足音がやってくる

マーガレット・マーヒー:作
青木由紀子:訳 岩波書店 1982/1989

           
         
         
         
         
         
         
     
 マーガレット・マーヒーは、現代ニュージーランドの、いや、英語圏の有力な作家である。彼女は、図書館の仕事をしていたという。そうした経歴のためかもしれないが、幼児からヤングアダルトまで、幅広い年齢の読者にむけて書いている。絵本や読み聞かせのショートストーリーから長編まで形式もさまざまである。主要な作品は、無気味な超自然的物語と、リアリスティックな思春期小説と、ナンセンシカルなエンターテイメントの三種類にわけて考えることができる。各傾向の代表作といえば、それぞれ、この『足音がやってくる』や『めざめれば魔女』(“The Changeover:A Supernatural Romance”)、『贈りものは宇宙のカタログ』(“The Catalogue of the Universe”)、『いかさま海賊こんぐら航海記』(“The Pirates' Mixed-up Voyage”)になるだろうか。

 魔法使いの一族の物語
『足音がやってくる』は、“The Haunting”という原題である。幽霊にとりつかれること、想念につきまとわれること、という意味だそうだ。この場合、とりつかれるのは、バーニーという男の子である。冒頭、「何の前ぶれもなく、ごく普通の金曜日に、バーニーは世界が傾いて、どちらを向いても足もとの地面がどんどん下り坂になってしまうような気がした。そしてまた幽霊が自分にとりつこうとしていることがわかった」とある。彼が学校から帰る途中、突然、空中に青いビロードの服を来た4、5歳の男の子が現れ、しゃがれた小声で「バーナビーが死んだ! ぼくはとってもさびしくなるよ。」という謎のメッセージを伝え、その姿がくるくる回りながら見えなくなったとたん、写真のちぎれた断片が舞い下りてきて、指に触れると水銀の玉になって、地面に落ちる前に消えてしまった。彼(正式な洗礼名はバーナビー)は、幽霊におまえはもう死んでいるのだと宣告されたと思い、逃げるように走って家にたどりつくと、二人の姉トロイとタピサから同名の大叔父の死を教えられ、彼は、気を失ってしまう。いきなり謎めいた出来事の描写が読者をつかむ。そして、そのまま謎解きへと引き込んでいく。
実は、これは幽霊ではなく、バーニーが魔法使いの家系の子孫で、そのスカラー家のコールという大叔父が使った魔法だとわかってくる。コールは、魔法使いの資質をもつ子どもだったため、母親に嫌われて行方不明になっていた。が、唯一の理解者だった兄のバーナビーが死んでさびしくなり、バーニーを同じ素質がある仲間と見て連れ去ろうと思いたったのだ。彼がどこかから近づいてくる足音だけがこつこつと響く。バーニーは、半ば意識をのっとられ、別の場所でコールが見ている風景を見せられつづけ、消耗しきってしまう。やがて、コールが到着、スカラー家のひいおばあさん(コールの母)もやってきて対決になるが、意外にも新しい魔法使いはバーニー以外の別人だったという逆転がしかけられている。(ストーリーテラーとして抜群の技術をもったマーヒーの長編を要約することには無理があるようだ)。

 家族小説と幽霊物語
わたしたちは、『足音がやってくる』を家族小説と幽霊物語という二つの顔のいずれかにひかれて読むことになるようだ。
バーニーの身を守ろうとしてくれたのは、継母のクレアや平凡な父親のパーマーやおしゃべりな姉のタピサといった家族だった。バーニーは、クレアの出産を間近にして、クレアが自分の実母と同じに死んでしまったらどうしよう、赤ちゃんのために自分の居場所がなくなったらどうしようと不安だった。が、父親は、おまえはうちの子だ、だれにもおまえを連れて行くことなどできないと断言してくれたのだった。また、魔法使いの姉トロイも、正体を告白することができた。つまり、新しい妻=新しい母親をむかえた家族が事件をきっかけに別の家族の歪みとコントラストをなしながら本当にまとまった家族に変化・変身する家族小説だということができる。
作者は、「飛ぶ教室」No.33にのった講演で「家族というものはその構成メンバーにもいろいろな違いがあることを認め、その違いを支えあい、ある程度までそれを喜んでやるべきだ」といっていた。ここにこの作品の「倫理」がある、と。この言葉からわかるのは、コールとコールの母親もバーニーとは別の意味で「とりつかれていた」のではないかということだ。二人は、魔法使いだという事実をうまく受け入れられなくて、母と子で敵意を抱きつづけたからだ。たぶん、hauntingとはなんらかの拘束力によって人間の意志や思考の自由が奪われてしまう状態の比喩なのだろう。だから、読後感は、奇想天外なファンタジーの軽さではなく、本格小説の重みである。
ゴシック小説が趣味だという人は、幽霊物語として読むことだろう。ここでの「こわさ」は、嫌悪映画と恐怖映画の区別でいえば、どろどろした嫌悪感ではなく、清潔な恐怖感である。足音だけがやってくるところや、足音が消えたとたん、電話がなって、受話器のむこうから着いたよと声が聞こえてくるところなど、サスペンスは、相当なものだ。また、魔法使いの話は、読者に「選ばれてあることの恍惚と不安」というナルシシズムを与えてくれるのかもしれない。これは、一流の「娯楽」にちがいない。(石井直人
児童文学の魅力 世界編(ぶんけい 1998)
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