エデンの門

ウィリアム・コーレット作
越智道雄訳
1980年(1974年) 岩波書店

           
         
         
         
         
         
         
    
◆少年はかならずエデンを去ってゆく
 老人と若者、この異なる世代の出会いの物語として、まず念頭に浮かぶ代表的な作品がこのコーレットの三部作の一冊目である。だがその主題は単なる世代を越えたコミュニケーションの回復、そしてめでたしめでたしではない。息苦しいほどセンシティブなこの作品の提示するものは、もっと奥深い人生の不条理だ。しかしまた若い人たちは、このような形でなくとも、かならず自分を真っ二つに引き裂かれたような感情と、それからの苦しい脱出を体験するものであり、コーレットは十五歳の高校生である主人公と、老いた退職教師のファルコナーの出会いと別れを通して、それを独自な手法で描いてみせたのだった。
 そして重要なファクターとして少女が介入してくる。ありきたりに要約すれば、これは少年と風変わりな老人の友情のただ中に少女が忽然と現れ、選択を迫られた少年はついに、子ども時代を象徴するエデンの門を少女と共に出て「かなたの国」へおもむき、老人は「死」へとおもむく、という物語だ。老人と若者、その出会いはけっして至福で無傷のままではあり得ない。共生するにはそれぞれの生はベクトルが違いすぎる。少年を、「かなたの国」へ駆りたてる衝動の強さは、いかに少年が老人への思いやりのために抗【あらが】おうと、<若さ>そのものが持つ本能的な力でもあるのだ。
◆詩の心は確実に手渡される
 物語の舞台は、イングランド北東部の北海に面した海辺だ。店を経営する両親は土地の共同体にしっかり帰属しているが、エディンバラの全寮制の学校にいて時たま帰省するだけの<ぼく>は、家庭でも地域でも浮き上がったような行き場のない感覚を味わっている。夏休みのある日、林の中で彼は奇妙な風態のファルコナーに出会うが、老人は彼よりもさらに孤立し、土地の人びとからは変人扱いされていた。彼らは急速に接近し、ファルコナーは少年にA・E・ハウスマンの詩をすすめて文学の喜びを教える。少年にとって老人は文学と自分自身とについて開眼させてくれた師であり、老人もまた少年の存在に限りなく慰められる。
 しかし少年は、それこそが青春の証である、得体の知れない強く激しい願望に突き動かされており、もう一つの青春の形である暴力的な<非行>も、グレッグという若者の姿で彼や老人の身辺に出没する。一方、共同体の中では老人はまったく疎外されていて、少年の母は彼を「みすぼらしい小男」と蔑【さげす】み、その名前をいっこうに覚えようともしない。<ぼく>の家のクリスマスにファルコナーが招かれる場面は、一人の人間をめぐる認識のずれと偏見がみごとに描かれて秀逸だ。
 そんな風だから<ぼく>は、唯一の理解者として老人の側に立ち、彼との友情を壊すまいとつとめる。しかし、金色の光彩をまとったような少女スーの出現によって、すべては覆【くつが】えされてしまう。彼女は<ぼく>にモーションをかけ、少年は行為としてはぎりぎりで踏みとどまりながらも、また老人との友情を宣言しながらも、しだいにスーに魅かれ、また老人を見るスーの視線に影響されていく。緊張した関係の中で<ぼく>とファルコナーがヒースの荒野に旅行する場面は印象的である。
 そして破局と出奔。それは<若さ>の当然の帰結だった。しかし時が経ち、再び思い出の地へ大人となって帰ってきた<ぼく>が捧げた一編の詩……。その詩の心こそ、老人が少年に伝え得た最高のものだったのではないか。何故か、辛い旅の後、詩人になって故郷に戻ったあのビルボ・バギンズを思い出させるエンディングだ。
◆実験的文体はテーマにふさわしい
 コーレットはこのすぐれたジュニア小説を書くにあたって、さまざまな文体上の実験を試みている。少年のさまよう林の描写は古典的でしかもシュールな美しさに溢れ、かと思うと突然短い独白のパラグラフが入り、戯曲のような会話の連続や書簡体が現れる。象徴的な手法も鮮やかで、暴力的な衝動を暗示させる場面にはフクロウの啼き声、少年の性的願望とその抑制を感じさせる場面には、少女の甲高【かんだか】い笑い声がこだまする、という具合だ。モンタージュ的手法ともいえるが、舞台俳優から戯曲作家となり、七〇年代にこれらのジュニア小説を書いた後、テレビの仕事に転向したという作者の独自性がこうした手法に現れ、また二作目の『かなたの国』(未訳)では成人した同じ主人公をギリシアの地におもむかせるほど古典文化に傾倒している作者らしい面も、この第一作にすでに窺【うかが】われる。三作目の『エデンに帰る』(一九七五)では、第一作の少年はすでに近未来社会においてファルコナーのような老人となっていて、コミューンから疎外された厳しい状況にある。ここに登場するマークという少年は、第一作の少年と違う形ではあるが、老人との共同生活によって人間的に成長する結末であり、三部作全体を通して大きく循環する輪廻【りんね】のようなテーマが見られて、興味は尽きない。
 また『月の裏側』(一九七六)は、名門私立高校の生徒誘拐事件と、月に打ち上げられたロケットの飛行士のエピソードをからませた衝撃的で斬新な作品だが、これを含めて「自己とは何か、人生の目的は何か」というテーマが、コーレットの全作品からエコーのように響いてくるのである。(きどのりこ

ウィリアム・コーレット(Wililam Corlett/1938〜)英国生まれ。俳優学校卒業後、舞台、テレビに出演するかたわら、自ら脚本を執筆。若者向けテレビ・ドラマ『障害*』が高く評価される。『エデンの門』『かなたの国*』『エデンに帰る』の三部作(1974〜1975)と『月の裏側』(1976)のジュニア小説を発表、簡潔な文体で「人生の意味」を問いかけた。共著で世界の宗教についての解説書6巻(1978〜1979)等を著した後、1980年代以降テレビの仕事に戻っている。

テキストファイル化岩本みづ穂