帰還

アーシュラ・K.ル=グウィン

清水真砂子訳 岩波書店 1993

           
         
         
         
         
         
         
         
    
 「ゲド戦記」の四巻目が翻訳された。作者のアーシュラ・K.ル=グウィンといえばアメリカの代表的なSF、ファンタジー作家だが、日本では「ゲド戦記」の作者といったほうが知られているのではないだろうか。アースシーを舞台にしたハイ・ファンタジー「ゲド戦記」は、『影との戦い』『こわれた腕環』『さいはての島へ』の三部作と考えられていた。ところが一九七二年に『さいはての島へ』が出てから十八年たった一九九O年にこの『帰還』が出たのである。ル=グウィン自身は、四巻目の構想はずっとあたためていたのだが、なかなかテハヌーが姿をあらわしてくれず書けなかったと、語ったという。
 それでは、そんなにも時を要した「ゲド戦記 最後の書」とは、いかなる作品なのか。まず、ざっと三巻目までをふりかえってみよう。『影との戦い』では、力はあるが高慢な若者ゲドが、魔法の修行中、死の影を呼びだしてしまい、その影に追われてさまようが、最後にはその影と一体となり、全き人間となる。『こわれた腕環』では、アースシーに平和をもたらすというエレス・アクベの腕環の残る半分を求めて、ゲドは名なき者たちの支配するアチュアンの墓所の地下にしのびこみ、めざす腕環を奪いかえす。その際、墓所を守る大巫女の少女も光の世界に連れ戻す。『さいはての島へ』では、大賢人ゲドは王子レバンネンを連れて死の国に赴き、不死を願うまじない師が開けてしまった生死両界をしきる扉を閉めて、世界の均衡を回復する。 『帰還』は、アースシーの新しい夜明けともいうべき作品である。しかし、三巻目までに見られるスケールの大きな冒険は全く影をひそめている。物語は二十五年後のテナーの登場で幕があく。テナーは、かつてアチュアンの墓所の大巫女であり、ゲドとともに腕環をもちかえった少女である。ゲドの師匠のオジオンにあずけられたテナーは、魔法を習うより 、女性として生きる道を選び、農夫と結婚し、子どもを生み育て、現在は未亡人となっている。テナーは親たちに強姦され、火になげこまれて殺されかけたジプシーの少女テルーをひきとる。 大魔法使いオジオンが死ぬ。オジオンは死に際、テナーに「なにもかも変わった」とうれしそうにつぶやく。そこへ竜がゲドを運んでくる。竜は『さいはての島へ』の最後で、もてる力を全て使いはたしたゲドを故郷へ連れかえったと同じ竜であり、今、ゲドは故郷に着いたのである。もはや魔法使いではなくなったゲドは、そのことを受けいれがたくいらいらしている。レバンネンが王になる戴冠式にゲドを呼びにくると、ゲドは姿をくらませてしまう。
 そんななかで、女のくせに自分に挑みかかったというので、テナーを憎む魔法使いが、テナーとテルーを追いまわしはじめる。ゲドの助けも得て、二度の攻撃まではなんとかかわすが、三度目の攻撃には、テナーもゲドも絶体絶命となる。だが、竜の子どもであったテルーが竜を呼び二人を助ける。テルーの真の名はテハヌーであった。 さて、オジオンの「なにもかも変わった」とはどんな意味なのか。ずっと空になっていた玉座に王がすわることもひとつだろうが、男と女と竜が信頼で結ばれる世界のことを言ったのではないだろうか。 それまでアースシーでは、男は力であり魔法は男の専有物であり、男は女のいうことなど耳を傾けなかった。しかし、ゲドは魔法の力をなくしているし、大賢人をさがすのに、「ゴントの女」という言葉が言われ、なによりも、テナーを殺そうとした魔法使いは反対に殺される。さらに、その昔、竜と人間はひとつで竜人であったという説と、竜人の子孫のテルーの存在、そして「真の力、真の自由と呼べるものは… 信頼のなかにこそ見出されるのかもしれない」というテナーの言葉など、アースシーの新しい夜明けを暗示するものだと思う。(フェミニズムの現代 を映してもいるのだろう)
 また、本の表紙の緋色も、竜の火、テルーの焼かれた火、テナーの怒りを象徴していて印象的である。ひとつだけ、原題は「テハヌー」なのだが、日本語の表題もこれではいけなかったのだろうか。(森恵子)
図書新聞 1993年5月22日