブロック、男性作家ではアヴィ、ポール・フライシュマン、シド・フライシュマンなど。巻末に訳者が日本語で読める作品を載せてくれているので、これを機に、取り上げられている作家・作品の現物に当たることを勧めたい。
本日はここまで。また。