二人の作家

野坂悦子

           
         
         
         
         
         
         
    
 私の仕事は、海外の本、特にオランダ語で書かれた児童文学を日本に紹介することです。エルス・ペルフロム作『第八森の子どもたち』は、なかでも愛着のある一冊です。
 ナチス・ドイツ占領下のオランダで、少女ノーチェが、疎開先の農家クラップヘクでどんな日々を過ごし、どんな体験をしたのか。『第八森の子どもたち』に書かれていたのは、知らない世界、それまで思い描いていたのとはまったく違う戦争でした。時代背景はもちろん、オランダ中部のフェリューウェ地方の自然、農家の生活について知らないままでは訳せません。知識は少しずつ集めていけばいい、大変だけれどなんとか日本の読者に紹介したい。そんな思いで走りだし、一章ずつ翻訳に取り組みました。
 そうしているあいだふしぎな懐かしさも感じていたのです。一九三五年生まれの私の母は、日本が敗戦した年、十歳でした。戦時中は深刻な食料不足に悩まされ、母もノーチェと同じように家族とともに田舎へ疎開したそうです。母の父(私の祖父)は、東京の下町で自転車工場を経営していましたが、プレス機械の事故がもとで右手の人差し指を失い、召集をまぬがれました。
「おじいちゃんが散歩がてら、傘の先で、知らない畑のイモをちょいちょいとほじくっておくの。そのあと子どもの私たちが走っていって、イモを拾うのよ」
「終戦後、配給だけで暮らしていた家族が飢え死にしたって、新聞によく記事が出ていたわ。闇市で食べ物を買えばよかったのにねえ」
 ぎりぎりの状況のなかでなんとか生きぬいてきた。そんな思いに支えられていたのか、母の口調はむしろほがらかでした。でも何が正しいことで、何が正しくないことなのか、私にはわからなくなりました。いろいろ考えながら、母の子ども時代の話をむさぼるように聞きました。
 『第八森の子どもたち』の語り口には、母の昔話に共通する響きがありました。この作品と出会うことによって、母とほぼ同世代のオランダ女性から、もう一度戦争の思い出話を聞かせてもらえたのです。

 そんななか、クルド人作家ジャミル・シェイクリーがオランダ語で書いた『ぼくの小さな村 ぼくの大すきな人たち』『いちじくの木がたおれ ぼくの村が消えた』と出会い、私の関心はクルディスタンまで一気に広がりました。一九八九年にクルディスタンからベルギーへ亡命したこの作家は、故郷の思い出をもとに両作を書きおろしました。
 彼の作品を読むまで、クルディスタンについての知識は限られたものでした。報道を通じて、そこで何が起きたのか知っていても、想像力を働かせようとはしなかったのです。二、三千万人のクルド人が住むクルディスタンという地域は、大国のパワーゲームのなか国として認められず、現在イラク、イラン、シリア、トルコの国境に分断されています。イラク・イラン戦争の末期(一九八十年代の終わり)、イラク軍は化学兵器を使って国内のクルド人を何度か攻撃しました。『いちじくの木がたおれ ぼくの村が消えた』には、村を壊され、収容所に追い込まれる当時の人々のようすが、五歳のアラームの視点から描かれています。いっぽう『ぼくの小さな村 ぼくの大すきな人たち』は、ロバ競争やウサギ狩り、結婚式など、のどかな村の生活を中心にした作品です。明暗ふたつの作品を訳すことで、クルド人の受けた迫害を、初めて自分の問題、人類全体の問題として感じられるようになりました。
 今年四月、シェイクリーさんは、東京と大阪で開かれた戦争児童文学に関する国際シンポジウムにメインスピーカーとして出席しました。ジャーナリストとしてゲリラに加わり、イラク北部の山岳地帯で暮らしていた、戦いにまきこまれて死んでいく子どもを大勢見てきたと、語りました。「今、国境を越えて、子どもたちに伝えたいことは?」という質問を受け、「ぼくは子どもになにかを教えるつもりはない。ただ自分の経験を目に見えるように伝え、子ども自身に考えてもらいたい。大切なのはその考え方だと思う」と答えていました。
 私も考えるのが大好きな子どもでした。そして子どもは、人間について、戦争について、もっともっと本当のことが知りたいのです。
 この地球上のどこかで、今も戦争が起きています。「悲惨な戦争を繰り返してはならない」と言葉でいうのは簡単ですが、なぜ戦争がいけないのか、子どもに教えられるものではありません。現実の戦争を知り、人間の本当の姿について自分の頭で考えることが、大人にも子どもにも求められているような気がします。
 そのヒントとなるような本を、これからも紹介していくつもりです。
季刊「ちいさな芽」6号(2001年6月発行)に多少加筆