風の子レラ

AKIRA
青山出版 2001

           
         
         
         
         
         
         
    
 アイヌの民話や伝説を絵本にしたものはたくさんあるが、その生活や文化を克明に描いた小説は、意外なほど少ない。ネイティブアメリカンについて書かれた本などに比べても、アイヌに関する一般書は圧倒的に乏しい。それは、アイヌ文化に対する日本の一般的な無理解を象徴しているようでもある。度重なる無知な政治家の、許し難い単一民族発言なども、そういった現状を無残にも反映している。この作品は、先住民族の文化や歴史に長いあいだ目を瞑ってきた、私たちの日常感覚を激しく揺さぶる。そしてまた、二十一世紀を迎えて一層混迷を深める、私たちの精神生活にも多くの示唆を与えてくれるようだ。
 小学四年生の少女レラ(麗蘭)は、眉毛が太く、自分のことを「ぼく」というので、しょっちゅう男の子に間違われる。学校では問題児扱いされ、当然にも登校拒否気味だ。両親は離婚していて、母親と二人で東京に住んでいる。中央線の電車の中で、母が脳溢血で倒れ、救急治療室に担ぎ込まれて息を引き取る。レラは母の死を現実のものと思えず、治療室の蘇生装置をめちゃめちゃに引きちぎる。沖縄生まれのレラの母は、アイヌ文化研究のために風の谷を訪れて、アイヌの青年カンナと結ばれたのだ。レラが物心つかないうちに別れた父親のカンナが、養母のチュプを伴って通夜に現れ、酔っ払って母方の叔父と大乱闘を引き起こす。純朴で粗暴なカンナと、呪術師さながらのチュプの登場は、現代文明に対するアンチテーゼでもある。
 火葬場での別れも、常軌を逸するものとして描かれる。レラに現実を直視させるために、チュプは母の遺体が焼かれる現場に立ち会わせる。炎の中で母の下腹部が波打って、足が開いていく。「あんたはあの足の間から、生まれたさ。汚いものでも、いやらしいものでもない。あそこがあんたのふるさとだよ」と、チュプはレラに言う。そしてレラは、別れた父親に引き取られて、北海道のアイヌの村で暮らすことになる。
 風の谷での暮らしは、レラの野生を蘇らせる。北海道の大学で文化人類学を学び、風の谷に定住している車椅子のハカスの妻タヌキの出産にも、レラは立ち会う。生命の誕生の瞬間が、克明に描写され、「あんたたちもこうして生まれ、こうして生んで、命を乗り継いでいくんだよ。目ん玉おっぴろげてタヌキの勇気を、母の底力を、よおく見ておけ!」と、チュプはレラにいう。現代には失われた、命の教育である。
 風の谷に、ダム建設の計画が進行している。推進派の町長と、自然破壊はカムイへの冒涜だと反対する村人たちの闘いに、アイヌの屈辱の歴史が重ねられる。レラの父カンナは、娘の教育資金を得ようと反対派を裏切って、村長に心を売るが、反対運動が弾圧される現場で、ダイナマイトを抱いてダムの破壊を企てて自爆する。母を失い、やっと出合った父親が無残に爆死する光景を目前にしたレラは、言葉を失い心を閉じたまま回復不能と東京の病院へ。自分が教えたアイヌの知恵が、カンナを死なせレラから言葉を奪ったと悲嘆したチュプは、急に老け込んで痴呆性老人として特別養護老人ホームに収容される。そこでは「神謡(ユーカラ)を歌えば妄想、昔話(ウエペレケ)を語れば虚言、伝承(ウパシクマ)を守れば痴呆」と記録される。ダムは完成し、物語は悲劇の終末に向って崩落していく。そこに意外なことがおこる。車椅子のハカスたちが、病院からレラを奪回して閉じた意識を回復させ、チュプをホームから逃走させる。「育みあう大地」の力が、心理療法の限界を超えてレラに野生を呼び戻し、チュプの力を蘇らせるのだ。
 著者は、アンディー・ウォホール奨学金で、ニューヨークアカデミーで学び、バスキアやキースヘリングとも交流した現代アーティストである。北海道の二風谷に足しげく通う中から、行き詰まった現代文明の彼方に、アイヌ文化の未来的な可能性を予感して、それを物語というカンバスに荒々しく力強い筆さばきで見事に描き出した。子どもから大人まで、激しく心を揺さ振られる骨太な物語である。(野上暁 『週刊読書人』)