「木戸」の話/山本周五郎

『われらの時代のピーター・パン』(上野瞭 晶文社 1978/12/20)

別冊新評 「山本周五郎の世界」1997/12

           
         
         
         
         
         
         
     
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わたしは児童文学の話をする時、山本周五郎の話から始めることがある。別に山本周五郎に児童文学作品があるわけではない。『平安喜遊集』のような、ややファンタスティックな作品もあるにはあるが、児童文学というには調剤的な人間論でありすぎる。こういうと、『季節の泳い街』の冒頭の物語、「街へゆく電車」の六ちゃんを思い浮かべて、あれはいうならば子どもの話だから、そのあたりの話をするのだろうと、したり顔をする読者もいるかもしれない。しかし、それもハズレである。児童文学者が子どもの話しかしないと考えるのが偏見であって、わたしが周五郎という場合、まったく別のことを考えている。わたしがたびたびお世話に決っている作品は、周五郎のファンならだれしもうなずく、例の『その木戸を通って』なのである。
 いうまでもなくこの作品は、さむらい平松正四郎のところへ、ある日ひとりの女が訪ねてくるところから始まる。あれこれのやり取りはあるが、結局、その見知らぬ女は、正四郎の妻に決る。そして平穏な日々が続くのだが、突然、やってきた時とおなじように木戸を通って姿を消してしまう。
 もちろんこれは大まかな筋である。この作品を一読したものなら、この物語の持っている哀感と神秘的な雰囲気を忘れがたいものとして記億の底にしまっているはずだ。それほどもこの物語はふしぎな魅力を持っている。
「笹の道の、そこに木戸があって……」
という言葉は、一読者としてのわたしをぞくりとさせる。しかし、わたしがこの話を児童文学の話の枕に使うのは、その魅力を紹介するためではない。
 わたしは、海外の空想物語の特徴を際立たせるため、その対極の発想として、実は周五郎のこの作品を挙げているのである。海外の空想物語という時、古くは、例の『ふしぎの国のアリス』のルイス・キャロルや、『水の子』のチャールズ・キングズリーの世界を指している。また、現代のそれとしては、フィリパ・ピアスの『トムは真夜中の庭で』や、C・S・ルィスの「ナルニア国シリーズ」を指している。
 海外の代表的な空想物語は、すべて「通路」のむこうに、この現実世界とは別の世界を用意している。ジェイムズ・バリーのいうネバーランド(決して存在しない国)である。読者は主人公と共に「通路」を潜り抜けて空想世界に到達する。その世界は、人間に内在する可能性をさまざまな形で一亦した独立世界である。読者は現実世界の価値観を、そこにおいてはじめて相対視することを学ぶ。また、その世界を構築する空想力の奔放なひろがりが、人間に、自己の自由であることを気づかせる。そうしたものとして、「通路」のむこうの国はある。
 「通路」は一定していない。ウサギ穴、鏡、池、裏庭の扉、額、学校の裏門、洋服だんす……さまざまである。人はそこを境界線として、現実世界(意味づけられた日常生活)と超現実世界(日常生活の不自由性を知覚させる時・空)を共有する。ところで、周五郎の用意したこの「木戸」だが、それは、読者を「もうひとつの国」に導く「通路」なのだろうか。正四郎の妻に収まったふさは、しきりに木戸のことを咳く。それだけではなく、ある日その木戸のむこうに立ち去る。ふさと呼ばれたその女は、木戸を潜り抜けることによって、どこへいったのだろう……。
 わたしは、そうした話のために、周五郎の登場を願っている。もうすこし、児童文学の話を続けよう。その女は、平松正四郎を訪ねてきた時、すでにじぶんの名前さえ覚えていなかった。なぜ正四郎を訪ねてきたのか、それさえ定かではない。いうならぱ記億喪失である。記憶喪失が何によるのか、この物語では不明である。しかし、俗説的にいえば、ショックが原因だろう。彼女は、精神的にひどい衝撃を休験したのに違いない。そうでなけれぱ、どうしてこんなふうになるだろう。彼女は、じぷんがだれかもわからず、ふらふら平松正四郎のもとへやってきた。
 やがて、喪失したはずの記憶が断片的にだが頭をかすめるようになる。プルーストの『失われた時を求めて』ではないが、過去の記憶を求めて彼女はある日、「木戸」を潜り抜けていく。これは読者の側の勝手な補足説明である。物語の方は、そうした合理的解釈を拒否して、木戸を通って女の去ったところで終わっている。彼女の正体は不明のままに終わる。いずこよりきて、いずこへ立ち去ったのか、それも問われない。主人公平松正四郎がそうした点を問おうとしないことによって、物語自体は、より哀感と神秘的な余韻を漂わせる。周五郎版・竹取物語だという意見もこの不可知性の設定から生まれる。しかし、ふさというこの女が、かぐや姫でないことは確かである。かぐや姫は、求婚者たちに無理難題を吹っかけたが、ふさは正四郎に何も要求しない。冒頭の登場の仕方からして、雨にぬれた宿なし犬のたよりなさがある。過去に、人格崩壊につながるようなそんな手ひどい仕打ちを受けたことを予観させる存在として姿を見せる。うかがい知れぬ深い傷の影を漂わせている。もし「木戸」というものを「通路」とするなら、「通路」のむこうとこちら側はどうなっているのだろう。「通路」を潜 り抜けるということは、この場合、何を意味するのだろう。

2


 児童文学におけるファンタジーの場合、すでに触れたように、「通路」を潜り抜けることは、精神の一種の解放区にはいることだった。そこには、現実世界の規制とは別の、さまざまな危機や冒険が敷設されているとはいえ、それは現実世界の諸規制とは異質の障害だった。
 読者は主人公ともども「ありえない体験」に参加することにより、人間がかくも自由にさまざまなことを考えうるのかと、自己の内部に潜在する可能性を発見する場所だった。いってみれば、「通路」を潜ることは、現実世界の狭い生ぎざまから自由になることだった。
 しかし、周五郎のふさの場合はどうか。「木戸」という「通路」を潜ることによって、自由になるのか。自明の話だが、ふさはそうした解放区にはいるわけではない。すでに木戸を潜り抜けて正四郎の日常世界にはいりこんできた時、彼女は傷ついていたのである。
 木戸のむこうにあった世界は、彼女を記憶喪失に追い込むようなきびしい現実世界だった。木戸のこちら側、平松正四郎の世界もまた、日常的諸規制の作動する現実世界である。「通路」を潜ることは、ひとつの日常から同質のもうひとつの日常に移行することに他ならない。「木戸」は異次元への「通路」ではない。ふさは、じぶんをさいなんだ苦痛の世界にもどるだけである。
 わたしは、周五郎の作品をそういうふうに話した。そう話すことにより、日本的発想というものを、海外のファンタジーに対置した。これはもちろん、児童文学に限っての話である。しかし、考えてみると、周五郎の世界は、その「通路」の彼岸を持たないことによって、もっとも日本的な文学として定着し、多くの読者を感動させてきたともいえるのである。その代表的作品が、たとえば『虚空遍歴』である。
 この長編には、中藤沖也という男が登場する。まさか中原中也をもじったわけでもないだろう。もしパロディの意図が多少でもあるなら、この物語はこれほども深刻にならなかっただろう。元さむらいのこの男は、端唄作曲者である。しかし、端唄の創作では飽き足らず、新しい浄瑠璃の創造を志す。そのための遍歴が始まる。
 生田半二郎、中島酒竹、そして矢島涛石といった「負」の形の水先案内人が登場する。かれらは主人公が脱皮するための介添役である。「負|の形、というのは、これらの人物が人間的欠陥の具現者として用意されているためである。生田半二郎は女性間題で芸界を放逐される。中島栖竹は酒を飲んでは主人公をいびる。軽薄だが主人公の気づかない社会のからくりを教示する。矢島涛石は傍若無人である。自律性の強い主人公に奔放さと野性の魅力を示す。しかし、この放浪の絵師ば自殺する。
 いうまでもなく、この物語の中の人生案内者は、この三人にとどまらない。大阪の座付作者や京都の門付けの婆さん。それに沖也を追いまわすさむらいたちも、主人公の反面教師の役割を担っている。そして、ここでも「木戸」が顔をだす。主人公が、身心ともに疲れ果て、絶望的状況に陥っている終わり近い個所である。
「うちの人を見かげませんでしたか」とおゆいは穏やかにきいた。「ちょっとまえにでかけたようなんですけれど」
 老人は拳で額をこすり、その手を横の木戸のほうへ振りながら、なにか答えようとして煙にむせ、激しく咳きいった。
「あの木戸からですね」とおけいは確かめるように指さした。「表へですか裏ですか」
 老人はまだ咳きこみながら手を振った。知らないという意味なのだろう。おけいは木戸を外へ出ると、表て通りへ走りだした。

 そのあとに起こった出来事は、周五郎の読者なら周知の事柄である。打ちひしがれた主人公が、川岸にうずくまっている。その後姿の中に絶望の深さを読みとったおけいは、いきなり主人公を川の中に突きとばす。同時にじぶんもその体につかまって水中に墜落する。この心中の未遂に終わったことは改めて記すまでもないが、それはこの場合、横に置こう。
 『その木戸を通って』で述べたように、この物語の場合も、木戸は現実の苦悩を遮るものではないのだ。木戸のこちら側にもむこうにも、人間を打ちのめす日常世界がひらけている。この主人公にとって、苦悩からの解放は、死だけなのである。また、この物語の彼岸とは、人間が人間であることを否定される死去消滅の中にしか存在しないのだ。
 人が生きながらに現実を超える発想、それは周五郎のものではない。というよりも『虚空遍歴』の発想ではない。
 わたしはほぼ十年前に、この物語をはじめて読んだのだが、その時、反射的に思い浮かべたものは、トーマス・マンの『トニオ・クレーゲル』である(『トニオ・クレーガー』ではなく、『トニオ・クレーゲル』だから戦前の訳本だろう。わたしは、胸部疾患と飢餓のダブル・ピンチに見舞われた敗戦直後、この一冊の文庫本を聖書のように繰り返し読んだ記憶がある。それはなぜか。カッコをはずしていうとつぎのようになる)。
 この作品にも芸術家が登場する。失恋、堕落、克己の果てに、ようやく作家としての道を歩みはじめた男が登場する。パリの陋屋のような場所だったと思うが、この主人公が女画家に告白的な芸術論を展開する個所がある。

 生きてはいけないのです。ただ見ることです。そして感じることです。

 言葉はこのとおりでないだろう。しかし、およそのところはそうである。創造行為にじぶんを賭ける人間は、世間並みの生活を享受しようとしてはならない。そうした生活を生きようとするかわりに、それらを観察し理解し、その哀歓を感得するにとどまらねばならぬ……。
 これは、感情に翻弄されることのない冷静な人生観察者にして、はじめて傑出した創造行為をなしうるという指摘だったのだろうが、そして、わたしもまた、そのつもりで読んでいたはずなのだが、今考えてみると、どうやらそうではなく、「欲しがりません勝つまでは」式の、まことに悲喜劇的な受けとめ方をしていたような気がしてくる。
 これを呪文のように唱えることにより、わたしは、決して満たされることのないじぶんの欲望を、耐え抜いてきたような気がしてくる。わたしは、他人の幸せを、また手にはいらない闇の食料を、ただ見ることによって、なあに大したものじゃないと、たかをくくるふりをしていたようだ。何かを創りだそうという人間は、がまんの子でなくてはならぬ。
わたしは、何ひとつ傑作を書かないくせに、そして、書く気力もないくせに、じぶんを作中人物に重ねることによって、いっぱしの芸術家と思いこみ、そう思いこむことによって、あの混乱の思春期を何とか泳ぎ切ったように思う。この生きざまは、たとえば『季節のない街』の一挿話「プールのある家」の登場人物に似ていないでもない。

3


 周五郎の『虚空遍歴』は、とりわけ主人公の中藤沖也の在り様は、そのトーマス・マンの作品を思いださせた。これは、沖也の生きざまだけではなく、彼につきそう、おけいという女性のことをひどく気にしていたからかもしれない。おけいは何たる女だろう。彼女はきわめて早熟な少女期を持ち、さむらいの囲われものとなって性体験を深めたのに、主人公と共にひとつ屋根のもとに寝起きし、長い遍歴の同伴者となりながら、一度も主人公と交わることもしない。
 なるほど、今日では巷間にあふれる「小説」の多くは、男女交合を日常茶飯事のように安易に描いている。何も交わるだけが男と女の関わり方ではない。それはわかる。それは理解できるとしても、それでは二人は何であったのか。おけいは、はっきりと主人公の沖也に引かれたことを独白の形でいっている。沖也は、そうした愛の言葉を口にしていない。愛していないのか。それなら旅を共にすることはないだろう。二人の間に沖也の女房お京がいることは否定しないとしても、それはこの場合、遠い江戸の話である。二人して異境をさまよっている以上、すでにお京を裏切ったのとおなじである。
 活動大写真的表現だが、二人は「相寄る魂」の間柄である。それなのに、おけいは緑の幻影に性的快感を巡え、幻覚の中で自慰的に性を解消する。沖也は別の女と寝ることによって、おなじく性的処理をする。
 こういえば、周五郎のファンは、その微妙な人間関係の表現にこそ周五郎の独壇場があるのだと指摘するかもしれない。確かに周五郎の女性はかなしい。性的な意味でも、経済的な意味でも、また精神的な意味でもかなしい。
 このかなしいは、「美しい」と記して「かなしい」と読むあのニュアンスに満ちている。『おさん』がそうだし、『肌匂う』がそうだ。『季節のない街』の「枯れた木」の平さんの妻。「がんもどぎ」のかつ子もそうである。事は貧しさであれ、男の不貞であれ、肉体的衡動であれ、それに耐え続けることによって女たちは「かなしさ」を漂わす。もし、周五郎的女性像をそうしたものと確認すれば、おけいと沖也の関わり方など、何のふしぎもないのかもしれない。日くじらを立てて「寝ない」ことをなじる方が、スケべイということになる。わたしはそうしたことを丁解した上で、なおかつ二人の関係にこだわっている。いったい二人は何のために旅を共に続けたのか。いうまでもなく、主人公の沖也にとっては、新しい曲の創造のためである。そして、おけいもまた、その創造行為のために沖也のそばを離れない。この関係を、創造者と、それの真の理解者の純化した関係と図式的にいうこともできよう。しかし、そうだとLても、これは普通ではない。
 この二人は、芸術というような本来人間の豊かさを約束する行為に参加しながら、人問であることを否定し、きわめて非人間的な境地にいってしまうからである。くどいようだが、この遍歴は、沖也ぶしという新しい浄瑠璃の創造にあった。それは観衆を楽しませるためのものである。
 しかし、二人の到着する境地は、そうした楽しみとは対極のものである。「寝る」「寝ない」にこだわったが、二人はついに交わらないことによって、この旅の終わりまで「あたり前の人間」にもどらないのである。この「此岸」(現実世界)に「遊び」も「楽しみ」も発見しえないのである。
 わたしは今度、『虚空遍歴』を読み返してみて、右のような文句をつけながらも、はじめて手にした時とおなじように感動するじぶんを感じた。周五郎のうまさということを改めて確認した。しかし、感動しながら、この旅を、じぶんもまた続けようとは思わなかった。
 トーマス・マンの『トニオ・クレーゲル』に、すでに醒めた目をむけるわたしがいるように、『虚空遍歴』にも醒めた目がまばたくのを感じた。これは、周五郎版『よだかの星』だなと思った。いうまでもなく『よだかの星』は、宮沢賢治の作品である。こういう比喩を賛辞と受けとる人がいるといけないから蛇足を付け加えると、『よだかの星』で禁欲の発想ということを考えている。禁欲の発想が純化すればするほど、それは人間を狭い世界の中に押しこめることを考えている。
 賢治は、『どんぐりと山猫』や『かしはばやしの夜』のようなナンセンシカルな作品を書き、みずからのストイックな発想に「もうひとつの世界」への穴をあけておいた。読者は、それらの作品を通過すろことにより、現実世界の諸規制を抜けだせることを知った。
 しかし、『虚空遍歴』の世界に穴はない。それはストイックなまま人間に人間否定を迫る。この中の「木戸」はあくまでも人間を追いつめる「通路」である。それでいいのか。「求道」だけが人生か。わたしは、文学という名の「通路」が、孤高の求道者への道にのみ設げられているとは思わない。たとえば、ここに一冊の詩集がある。阪田寛夫『わたしの動物園』(牧羊社)である。その「熊にまたがり」は、文学にもうひとつの「通路」があることをよく示している。

熊にまたがり庇をこけば
りんどうの花散りゆげり
熊にまたがり空見れば
おれはアホかと思わるる

 わたしは、『虚空遍歴』だけが旅ではないといっている。その旅は確かに強く胸を打つ。しかし、よくよく考えてみれば、(いや、考えるほどのことでもないのだが)山田洋次監督の映画、『幸せの黄色いハンカチ』のような旅もあるのだ。『ウディ・ガスリー』もそうだし、『ハリーとトント』もそうだ。別に映画を持ちださなくても、さまざまな旅というなら、子どもの本を持ちだしてもいい。たとえば安野光雅の絵本『旅の絵本』もまた、『虚空遍歴』とは別の旅のあることを告げてくれるのである。