愛されることの困難
− リセットボタン−(1)

佐藤 重男
(UNIT評論98・論集)

           
         
         
         
         
         
         
         
    
(1)

 子どもたちに向かって、「現実は、TVゲームとは違う。気に入らないからといって、思うようにならないからといって、リセットを押してそれですべて元通り、はじめからやりなおし、というわけにはいかない」という大人たちがいる。
 ほんとうにそうだろうか。
 わたしは、リセットボタンはあると思う。
 子どもたちが困難にぶつかった時、そして、その多くが大人への不信によって引き起こされ、そういう自分にも不信を持ち、そして、のっぴきならないところへ追い詰められていったまさにその時、自分が十分に愛されていると知ったその子どもは、立ち直り、自立をはじめるだろう。
 愛されていると知ったその時、それが、リセットボタンが押された時なのだと思う。
 「育ちなおす」ということばがある。
 親密な人間関係の中で子ども時代をすごすこと、その権利は誰にでもあるはずである。それが、家族という関係であってもいいし、別の何かであってもいい。形式は問わない。
 にもかかわらず、不幸にして十分なコミュニケーションのないままに、空虚な人間関係の中でしか子ども時代を送ることができず、あるいは、突発的な人間関係の破壊という暴力に襲われることで、結果として、心の病気に犯されてしまったとして、では、その子どもは、その「病」を抱えたまま、残りの一生を過ごさなければならないのだろうか。
 そんなことはない。さきほどもいったように、誰にも、リセット装置はある。そして、それは、十分に愛されているとわかった時に作動するように組み込まれている。

 いま、子どもたちにとって生きることが困難な時代であるとするなら、それは、ためらうことなくリセットボタンを押すことができる関係がつくられないこと、言いかえれば、愛されることの困難に求めることができる。


(2)
 いうまでもないことだが、子どもたちは、「家族という制度」に組み込まれており、その制約の中で生きている。
 その子どもたちが、最初に誰かに愛されていると感じることがあるとしたら、それは家族からだということができるだろう。そして、愛されているという自覚、それが自我を形成していく上で、もっとも大きな影響力をもっているだろうことは、心理学者や精神科医の指摘を待つまでもない。
 「家族という制度」が、解体の危機にさらされ、「幻想でしかない」、といわれながらも、家父長制の温床として現実に機能しているのは、再生産システムとしてそのコストの低さに代わるものが見つかっていないということもあるが、人間関係をつくる上で効率がよいということも、大きく関わっている(と信じられている)からだと思われる。
 愛情によって結ばれた両親のもとで、愛と慈しみを一身に受けて育てられる子ども……、このような幻想によって、近代家族が発見され、それが「制度」として維持されてきた。二十世紀は、戦争の世紀であったと記録されるだろう。そして、繰り返された戦争が、近代家族を支えてきたともいえる。その逆もいえる。家族という最小単位からなる共同体幻想が、人々を戦争に走らせたきたのだ、と。
 その近代家族がいま、崩壊の危機にあるといわれている。だからといって、あしたから家族が消滅するというわけではない。「家族という制度」が不変の理想的な人間関係の場であるということが幻想にすぎないのではないか、そう思い始めたことそれ自体を指すのだと思う。もちろん、文字どおり崩壊してしまった家族もある。
 そして、そのような疑念や現実は、自分を愛してくれる者がいなくなること、自分と社会のあいだにある壁が一夜にして消滅してしまうこと、そのような恐れを子どもたちに抱かせる。


(3)

 『超・ハーモニー』の父親は、「まじめであることが人生でいちばん、大事」といつもいっている、長らく機械のエンジニアとして勤め上げてきた「仕事きっちり」のサラリーマンである。
 それが、どういうわけか、家庭のこと、家族のこととなると、手も足も出ない。七年ぶりに家に戻った子どもが女装しているのを見て、「脱力した右手から」かばんを落とし、「だまったまま、立ちつく」すだけである。母親のよびかけに「勝手にしろ」と早口の小さな声でいうと、自分の寝室に逃げこんでしまう。そのあとの夕食のとき、七年ぶりに家族四人がそろった「めでたい」席にもかかわらず、母親が注ごうとするワインを手でふさいでことわる。なんと子どもじみた行動であろうか。どうみても、いじけているとしか受け取れない。
 そのあとも、父親の言動は歯切れが悪い。自分の信条と合い入れないというなら、実力行使をしてでも排除するか改心させればいいものを、そうはせず、「いないもの」として扱うという、もっとも卑劣な手段をとる。母親もまたそれに準じた行動をとる。これは暴力である。
 だが、父親は、この仕打ちが、「まじめであることが人生でいちばん、大事」という、自分自身の哲学と相反することであることに気がつかない。「まじめであること」を履き違えているのだ。「まじめであること」とは、自分とどう向き合うかということのはずだ。ところが、この父親にとっては、「まじめであること」とは、「決められたルールを守ること」のようだ。そして、そのルールとは、家族の中で培われるものではなく、世間一般のルールにすぎない。 おそらく、この父親は、会社がどう自分の仕事ぶりを評価してくれるか、そのことを基準に生きてきたのではあるまいか。


(4)

 『超・ハーモニー』について続ける。
 後半、響きが隠していた中間試験の結果が両親に見つかり、そのことで責められる場面がある。そこでの父親のことば。「なんだ、これは」「なんだ、なにもいえないのか」「なんだ、もう、メッキがはがれたのか」……。この「なんだ」は、侮蔑以外のなにものでもない。「ばかやろう」には少なくとも怒りが込められている。しかし、この父親には怒りはない。侮蔑の感情があるだけである。親子の情愛とはそういうものだろうか。
 でも父親は、響きの願いを入れて川辺に出かけたではないか、との反論がありそうだ。なんだかんだいっても、親子だ、と。
 そうだろうか。
 父親は、にいちゃん(佑一)のことを許したのだろうか。ちゃんと向き合おうと決意したのだろうか。
 ちがう、と思う。
 父親は、響きの願いを入れてあげただけなのだ。響きは、家出などしそうにないし、どうせ佑一はいなくなる。ここで顔を出しておけば、響きは、ぼくはよくやった、と自分を褒め、そして、父親の自分に信頼を寄せるに違いない、そんな打算が働いていい。
 もし、父親が佑一を受け入れたとすれば、「女の人の装いをすると安心できるし、女の人じゃなくて、男の人が好き」だという佑一を受け入れたということになる。それは、「まじめであること」とはこういうことだと信じてきたことと相反することであり、そう信じて生きてきた自分の半生を否定することになる。会社とは何か、世間のいう常識とは何か、そういう、生き方に関わる問題を改めて問い直すことに他ならない。だが、それが出来ないからこそ、父親は、七年ぶりに佑一に出あったとき、パニックに襲われたのではなかったか。

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