あの愛はいま

アーラ・B・ドラープキナ

田辺佐保子訳 岩崎書店 1998

           
         
         
         
         
         
         
     
 本書を開いてまずびっくりしたのが、構成のユニークさである。かってのクラスメート八人の内的モノローグだけで、物語が構成されているのである。
 八人のモノローグで一体どんなストーリーが展開されるのだろうと興味を覚えたところに、同窓会という魅力的な舞台が用意されていた。同窓会と考えただけで心が浮き浮きしてくるが、それも十二年ぶりともなれば再会の味もまた格別であろう。
 十二年ぶりの同窓会に集まった八人の内的モノローグだから、学校時代の思い出や再会の喜びなどが語られあまり起伏のあるストーリーは望めないかなと思っていると、またここにあっと驚くような創意が凝らされていた。ミステリーのように、過去に起きた一つの事件の真相が解明されていくのである。
 モノローグをする八人は、ソビエトの十年制学校でのクラスメートたち。このクラスでは、最終学年のときにブローチ紛失事件が起こっている。ブローチの持ち主はヴィーカで、クラスの人気者のクサーナがブローチを取ったと疑われた。だがペトロフスカヤが自分が取って窓から捨てたと言ったので、皆はペトロフスカヤを排斥した。数日後、ヴィーカがクサーナの筆跡とおぼしき謝りのメモを何人かの友達に見せ事件は一変した。クサーナの恋人だったアリョーシャはクサーナから離れ、クサーナは一人ぼっちになる。その後アリョーシャはヴィーカと結婚した。
 同窓会は、画家で独身のクサーナのアトリエで開かれた。そこで偶然にもヴィーカのバッグからハンカチにくるんだ問題のブローチが落ちて、ヴィーカは皆の前で真相を話さなければならなくなる。ブローチはなくなったのではなかった。そしてクサーナのメモは、ヴィーカの仕業だった。
 さて、ブローチ紛失事件のストーリーの流れはモノローグという形式とどう結びつくのだろうか。作品の出来を左右する重要なポイントだが、作者はこの二つを見事に結びつけている。
 最初の独白者は「もの知り屋」とあだ名されたリューシャで、同窓会のお膳立てをする。リューシャが電話をかけると、ペトロフスカヤはリューシャなんか知らないと言う。リューシャはショックを受け、ここでブローチ紛失事件のあらましが語られる。二番目はうぬぼれ屋のサージナ。クサーナのアトリエで、お互い愛してもいず尊敬もしていないアリョーシャとヴィーカの夫婦の状態が明らかにされる。三番目はもの静かなゴルボノース。ゴルボノースはアリョーシャの親友だった。過去のカメラ事件からアリョーシャの性格が語られる。四番目はアリョーシャ。厳格に原則を通す人間アリョーシャがクサーナとの愛をどう見ていたかが語られる。
 来るのを渋っていたペトロフスカヤ登場。ここでブローチがころげ出し、ヴィーカが事件の真相を語ることになる。五番目は勿論ヴィーカ。どうしてクサーナを陥れるようなことをしたのかそしてその報いが語られる。六番目はペトロフスカヤ。事件の真相を聞いて飛び出したアリョーシャを自動車で送りながら、原則について愛について語りアリョーシャに自分の正しさを考え直してみるように仕向ける。七番目は思い込み屋のラリーサ。残った仲間が話しながら、アリョーシャとヴィーカのその後が暗示される。八番目はイリメンスキイ。イリメンスキイが関わったブローチ事件の続きが語られる。以上、八人のモノローグの中に、ブローチ事件の起承転結が鮮やかに織り込まれている。
 また内的モノローグをつないでいるところから、当然、各人の思いは手にとるように分かる。ヴィーカの気持ちや周りの反応などこわいほど現実味を帯びて迫ってくる。白黒の版画的な挿絵も、各人の特徴をよく伝えている。しかしそればかりではない。愛とは、良心とは、芸術とはといった人間にとって大きな問いかけがなされているのである。「愛とは信じること」という聞き慣れたはずのこの言葉がいかに説得力をもって響いてくることか。(森恵子)
図書新聞 1988年7月2日