ぎょろ目のジェラルド


アン・ファイン作

岡本浜江訳 講談社

           
         
         
         
         
         
         
         
         
         
    
今日、欧米では、離婚再婚はありふれた出来事であるという。そんな中で血縁によらない家族が作られていくが、大人たちの意のままに作られていく新しい家族の中で、子どもの側の問題は大きいであろう。とりわけ、子どもの中でも思春期の子どもにとっては。
 日本でも離婚は多くなっているが、再婚はまだ少ないように私には思える。従ってこの本に出てくるキティやヘレンのような子はまだ少なくて、新たな親やその家族とどう新しい関係を作っていくかという、彼女たちのような悩みが、まだ子どもたちに共通の関心とまではいっていないかもしれない。血のつながりにこだわる日本社会では、養子や里親の制度も広がりにくい。血縁を超えた家族作りが特別なことでなくなるまでには、まだまだ年月がかかることだろう。とはいえ、家族に止まらず、ひろく選択縁を自分の周りに作っていくという意欲、方向は、これから大いに必要とされている。
 さて、この本はジェラルドという母親の恋人を、父親として受け入れるまでの、娘キティの物語である。
 これまで読んできた家族の物語には、とかく重苦しい作品が多かったが、アン・ファインの書くこのお話は、明るく楽しい。殊更深刻な状況を扱っていないから、といえそうだが、それよりも描き方の問題だろう。資質もあるだろう。更に、私には、彼女が子どもの本を書く時の動機からも来ているように思われる。大人としてのメッセージを子どもに伝えたい、励ましたい、人生に役立って欲しい、という願いと動機。
 リューベイ先生の言葉として、「人生は長ったらしくみえっぱりな仕事です。物語や本が助けになります。ある時は、人生そのものに役立ち、ある時は、休息に役立ちます。最高によい本は、その両方に役立ちます。」というのがあるが、アン・ファインにとって子どもの本とはそういうものなのである。
 ジェラルドとキティを中心にすすめられるこの話、これまでとかく出番の少なかった父親の堂々の登場といったところだ。作者は一九八七年にあの「ミセス・ダウト」を書き、二年後にこの「ぎょろ目のジェラルド」を書いて、どちらも父親の話である。
 二人の父親、ダニエルとジェラルドは、はずれの世界に生きる俳優と、堅実な実業家というちがいはあるものの、案外共通点もある。「堅実で頼りがいがあり、いつまでも変わらないのがとりえ」というジェラルドの性格はダイエルの中にもあるものだ。だからこそ、子どもとの暮らしを楽しむ、売れない役者なのだ。
 この二人から見えてくる父親像に、作者の父親イメージがあるのだろうか。
 それはさておき、地球環境に関心を持ち、核廃絶運動に参加するほどの母親が「政治的ネアンデルタール人」のジェラルドを恋人にしてしまった。母親と同じ考えをもち行動を共にするキティは、始め彼のすべてにいらだつが、その誠実さや生活信条の確かさを認め、家族として、父親として彼を受け入れていく、というのが、この物語である。
 お話はすでにこの道の専門家と自負しているキティが、かつての自分とおなじ悩みでパニックになっている級友を助けるために、この一年の自分の物語を語って聞かせる、という形ですすめられる。一人称で語られるキティの話なのだから当然ともいえるが、私には表現する少女、みずからを雄弁に語る少女としての印象が強かった。語られていること自体はありふれたことであるのに、少女の表現や語り口を通した時、がぜん生き生きと元気のよい話になる、という印象であった。 ありふれた問題、といってはいけないだろう。当事者にとっては大問題なのだ。キティは悩みつづけ、それをことあるごとに文章に書いて、リューベイ先生に出した。リューベイ先生という、助言者に支えられつつ、表現しつづけた、キティの一年の歩みの集大成がこの物語であったのだ。
 終わり良ければすべて良し、というのが、終わりから一年を眺めた時そのプロセスの闇を描くよりも、終わりの光を励ましとして、友へ、多くのヘレンへ語ろうとするキティの、そして作者の思いが見える。
 さてキティは大人たちの意のままに新しい家族に組み込まれるというのではなく、母親の恋人を無理やり父親にされるのではなく、自らの意志で彼を受け入れるのであるが、そこで彼女が乗り越えたことは、単に父親にとどまらない。
 作者はジェラルドを、世間の代表、大人の代表として登場させたのかもしれない。平均的な世間一般の人々と、市民運動に参加するようなマイナーな人々との間には、とかく大きな溝があり、両者は断絶したままである。無意識のうちにすこしずつジェラルドに好意を持ち始めているキティは、ある日、かれの言い分を聞かされる。それは認めがたい面もありながら、一面の正しさもある。キティは考えが違うからといって拒絶するのではなく、共感できるところを見つけ、それを共有することで、いっしょにやっていけると感じる。人格を受け入れ、感性に共感できることこそ大切だということだ。
 キティはジェラルドを通して世間と付き合っていく学習をしたのである。この作品が高く評価され、テレビで人気が高いというのも、ここに含まれる作者のメッセージによるところが大きい。
 もっとも、人気が高いのは面白いからであろう。「ミセス・ダウト」にある、思う存分のおもしろさには及ばないものの、コメディタッチの描写は、ここにも盛り込まれている。ちなみに、原作の「ダウト」の毒気を抜き、教育的パパに修正して映画の「ダウト」が作られたが、両者の関係はそのまま大人の作品と子どもの作品の違いとおなじであり、即ち、「ジェラルド」と「ダウト」の違いでもあるのだ。
 ジェラルドという男の父親像はおそらく多くの人々から好感を持ってむかえられそうなキャラクターであり、存在感もあり、少々古くさいこんな男もいま見直してみると案外この時代にマッチしそうだと思われる。そんな古くて新しい人物像を評価しながら、「ダウト」と並べてみると、やっぱり児童文学の限界か、と思う。(松村弘子)
児童文学評論 1995/04/01
           
         
         
         
         
         
         
         
         
         
    

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