あしたは月よう日

長谷川集平

文研出版


           
         
         
         
         
         
         
         
     
 なんてことない日曜日の、昼時の茶の間を描いた絵本だ。お母さんは昼食後の洗い物をしている。お父さんはテレビを見ながら鼻くそをほじって飛ばしたり、たばこをすったり、おならをしたりしている。子どもたちはそんな父親に、「どこにも連れていってくれない」とか「きたない」とか「ただの中年のしょうもないおっさんみたいやんか」と言っている。テレビの上に置いてあるお土産の飾り物みたいに平凡な時間がながれている。そんななかで、お父さんが泣くのだ。「この人の歌、きれいやなあ」と。テレビではしらない国の女の人と子どもたちが、天使のようにすきとおった声で歌を歌っていた。「ぼくら」家族4人はその歌声にのって、たかくのぼっていき、しらない国のやさしい丘のうえで天使の歌を聴くのだった。最後のページでは、がらりと場面を変えて家族でラーメンを食べている。「ゆうがた、駅前に ラーメンたべにいった/おとうちゃんすいせんの みせや/めっちゃ おいしかった/あしたは 月よう日」と、どこにも行かなかった、何もなかった日曜日の話が締めくくられる。
 実はこの絵本は、阪神大震災で亡くなり、傷ついた「その朝まで、おだやかなふつうの生活を送っていた方々」に捧げられている。そういう一言が見返しに掲げられている。そこにある「ありきたりの休日が、どんなに大切なものだったか わたしたちは思い出すことができます。」というようなことは、あの地震にちなんでよく言われることだ。そう思ってこの絵本を読めば、ありきたりの休日のかけがえのなさを思う謙虚な気持ちに、確かになれる。けれども、ぼくがこの絵本から受けた印象は、それよりほかにある。
 あの地震のことでぼくが思い出すイメージは二つある。まず思い浮かぶそのひとつは、崩れ落ちた高速道路でも被災した人たちの姿でもなく、こたつで寝転がってテレビを見ている当時の上司の姿だ。あの連休明けの火曜日、ぼくは上司と出張に出た。高速道路には救援に向かうトラックがたくさん走っていた。関西方面からの荷物が届かない、という話を耳にした。車のラジオはつけっぱなしだ。死んだ人の数が次々に増えていった。宿に入るとすぐにテレビをつけた。寒い日だった。上司はこたつにはいって、「あらあ、たあいへんだ」とつぶやきながらテレビを見ていた。死者の数が告げられるたびに、それをぶつぶつ復唱していた。ぼくはそういう上司の態度に反発を感じて、でもなにもしていなかった。そんな野次馬的関心は持っていませんよ、というポーズをとっていただけだ。そして時間がたつにつれて、被災地の実況中継だけでなく、この地震や救援活動や被災生活についての解説が流されるようになると、その情報をもとにして「たいへんさ」を分かろうとしていた。今から思えば、ぼくも野次馬のひとりに違いない。野次馬というか、観客だったのだ。
 ぼくは分かろうとしていた。「その人の身になってみましょう」的に理解をしようとしていたのだ。それはあの地震に限ったことではなく、ぼくの身に付いたあるパターンなのだ。なにか情報を得て、それを理解する、そういう「情報処理」みたいなパターンが自分の中にある。そのことに気がついた。この絵本を読んで、地震の時のことをふりかえって、ぼくはありきたりの休日のかけがえのなさについて思う以上に、「分かるより感じたい」と思うのだ。「ただの中年のしょうもないおっさん」がテレビから聞こえてきた歌声に感動して泣いてしまうのだ。おっさんは感じている。ぼくは感じているだろうか。
 地震のあった年の秋に、友人の結婚式があって、神戸へ行った。復興ということが言われはじめていたころだ。焼けた跡のあるビルの壁や、敷石のもりあがったままの歩道や、建物の間に急に現れる空き地などの風景は、テレビで見覚えのあるものだった。地震のことでぼくが思い出すもうひとつのイメージは、その時に見たある光景だ。
 表通りから奥に入った路地を歩いているとき、小さな印刷屋の前を通り過ぎた。その店先には、使い込んだ木製の棚が出されていて、そのまわりには何か細かいものが、掃き出されたように散らばっていた。近づいてよく見ると、それは活字の鉛の棒だったのだ。表通りの復興の活気とはうらはらな、力が抜けるようなやるせなさを、そのときぼくは感じた。その印刷屋の人たちや神戸の人たちが実際にどんな気持ちでいたかは分からない。ぼくが感じたやるせなさというのは、その人たちの気持ちを想像したわけではなくて、ぼく自身が感じたものだった。感じる、というのはそういうことだ。
 ぼくはあの地震についていろんなことを知っている。「〜ていうことなんだよね」と言うこともできる。でも、そんなことりも、あの地震にぼくは何を感じたのだろう。この絵本を読んでそう考えた。何かを感じられたとしても、ぼくは観客のままかもしれない。でも分かる観客と感じる観客は、すこし違うと思うのだ。(トール)




 本を閉じたら目から涙がたくさん出てきた。
 悲しいお話じゃない。おかあちゃんがお皿洗って、おねえちゃんがゲームボーイやって、おとうちゃんがハナクソほじって。テレビの中の天使のような歌声を聞いておとうちゃんが泣いて、みんなで聞きほれた。きれいな歌声だった。それから家族でラーメン食べに行ったいつもの日曜日。
 ひとしきり涙を出し終わってみて私は、あーずいぶんたまっていたなと気づく。この絵本は、長いこと体の中にしまいこまれていた涙を強引にひきずり出す。
 それからしばらくの間は副作用のように、ふいをついて涙意をもよおす。地下鉄の階段を下りていて突然、湯船につかっていて突然。あのとき出さなかった涙が気持ちいいくらい出てくる。歌いながら歩行訓練をするおばあちゃんの夕やけこやけを聴いたときの涙。赤ん坊の産着の着せ方を間違えて看護婦さんにしかられたときの涙。
 ある晩の帰り道ふと、友だちだったともいえない何ともいえない、サブリナさんはいないんだと思った。両手に下げた荷物が重くて、家に着いてからでいいやと思い、涙も鼻水も出しっぱなしにしておいた。
 知人のライブに出掛けると、だいたいいつも居たので、追っかけかと思っていたら恋人だった。まっ白で、子どもみたいに細っこい体は、いつでもライブハウスの暗がりにぼうっと浮かんでいるように見えたんだった。 
 私がイベントのパンフレットに西荻窪の街について書いたら一通だけファンレターが届いて驚いた。以前住んでいたことがあり、そのときのことを楽しく思い出したということを、ひかえめな正直な文章で、もこもこした几帳面そうな間隔のつまった文字で便せんに三枚も綴っていた。返事を書いたら、返事が来た。それから最後まで会話という会話はしなかったけれど、ときどき人づてに「よろしく」などと伝言があったりして、嬉しくてどぎまぎした。
 芝居に主役で出ると聞いたので観に行った。その前の年に自殺した漫画家の話で、ぴったりの役だった。最後の挨拶の時、顔がまっ青で倒れそうではらはらした。次の日留守伝に「観に来てくれてありがとう」と入っていた。留守伝の中で「あのときは風邪をひいていて」とくやしがってていたけれど、私はよかった、もう一度観たいと思っていた。アンケートにもそう書いただろうか、書いていればいいけれど、もう忘れてしまった。
 一年後、思い出したように結婚祝いのカードが届いた。それから半年して出産祝いのカードが届いた。そんなしゃれたことをする友だちは他に誰一人いなかったので、私は照れくさく、嬉しかった。私は返事を出したんだろうか。
 あのときはお昼前、五月晴れ。ちょうど帰省のために家を出るところだった。知人の声の後ろにはサブリナさんのCDが流れていた。手応えがなかった。無理してしゃべったらとんちんかんなことを言ってしまった。電話のむこうは不愉快だっただろうなと、しばらく苦い思いをした。
 告別式に行かれないので手紙を出そうと思った。すぐに届かなければと郵便局のファックスレターにした。実感がないくせに書いてしまったものだから、宙ぶらりんのふやけた手紙になってしまって、今度はすごく後悔した。それっきりになってしまった。
 ずっとしまわれていた涙が出てきてはっとした。思い出した。私はいつか、取り返したいと思っていたんだった。あの手紙をどうにかして書き直したいと思っていたんだった。(おおばやし)
「25才児の本箱」(大林えり子&澤田暢)

書評初出「みるよむひらく」(19号/98/1/10)