悪童日記

アゴタ・クリストフ
堀茂樹訳 早川書房

           
         
         
         
         
         
         
     
 「双子の物語」に夢中になることがある。双子に夢中なのではなくて、双子をめぐる物語にである。双子は、いままでいつも「物語」になって登場した。
 ちょうど二十年前、カリフォルニアの小さな町で毎週宿題に苦しんだ半年が思い出される。宿題をだした人は「昔話の魔力」を書いたべトゥルハイムの娘さんで、当時週一回現われる非常勤講師だった。この人は、私がその時までに出会った女性の中で一番黒髪の美しい(膝頭にとどいていた)、灰色がかった緑色の眼の大きい、陶器のように白い肌(彼女のそばに座ると自分の皮膚が本当に黄色くて、うぶ毛が黒いことを私ははっきり知った。隣にはもう一人の留学生で私と同様、返事だけ完璧な英語でできるガーナからきた黒い男子学生がいた。まさに隣人の色を見て自分がアジア人であることを確認し、おくればせながら私のカリフォルニア生活は始まった)の人だった。「子どもの発達段階」とやらを調べるため、私は近所の保育所へ毎週一回出かけていって、かっきり一時間、壁にぺタとはりついていなければならなかった。しごくあたりまえだが子どもたちはもの珍しげに寄ってくる。でも一言も話すな、答えるな、笑うな、ただ一時間、一人の子どもに焦点をあてて観察するという課題である。メモをとってもいけない、動かすのは眼と頭と心で、最初はとまどったがそれにも慣れて日は過ぎた。ジ ニファーという三歳の女の子を選んだ私は、子どもが同じことを持続できる時間の短さに驚き(と同時に子どもがあまりにもいろいろなことをするのに打ちのめされ)一人の子をめぐる友達、喧嘩の輪、模倣の多様さにうっとりしたものだった。記憶はすべて、何ら感情の人らない現在形の文章の連なる記憶にした。その後、この経験が役に立ったことなど一度もないのだけれど、嬉しいことに眼を閉じれぱジニファーの勝ち気な横顔が、また古い消防自動車の窓からあたりをうかがっている疑り深い眼が数十年たった今も浮かんでくる。しかしこれは苦い経験だったので、ノスタルジックにジニファーの姿を愉しむわけにはいかないのだ。ジニファーは一人ではなかった。観察の最後の日、保育所の先生は愉快そうに話した。「あの子は双子だから……・もう一人のXXとは交替でここへも通ってるの」その時その課題につけられた評価も、べトゥルハイム先生のため息をつかせるような毎週のファッションも一気にふっとんだ。見破れなかった、一人の人間を見ているつもりだった。ひどく殴られたような気分を今も忘れるわけにいかない。
 やがて日が経ち、今から六年前刈谷政則さんから手渡された本が「沈黙の闘い-もの言わぬ双子の少女の物語」マージョリー・ウォレス作だった。カリブからィギリスへ移住した一家の三番目の子として生まれてきた一卵性双生児ジューンとジニファー(何とまたジニファー!)。二十年以上も縅黙し続けた双子の姉妹の影から私は永久に逃れられないことになってしまった。
 そしてここでは圧倒的な本としてアゴタ・クリストフ作「悪童日記」と「ふたりの証拠」をあげる。母親が、双生児の男の子二人を田舎に住む祖母の家に疎開させようとするところから物語は始まる。舞台はハンガリーの田舎。時代は第二次世界大戦末期から戦後にかけてのことらしい。母親は「私の可愛いおちびさんたち、良い子でいなさいね。手紙を書きますからね」といい、双子を抱き寄せて接吻し、泣き顔で去っていく。おばあちゃんは高らかに笑い、「わしゃ、これからおまえたちに、生きるっていうのはどういうことか教えてやるわい!」というが、それをうけてぼくらはおばあちゃんにべろを出してみせる。これが「悪童日記」の冒頭シーンである。滅多に大人が子どもに〈真実〉を教えることなどできないと思われるが、この不潔で粗野、文盲、夫殺しのおばあちゃんはそれをやってのける。終戦を間近にしてお母さんが赤ん坊の妹を胸に抱き、二人を連れにやってくる場面でそれがはっきりする。「私の大切な子供たち。お母さん、あなたたちを残しては出発できないわ」ぼくらは言う。「ぼくら、ここで気持ちよく暮らしているんだ、お母さん。よそへは行きたくない。おばあちゃんとい っしょにここに残りたいんだ」その時砲弾が爆発しお母さんの頭は穴の中に垂れ下る。両眼は開いたままで、まだ涙に潤んでいた。やがてやってきたお父さんは、掘り返した大きい骸骨とその胸部にくっついた小さな骸骨を見つめ、涙と汗と雨に濡れて行ってしまう。ぼくらは骸骨を屋根裏部屋に運び、骨が乾くように藁のうえに並べ、何カ月もかかって磨き、 ニスを塗って、ばらばらになった骨を細い針金でつなぎあわせ復元する。ぼくらは骸骨を梁に吊し、その首に赤ん坊の骸骨をひっかけて、それが揺れる下で〈大きな学童用ノート〉に文を書きつけて生き続けた。二人は先生なしで文字を学習し、教材には辞典と聖書を用いる。作文については主題を決めて二時間で書き上げ、お互いの綴字の誤りを正して、「良」「不可」を記す。規準は単純なルール「作文の内容は真実でなければならない」だ。「感情を定義する言葉は、非常に漠然としている。その種の言葉の使用は避け事実の忠実な描写だけにとどめたほうがよい」それが「良」と判定され、晴れて〈大きな帳面〉に清書された「悪童日記」そのものなのである。「ふたりの証拠」は、双子の一人リゥカの物語である。この若者は、国境を越えて いずれ帰ってくるはずの兄弟クラウスのために日記を書き続けている。物語の「性と生と書物」が静かに、冷静に、言葉少なく語られれば語られるほど、抑制された囁きが一語一語から漏れ聞こえる。また物語としてのおもしろさは、最終章の八章で三十年ぶりにもどるクラウスにある。リゥカの姿はなく、クラウスはリゥカの育てた子どもの骸骨と母親、妹の骸骨を見る。そして我々読者はクラウスに関する本国送還依頼状の中味を小説の最後で読むことになる。ビザの延長を申請し続けたクラウスは、兄弟リゥカの帰還まで当市に残る希望を主張、又その少年時代を同人の祖母のもとで過ごしたと主張、しかしどの登録台帳にもリゥカなるもの、またクラウスも同様記載されている事実はない。最後の「付記」は、双子への思い入れの深い人間に衝撃的なパンチを打ち込んでくる。「クラウスは原稿によって、リゥカの存在を証明できると主張……リゥカなるものが同原稿の大部分を執筆、クラウスは第八章を書き加えたに過ぎないという。ところが、筆跡は最初の頁から最後の頁まで同一、同一人物によって、六ヵ月を越えない期間に、執筆されたものである。内容はフィクション以外のものではありえない 。描かれた事件、登場人物も実在しない。……自称クラウスの祖母についてだけは、実在の形跡をつきとめた。同夫人は、先の戦争のあいだに、一人もしくは二人以上のこどもの監護を任されたかもしれない」双子の物語から誰も逃げることなどできないのだ。(島式子