ひこ・田中『力レンダー』の方法
-「家族」の物語、今様の描き方

甲木 善久
「日本児童文学」1993/11

           
         
         
         
         
         
         
     
 ひこ・田中の『カレンダー』(福武書店)は、幼いときに両親を失った主人公、その祖母、大人になリきれていないような二○代の男女、等々、ひとくせある人物達の関わりの中で男・女観、人生観が開陳される。血縁に依らない人のつながりの形を見せたのかも知れない。しかし、わたしには血縁へのこだわリが強く印象づけられた。(西山利佳「舌が、また、肥えた」よリ)

 本年(一九九三年)七月号の「日本児童文学」で、この文章を読んだとき、僕はかなりびっくリしました。
 もっとも、この文章、四○○字詰一五枚くらいの少ない枚数で、一九九二年度の「高学年向け」国産創作児童文学の一年回顧を行ない、その中で二八作もの作品について触れているのだから、筆者自身にしたところで十分満足のいく説明を行なったわけではなかろうと思います。だから、このコンパクトにまとめられた作品解説に対して、どうこう言うのは、少しアンフェアな気もするのですが、しかし僕は、この解説がみごとに圧縮され、それによって密度を増しているがゆえに、この短い解説の骨子である論理展開に驚いたのてす。
 この解説の後半部は、「血縁に依らない人のつながリの形を見せたのかも知れない」↓「しかし」↓「わたしには血縁へのこだわリが強く印象づけられた」という論理の展開を見せています。前の文で筆者は、「のかも知れない」という言葉を使って断定は避けていますか、それに続く文に逆説の「しかし」を用いた上、「わたしには血縁へのこだわリが強く印象づけられた」と、文字どおリ印象批評ではあるものの、断定的ないい方てまとめております。これって、変ですよね。だって、前の文で「かも知れない」と保留にした事項に対して、逆説を当て、次は断定しているんですもの。はい、もちろん、前の文の「かも知れない」は、客観的事実としての断定を避けていると見ることは可能です。しかし、にもかかわらず、後の文に「印象づけられた」+「ような気がする」などという言葉がない以上、少なくとも筆者の印象批評のレべルでは、「血縁に依らない人のつながりの形を見せた」という作品に対する認知は、「かも知れない」のではなく、明確な結論なのです。ということは、この文章を書いた人にとって、『カレンダー』という作品は、(1)「血縁に依らない人のつながリの形を見せた」作品 だし、にもかかわらず、(2)「血縁へのこだわリが強く印象づけられ」る作品なわけです。
 僕がびっくリしたのは、まず、この点です。確かに『カレンダー』には、「血縁に依らない人のつながリ」が描かれてはいます。赤ん坊の時に両親を交通事故で失った主人公時国翼ちゃんは、おとうさん方の祖父母に引き取られて育ち、小五の時に今度はその二人が離婚して、中一の現在は祖母・文字暁子さんと二人暮らしです。そこへもってきて、これがこの作品の導入になるわけですが、翼ちゃんは二○代の男と女を「拾った」わけで、お話の中で幾度かその組み合わせは替わリますが、彼女はそれらの人々とひとつ屋根の下て寝食を共にするようになるわけです。だから、翼ちゃんのおうちにいる人を〈家族〉と読んだ場合、その構成は、【時国翼 文字暁子 山上海 谷口極】という、すべて名字の違う人々によってなされます。このような、おおよそ現実にありそうもない設定を『カレンダー』がわざわざ描き出したことを見て、「血縁に依らない人のつながリの形を見せた」と捉えるのは、もちろん自由てす。しかし、私の個人的な感覚からすれば、描いたもの=見せたいもの、と捉えるのは、あまりに芸がなさ過ぎると思うのです。
 作者、ひこ・田中が、ここまでムチャクチャな設定で『カレンダー」という作品を語リ始めたことに、僕は、大変理性的な作意(作為)を感じます。それは、そのこと自体をひとつの理想、ないしは、メッセージとして語っているのではなく、この極端な設定を通してのある問いかけ、まあ、それはカッコよくいえば〈文学的実験〉ということにもなるのですが、要は、この設定自体に眼目があるのではなく、この設定から派生する事件や、さらに、この設定では語り切れなないことまでも、作者はこの作品の中に込めていると思うわけです。
 では、その問いかけとは何だったのでしょうか。それは、先の西山氏の指摘のとおリ「血縁に対するこだわり」だったと、僕は思います。ゆえに、僕は、論理的な弱点を孕んですら、自分の「印象」にこだわった西山氏に敬意を払います。その「印象」をいい切ったことに、氏の評論家としての立場に対する責任、そして、そのいさぎよさに心魅かれます。僕自身、婚姻届というものを出して結婚生活を営んでおりますか、友人の中には、いわゆる「事実婚」という形態をとって結婚生活を送る人がたくさんいます。その人たちの多くは児童文学に関わり、創作活動や、翻訳、編集、販売、という行為に、自分たちが社会と向き合う姿勢を込めて取リ組んでいます。「事実婚」というのは、大変にリスクを背負ったものなのですが、そのリスクとは、法的なリスクにも増して、人間関係の中に発生する精神的なストレスにとどめを刺します。しかも、その人間関係のストレスとは、会社や仕事関係の人々とより、親兄弟、親戚といった血縁関係によるものが大きく、届を出さなければ(たいていは「籍を入れる」と言う)周りから何を言われるか分かったものではないだの、やれ子どもが生まれたらどうするだの とせっつくのはおおむね親たちです。それでもなお「事実婚」を実践している人たちは、「結婚」の裏に潜む「家」という物語の呪縛を勇敢にも拒否した人たちなのですが、だからこそ、親たちの使う大義名分、すなわち、「家」と表裏一体である「血縁」というものにもこだわらざるを得ません。実は、『カレンダー』の作者、ひこ・田中氏もその一人です。彼とは、親しくお付き合いをしてもらっているという程ではないのですが、しかし、幾度かおしゃべりをした機会に、田中さんの中にある、「血縁」に対するまっとうな「こだわリ」を感じました。それは、実践者だけが持つ、力強くすばらしい「こだわり」でした。
 もちろん、この「作者を知っている」ということだけで、『カレンダー』が「血縁に対するこだわり」によって書かれたのだ、と言う気はさらさらあリません。そして、作者がなにがしかの考えを持ち、それを実践しているからといって、そのことが必ずしも「良い作品」を生み出すことになる、などと考えているわけでもあリません。

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