子どもと大人が出会う場所――本のなかの「子ども性」を探る

ピーター・ホリンデイル 著/猪熊葉子 監訳 柏書房

           
         
         
         
         
         
         
    

"子ども性"をキイワードに、子どもの文学の本質に迫る

この本の著者であるピーター・ホリンデイルという児童文学研究者の存在を知ったのは、昨年刊行された猪熊葉子さんの『児童文学最終講義 しあわせな大詰めを求めて』(すえもりブックス)によってであった。ホリンデイルは、"子ども性"(childness)という言葉を手がかりに、"子どもの文学"とは何かを解き明かしていると、そこでは紹介されていた。その時から彼の著作の翻訳を心待ちにしていた。
筆者も二十年近く前から、"児童文学"とか"子どもの文学"という概念規定に疑問を感じ、文学を年齢階梯によってカテゴリー化する考え方に疑念を提出してきていた。"児童文学"は、文学のジャンル概念としては成立し得ないのではないか(『鬼ヶ島通信』第2号所収「幼年童話の解読」 一九八三年一一月)、とか、"児童文学"というのは商品流通上のコードネームに過ぎず、子ども期が崩壊しつつある現状では、その概念自体も解体すべきだ(『日本の教育1989』所収「解体する児童文学」 一九八九年五月)というような主張を繰り返してきた。【それは八〇年代初頭に登場した、柄谷行人の「児童の発見」や、フィリップ・アリエスの『〈子供〉の誕生』の刊行、中村雄二郎の「問題群としての〈子供〉」などに続く、ニール・ポストマン『子どもはもういない』などによる、子ども概念の崩壊や揺らぎに依拠するものでもあった。】と同時に、"子どもの文学"の文学性を、どこかで希求していたからなのかもしれない。それだけに、ホリンデイルの主張の詳細を知りたかったのだ。
ホリンデイルはまず、"子どもの文学"を考える前提として、"子ども"という概念の曖昧さをとらえ、これを明確にするために"子ども時代の構築"という考え方を持ち出す。子どもに向けた表現物は、文学ばかりか絵本や映像作品も、そのほとんどは作り手が大人で受け手が子どもだという一方通行的なズレが最初から存在する。大人である作家や批評家が子ども読者とわたり合うには、それぞれの子ども時代を"構築"する必要がある。子ども自身も、今日的な情報環境の中で子ども時代を構築している。しかし、大人は決して子ども時代の現在性を生きることはできないから、子どもの文学の作者である大人は、常に時代遅れになるとホリンデイルはいう。
そして、大人と子どもの構築しているものが交わるときに生ずる相互関係を、批評家が探求する言葉として"子ども性"が提唱される。【"子どもっぽい"(childish)というと否定的で、"子どもらしい"(childly)といえば肯定的だが、"子どものような"(childlike)とも違った"子ども性"を、"子どもの文学"を読むためのキイワードとして浮上させるのだ。】子どもにとっての"子ども性"は、みなぎる活力、溢れる想像力、色々なことを試そうとする欲求、相互交流性、変わりやすさなどであり、大人にとっての"子ども性"としては、子ども時代の記憶、子ども時代から現在大人である自分への連続性、現在の子どもに対する子ども観などを、ホリンデイルはあげている。
書き手である大人の作家のモチベーションと、読み手である子ども読者のモチベーションを貫き通す概念としての"子ども性"という言葉はまた、"子どもの文学"を読んだり批評したりする大人のモチベーションとも重なるものでもある。"子どもの文学"の文学としての特質を解き明かす手立てとして、"子ども性"という言葉を持ち出したホリンデイルの考え方は、それを用いた作品評価も含めて、なんともエキサイティングである。
【"子ども性"という言葉は、かつて川本三郎が大江健三郎のインタビューの中で象徴的に使ったことがある。未定形でおぞましいもの、汚いもの、暴力的なもの、天使的なもの、そういった周縁的な価値観が子どもの中にはいっぱい詰まっていて、そういう"子ども性"が大人を刺激する。しかし日本の近代は、"子ども性"排除してきたと川本氏は述べる(「森の子供の宇宙感覚」 『文学界』一九八五年新年号所収)。筆者もまた、子ども特有な濃密で豊穣な時間との関わりや、そこから生起する宇宙感覚や豊かな幻想世界を"子ども性"という言葉で摘出し、子どもが描かれた映画や文学作品を分析したことがある。(『鬼ヶ島通信』第5号所収 「豊穣な子どもの時間の中で…」一九八五年五月)】
批評の言葉として"子ども性"を屹立させたホリンデイルは、それをキイワードに子ども時代や子ども存在についての認識のレベルを様々に問いかける。それは、「テキストの子ども性」と「読者の子ども性」の相互作用の場を検証することともなる。つまり、"子ども性"という概念を用いて、具体的な作品の文学性を探るのだ。たとえば、ピアスの「トムは真夜中の庭で」における"子ども性"の動揺を指摘してその芸術性に疑問を投ずるというように。そしてホリンデイルは、"子どもの文学"という独立したカテゴリーは、あるような、ないような、とにかく固定したものではないという。また、ウェストールの『"機関銃要塞"の少年たち』などを評価して、今日の児童文学作家の課題は、現代を反映した"子ども性"を再想像することだといった主張は示唆的だ。子どもの本の研究者や批評家ばかりか、子どもの本の作家や編集者にとっても必読の本である。(図書新聞)(野上 暁)