K&P

岡田貴久子
理論社/1999

           
         
         
         
         
         
         
     
 岡田貴久子の「K&P」はおもしろい。
 おもしろいんだけども、でもこの物語が、たとえば新潮社とか講談社から大人の本として出せるかといったら・・・おそらく無理だろう。
 つまりこの本がおもしろい、というのはつまんない作品が多いにほんのY・Aもののなかではダントツに光るっていうハナシでしかないのだ。
 もちろんこれは大人の本として書いたものじゃない、といわれればそれはそうだけど、じゃあ読者であるはずのティーンたちのほうをしっかりむいているかというと、森絵都ほどしっくりはしない。
 ティーンズ小説はヘタでもつじつまがあわなくてもいいとわたしは思っている。ティーンエージャー自身たちがバランスがめっちゃ、悪いのだから――。ただ、彼らの匂いのしないものは失格である。
 また、ただ単に”Y・A小説”という枠ぐみを利用させてもらいました、というならばもうちょっと幼稚っぽくなく書けよ、と思ってしまう。
 せめて・・・とはいえないかもしれないが、マーガレット・マーヒーの「めざめれば魔女」くらいのリアリティと整合性を――。
 カストルとポルックス、という双子のアンドロイドが惹きあう、という設定は小学生のものである。
 つまりこの物語は、本来ならばポプラ社か講談社の小学生向けのエンターティメントとして書けば充実した作品になったものを、むりやり文章、話の枠その他はY・Aものにしてしまったおかげでチグハグになり、そして読者はいなくなってしまった・・・のだとわたしは思う。
 これは編集者の責任である。
 そうして日本に、なんともいえず中途ハンパな存在である理論社、という出版社がなかったら、出版できなかっただろう一冊であるとわたしは思う。
 昔、山中恒を始め、リアリズム児童文学が通用した、というかそれがおもしろかった時代(「サンバと森の戦士の国」という理論社の本を、私は大好きだった)大人の世界でプロレタリア文学が薄れたように、児童文学の世界でもプロレタリア&リアリズム作品は薄れていっているのだ。
 それを取りもどそうというのはムダなことだ。ということがわかっていて、新しい小説を模索している気持ちもわかる。
 でも、作家にとって、一度使ってしまったネタはもう使えないのである。
 一人一人顔立ちも個性も違うように、ネタも一つ一つ違うのだ。下手な化粧とぶざまな服を着せられてくすむより、似合う服を着て輝くほうがいいにきまっている。
 一つのネタにぴったりあう手法、読者対象、ページ数、その他はそういくつもないものだ。
 岡田さん、あなたはうまい、力がある。
 だからあなたの話に一番似合う服を着せてやって下さい。もしどうしても服が先にくるのなら、ネタの方の身長をのびちぢみさせなくては着られないんです。
 なにも子どもの本にこだわることはないでしょう。
 思いついた、心の中に浮かんできたイメージを一番生かすためにはミステリがいいのかSFがいいのか・・・小学校高学年なのか、高校生なのか・・・もちろんニュージャンルをつくったっていいしね。
 というわけで、次作に期待しています。(赤木かん子)