あのころはフリードリヒがいた

リヒター作
上田真而子:訳 岩波少年文庫

           
         
         
         
         
         
         
    
 たとえ自分にとって不利であっても、自分がかかわってしまった出来事を隠さず人々の記憶にとどめること。児童書なら、次の世代にその負債をちゃんと渡すこと。
 教科書問題でもまた繰り返されたように、日本では、このことが忘れられています。忘れられているというより、思い出したくないが、正解かな?
 この物語に出会ったとき、いつまでたっても日本が、過去の戦争責任に関して、他のアジア諸国から批判されてしまうか、その一点がわかった気がしました。
 戦時下の子どもの物語は、戦争を引きおこしたのは子どもではないから、犠牲者として描かれることが多いです。それはあとから振り返ればそうかもしれないけれど、戦時下において子どもは本当はどう考え何をしていたかの方を描かないと、知らない世代にはリアリティがありません。犠牲者です、可哀想です、だから戦争は止めましょう? なんて、誰も反対しないけれど、耳を通り過ぎていきます。
 『フリードリッヒ』はドイツ人のぼくの目を通して、幼なじみのユダヤ人、フリードリッヒの一生を描いていきます。幼い頃の楽しいエピソード、不況になりぼくの父親は失業したけどフリードリッヒの父親は職があり、両家族で遊園地にでかけても、一緒に写真を撮るためのお金もだせなかったこと。ヒトッラーを非難していた父親も職を得るために党員になったこと。そして、
 ぼくもフリードリッヒもヒットラーユーゲントに憧れたこと・・・。
 後に「クリスタル・ナハト」と呼ばれる夜がやってきます。町にあふれたドイツ人たちはユダヤ人の店を次々と襲う。ぼくが親しくしている文具店のおじいさんのところも。呆然とするぼく。けれど、周りの熱気にあおられ、気づけばぼくも石を投げていた。
 ぼくの父親は党員だから情報が入るのでフリードリッヒの親に、早く亡命することを勧めるのですが、いくらなんでもとんでもないことにはならないだろうと判断したのが裏目に出ます。親は収容所送りとなり、一人町を逃げまどうフリードリッヒ。空襲の恐ろしさに、ぼくたちが隠れている防空壕を必死で叩く彼。でも入れてはもらえません。防空壕から出たぼくが見たのは、死んでしまったフリードリッヒ。彼の死に、ぼくは責任がないのか?
 訳者の力もあるのでしょうが、日本語で読むこの物語は、感情をできるだけ押さえ、あったこと、起こったことを淡々と描いていきます。被害者ではあったけれど、やはり加害者の一員であったぼくの目線で。子どもとてそうなのです。後に作者が訳者に語った言葉。
「この物語の『ぼく』は、私です」。TRC2001.010(ひこ・田中