一九四五年以後の翻訳を素材にして

神宮輝夫

パロル7号 1997/08/29


           
         
         
         
         
         
         
    
 子どもの文学に限らず、翻訳には古代信仰的な性質があるように思う。谷川健一著『古代海人の世界』一九九五 小学館)の二一四頁は、「海の彼方から寄りくる神」という小見出しに続いて「先史・古代から今日にいたるまで日本人に一貫しているのは、海外への期待である。」
とはじまる。それから一頁少しすすむと「海外への強い関心は、海外からもたらされるものへの期待と重なりあう。」と述べられていて、

 大国主神が出雲の美保の岬(島根県八束郡美保関町)に坐しているとき、ガガイモの実を割って作った「天の羅摩船」と呼ぶ小舟に乗り、蛾の皮を剥いだ衣服を着て「帰り来る神」があった、と『古事記』は記している。その神の名は少名毘古神で、大国主神と力を合
わせて国作りをしたあとは、また常世国に渡っていったという。ここに「帰り来る神」という言葉が登場する。寄りくる神の協力なしには、今も昔も日本の国作りを充
分にはたすことができなかった。(二一ハ頁)

 と有名な神話の一エピソードがその意味とともに語られている。そして、引用の「寄りくる神」を「ヨーロッパ児童文学の翻訳」に置き換えれば、日本の翻訳の役割特に子どもの文学の翻訳の役割を指摘したと同じになることに気づくだろう。
 子どもの文学の翻訳は「帰りくる神」からの授かりものであるから、受け入れ側は当然自分たちの生活を益するようにこの神様を利用する。明治・大正・昭和戦前期を通じてしばしば見られたのは、話を丸ごといただいてしまう場合、話しの筋を都合のよいように変える場合、長い話を縮める場合などだった。その結果、若い研究者が千葉省三の『陸奥の嵐』がジュール・ヴェルヌの『皇帝の密使』そっくりなことに気づいてたまげたり、大正期の『ふしぎの国のアリス』では、アリスが結婚していて、ナンセンス文学の意味をまじめに考える人を混乱させたりする現象がおきた。
 完訳が当然のことになっている現在、改めて口にするのも気恥ずかしいほどに、翻訳は完訳が当然になっている。完訳は錦の御旗といってよい。
 しかし、人物の名前を日本名に変え、背景を移した程度で、あとは丸ごといただいたものや、死んで天国へ行ったはずのヒーローないしヒロインを生きのびさせてしまったりする仕事が朝敵であるわけではない。翻訳、ことに明治以来の日本にとって、ヨーロッパの子どもの文学は帰りくる神-子どもの文学作りを手伝ってくれる幸運の運び手だったからである。翻案と言う形で一つの物語をうつしかえることは、それがおこなわれた時代あるいは時期には必要なことだった。他の分野に関してはほとんど知識がないので言及できないが、すくなくとも子どもの文学の翻訳に関するかぎり、「帰りくる神」からの援助はときのネセスティに応じてさまざまな形をとってきたと言えると思う。

  完訳が新時代だった時期二九六○年代)

 上のような(神宮)個人の説をあてはめれば、一九四五年から六○年代末まで、日本の子どもの文学は完訳を必要としていた。おそらく、それは、敗戦後の子どもの文学が形式、内容ともに新しい作品を求めていたことと密接につながっていただろう。形式面では、童話から小説へ、内容的には観念から事実へと言う流れがあった。小説形式も、事実へのアプローチの方法も未開発だったから、それらを獲得する上からも、リァリスティックな小説がすでに生まれはじめていたヨーロッパの新しい作品の紹介は急務だった。その上二○世紀の作品は、子どもにふさわしい語り口、長さ、ストーリーとプロット、テーマ等々、相当程度考慮されていたから、一九世紀の『宝島』を縮めなくてはならないような問題もほとんどなかった。完訳は時代にもっともふさわしい翻訳の形態だったわけである。
 黄金時代 そして、原作も完訳にふさわしい内容のものが実に豊かに選択できた一つの理由は、戦前期・戦中には翻訳不可能だった作品が、いわばストックされていて、それらが自由に翻訳できるようになったことである。それに加えて、平和の訪れとともに、新しい作家たちが多くの新作を発表しはじめていた。
 芸術の世界では、すぐれた才能が集中的に発揮されることがある。子どもの文学にとって、一九四五年からほぼ一○年間がその時期にあたる。思いつくままにならべても、アストリツド・リンドグレン、トーベ・ヤンソン、アルフ・プリョイセン、C・S・ルイス、フィリパ・ピアス、ローズマリ・サトクリフ、等々、枚挙にいとまがないほどである。それとともに、訳し忘れられていたエリナー・ファージョンやアーサー・ランサムなども知られるようになった。子どもの文学の巨人と呼ぶにふさわしい彼らの作品は、どれもみな完訳が最もふさわしいものだった。そして、これらの作品の翻訳が果たした最大の役割は、主として西ヨーロッパとアメリカの作品はおもしろいという強い印象を子どもと大人の両方に植えつけたことだったろう。それほどにこの時期の西ヨーロッパ圏の子どもの文学はすぐれていた。時代がすすむにつれて、作品の傾向も変わり、受け入れ側の文学状況も月まぐるしい変化をとげたため、現在の西ヨーロッパの作品がかつてほどの影響をもたらすことはないように見える。
 子どもの文学の翻訳の意味 その黄金時代を迎えて、訳者も当然変化した。その最たるところは、子どもの文学の翻訳を専門とする人たちの出現だったろう。
 明治の近代化以後、外国の子どもの文学は数多く翻訳されてきたが、この分野の翻訳はけっして正当な価値が認められてきたとは考えられない。個人的な経験で恐縮だが、私も何度か子どもの本の翻訳に対する軽視の風潮に腹を立てたことがある。たとえば、ある出版社が子どもの文学の創作と翻訳に年間賞を創設したことがある。これは、作らなければよかったのにと思うほど、すぐにつぶれてしまったのだが、そのときの賞金が創作五○万円、翻訳三○万円だった。私は平等にすべきだと主張したが大方の賛同は得られなかった。
 一般に、翻訳は創作よりも下位にある仕事とする考えは非常に強い。たぶんそれは、創り出すことと、すでに創り出されているものを他言語にうつしかえることの価値の判断に依るのだろう。これは本来、個々別々に業績を検討すべきであって、どちらが上位と言った全体的比較の問題ではないのだが、従来の位置づけは今も生きている。
 そうした考えが根強かったためだろう、明治以来この分野では、いい加減な仕事が横行したことも事実である。一方、こうした仕事の真の意味を知っていながら世間の評価など意識することなく、すぐれた業績を残してくれた訳者たちもいた。今後、翻訳史研究を通じて、すぐれた翻訳を残してこの分野の発展に寄与してくれた先人たちの足跡を確かめなくてはならないだろう。
 イギリスの子どもの文学研究者マーカス・クラウチは、一九五○年代のイギリスの作品をまじめすぎて天才的なものを生まなかったと総括したが、日本の五○年代、六○年代の翻訳者たちが「子どもの文学専門」になったのも、やはりこのまじめさだったと思われる。子どもと彼らの文学を真剣に考えれば、語学力、当該国の子どもの文学に関する知識、表現力などを高めて最もよいものを手渡そうとする努力につながっていく。翻訳は研究の一部になったわけである。
 主として六○年代「翻訳は研究の一部ないしは一方法」になったことは、この時期に登場した翻訳の新人たち-瀬田貞二、大塚勇三、西郷武彦、渡辺茂男、猪熊葉子等々-の業績を考えれば一目瞭然と思う。子どもの文学を翻訳の主な対象とし、しかもそれが研究の一環である訳者の登場は、翻訳の質を高めたと言えるだろう。その高まった質が黄金時代を招来する大きな力にもなったのだと、私などは考えている。その後、翻訳される本の数が増えるとともに、特に子どもの本を研究していない訳者の仕事も急速に増えた。職業としての翻訳が、子どもの文学の分野にもあって当然なのだろうが、私などは頑固に「研究の一方法」という考えに固執している。

  工ア・バスで帰りくる神たち

 今は知る人もすくなくなってきた海外旅行時の外貨持ち出し制限がなくなり、エア・バスの出現と相俟ってたくさんの日本人が外国旅行に出るようになったのは、七○年代前半だった。こっちからたくさんの人間が出ていくのに比例して子どもの文学もたくさんのものが入ってくるようになった。つまり、帰りくる神々の数がふえたわけである。数が増えただけ、御利益をもたらしてくれればこれほど結構なことはないが、現実はなかなかそうはまいらない。世界的に、子どもの文学の巨人たちはその仕事を終えて退場したが、彼らは子どもの文学の生気までも持っていってしまった感じがした。というよりは、五○年代の神々と六○年代の英雄たちが壮大にして華麗なユートピアを展開してみせてくれた祭りがすんだ後の後片づけの時期が来たのかもしれない。人々の目は子どもと若者の日常に向かい、彼らをめぐる問題が最も簡明に表現される一○代中頃の人たちを主要な登場者とする作品が数多く創作され、まずまずの数が翻訳された。こうした作品は、今まで、大人たちが故意に背を向けていた子どもと若者の実像に迫る新鮮な魅力をもたらすと同時に、子どもの文学が常に醸し出していた夢と希望の もやを吹き払ってしまった。人々は、もやが晴れて眼前に広がる情景を凝視し、子どもの文学とはなにかを、有史以来はじめて深刻に考えたと思う。
 だが、西ヨーロッパと日本の子どもの文学作品、それも一九四五年以後のものをすこし丁寧に読むと、巨人たちの、人間の叡智の上に成り立つすばらしい新世界を思わせる物語世界と平行して、平凡な人たちのごくふつうの暮らしを最も貴重なものとしてすぐれた物語にまとめつづけた作家たちもいた。
 代表的な作家はまずイギリスのリアリズム作家ウィリアム・メインだろう。メィンの作品の多くは、平凡な出来事の中にひそむドラマをことさらに顕在化せず、できるだけありのままに暮らしを書いているため、大衆的な人気がない作家だが、このリアリズムの方法そのものに、彼の意図がはっきり見られると思う。彼は、作為的にドラマをつくらない、つまり目覚しいことを成し遂げるヒロインやヒーローを登場させないのである。よりよい暮らしを求めて智恵と勇気と体力と財力を発揮するタイプの生き方の否定ないしは批判がその底辺にはある。日常生活とふつうの人々の姿を強調することは、やや包括的にすぎるかもしれないが、一九世紀的な生き方、すなわち努力による問題解決と向上の生活に対する否定または疑問の提出である。新しい生き方の提唱であったといえよう。主張が最も明瞭だったのはメィンかもしれないが、現在イギリスで子どもに向けて創作している作家の大部分はおなじ生活観、人生観を抱いていると考えられる。
 七○年代の翻訳は、だから、人間と人生の現実を醒めた目でみつめる作風と、新しい生き方のパターンを伝達してくれた。
 子どもに期待と未来への責任という華麗で堅苦しい衣装を着せて見るのではなく、彼らをいわば生まれたままの姿で描き、智恵と才能と努力と運で出世するのではなく、無理せず自然に暮らす生き方を提示することは、英雄、冒険、自由奔放といった言葉が含むものを放棄するに近い。これらの言葉に内包される支配欲、名誉欲、暴力をふるいたい衝動、破壊願望等々は、六○年代後半以後急速にすすんだリアリズム傾向の作品では、ほとんど満たすことができない。ファンタジー文学は、五○年代イギリスの「ナルニア国」物語シリーズと「指輪物語」シリーズをきっかけと以後しばらくの間隆盛となり、その理由はさまざまだが、単純明解な理由の一つは、英雄、冒険、自由奔放が含まれる文学にあったものの維持だと思う。つまり、子どもの文学が小説化する一方、本来の特質である「物語性」がファンタジーないしはフェアリー・テイルの形式の作品によって維持されていると考えられる。
 物語だから、一定の、あるいはそれにちかい形式が維持されることが多い。テーマも個人のものというよりマジョリティのそれを感じさせる。もっと簡単に言えば、物語の舞台はたいてい古代あるいは中世のヨーロッパのどこか、アメリカだったら、オレゴンとかネブラスカとかいった未開地が残る州、日本だったら、やはり古代か中世の九州とか東北などを連想させる架空の土地である。人物は、まず英雄的な人物。それから、英雄的な素質のある直情的な若者。どこかコミカルな味のある性格の豪勇な人物などが登場して、何かを探求し、そのなにかをめぐって善悪が対立抗争する。こうしたパターンが、本格的で文学性が高いと言われる作品から、そのイミテーション、さらにはゲームの世界でも繰り返される。こんなふうに乱暴にまとめてしまうと、「よくあきもせずに」と思いたくなるのだが、翻訳される新しい作品を読むと、それぞれにその作家でなければ生まれない独創性があって楽しめる。(もちろん、独創性などかけらもない凡作の凡訳も多い。)
 他の芸術分野でも同じだと思うが、子どもの文学の世界でも、patternという語は、あまりよい意味で受け取られない。英米の作家の中にはformの方を使う人もいるが、この言葉は、イミテーション、使い古しという意味よりも、人間の智恵と技術の極限のかたちの意味が強い。それでなくては、現在すすんでいるポピュラーな作品の評価替えなどがおこるはずがない。
 子どもの声は神の声と言う諺がある。子どもの文学にはぴったりあてはまるのだが、この神様は、自分の心のうちを分析整理する能力の開発中であるため、言うおとがときどき舌足らずになってしまう。そこに大人が付け入る隙ができる。だから、子どもたちが楽しんで読む本も、「彼らは本当に心から楽しんでいるのか疑わしい」という意見が出たりして、子どもが喜んで読む本が「真に子どもの欲求に応えていない」ものになってしまったりする。それでも、まだ、子ども達が読みつづけると、それを無視する。無視できなくなったのは、七○年代後半あたりからと思われる。私は、一九八一年夏にロンドン大学で子どもの文学に関する講習会があったときそれに参加し、イギリスですでに作品の評価替えをはじめていることを知った。
 周知のように、かつて低い評価しか受けなかった『オスの魔法使い』は現在アメリカ独自のファンタジーの誕生として高い評価を受けているし、あのカナダの「赤毛のアン」シリーズも評価は上がる一方である。だが、イギリスで聖書よりも売れたと言われるくらい子ども達の生活にくいこんでいるイーニド・ブライトン(Enid Blyton1897-1968)が評価され直されていることには驚くのではあるまいか。この傾向がすすめば、新刊のフィクションの質が変わるだろう。というより、すでに変わり始めていると考えるべきだろう。そして、従来の作品評価に変動が起こるだろう。正当とみなされていたものが、いわば番外とか規格外とされて押しのけられていた作品にとってかわられる現象が起こるかもしれない。そして、それは文学史の書きかえに通ずる。子どもの文学の歴史は、どこの国のものも、どちらかといえば、生真面目に天下国家を論じたり、人類の未来を考えたりする作品を中心に組み立てられているのだが、子どもが読むかどうかという単純な事実から組み替えたら、別なものができるだろう。翻訳はそんな契機をも与えてくれそうに思える。
 言うまでもなく、翻訳は異文化との出会いの一つだから、さまざまに珍しいものをもたらしてくれる。個人的な経験としては、少年時代に『青い鳥』(メーテルリンク)を読んで、不思議な登場人物たちの異世界の旅を楽しんだこと、翻訳する人間としてはランサムの休暇物語の異世界に出会ったこと、研究面では、ファンタジーという概念と作品の導入とその影響をまじかに観察できたことなどが強く記憶に残っている。そして、今経験している
のは、ヨーロッパ圏ではない地域からの作家によって創作される作品の目新しさである。
 イギリスという国が魅力的なのは、全体に保守的であるのに、きわめて大胆なところがあり、その先端的な部分から全体ががらりと変わるときがある、その点である。だから、どこの国の出身であろうと英語で書いてイギリスで出版された作品はイギリス文学として論じている。
 日本もそうなってきているが、徹底の度合いがまだすこし違うように感じられる。 一九九二年の春、私はロンドンで資料集めをしていたが、その頃しきりに話題になっていたのはIsabel Allendeというチリの小説家の作品の翻訳とナイジェリア生まれでロンドンに住んでいるBen Okriの作品だった。Kazuo Ishiguroのこともよく話題になったが、これは私が日本人だったからということもある。 一九九一年のブッカー賞を受賞したBen Okriの2The Famished Road"は、幻想と現実の融合した作品なのだが、その幻想部分がヨーロッパのそれとは全くちがうことに驚かされた。
 子どもの文学の分野でも、例えばヴァジニア・ハミルトンなどは、象徴を多用すると言われたり、ストーリーやプロットの弱点を指摘されたりしながら、やはり作品に強い力があってひきつけられるのは、技術的には未完成だが、天成のものがあるなどという段階の話ではない。彼女が読者へのメッセージとしているものの最もふさわしい方法が、従来の英米の子どもの文学のスタンダードとちがうと考えるべきなのだと思う。彼女の作品を、そんな風にながめてみると、今度は、なかなか外へ出ていかない日本の子どもの文学のことが思い出される。
 一九六○年代、日本の創作が活気づいた頃、これは内外ともにだったと思うが、日本の作品は全体にフラットにしすぎると言われた。そうした見解の背後には、当時盛んに訳出されていた英米をはじめとするヨーロッパの作品のおもしろさがあっただろう。フラットと言われてめりはりのあるプロットの作品を心がけるのもよいだろう。反対に、フラットでなにがわるいと言っこともできる。そこに日本人の、おそらく人生観や人生の設計が反映されているからだ。
 今まで、私は自分の経験と見聞で、主観的に翻訳についてあれこれ申し述べてきた。一応、「帰りくる神」がどんな御利益をさずけてくれるかをお話したとおもうのだが、だから、こうしよう、ああすべきだなどと言うつもりはない。ただ、現在も私は翻訳を自分の研究の一環とする立場に立つから、訳すべき作品とその必要がないものを選別し、これからの子どもの文学についての私見は持ち続ける。そうした個人あるいは集団の、個々の意見や見通しが押しつ押されつしているうちにふさわしいものが残っていく。いずれにしても、海のかなたから帰りくる神なのだから、神主さんも巫女さんも氏子総代も氏子も、賢くふるまって御利益に預からなくては。