じいと山のコボたち

平方浩介・作 二俣英五郎・絵
1979年5月、童心社(品切れ)

           
         
         
         
         
         
         
         
    
 <ばあが死んだというのに、じいにはそれがわからないかった。(中略)おとついの夜、ばあが息をひきとる時にはそうでなかった。じいも泣いた。なんでおらよりさきにいく、なんでおらよりさきにいくとくりかえし、このくそばばが、このくそばばがと、あとは毒づくようにいって、ばあにすがって泣いたのだった。/それなのに、あくる朝には、ばあが死んだことがわからなくなっていたのだ。>

 物語は、連れ合いを亡くした「じい」が、それを契機に「ボケる」ところから始まる。「じい」は、セガレであるデンロクとその妻ハナと一緒に暮らしている。デンロク・ハナは中年夫婦である。ムスコが一人居て、これは通学のため離れた「じい」の次男の家に下宿している。
 「じい」は「ばば」の姿を探し求める。居もしない「ばば」に、昼も夜も話しかけるようになる。デンロクもハナも山仕事がある。そういう「じい」に構っておれない。ところが「じい」は、留守中に竈に火をつけようとして、「あわや」という事態を引き起こす。デンロク夫婦は「離れ」を作り、そこに「じい」を閉じ込めようとする。しかし「じい」は離れを抜け出し、水遊びをする子供たちの仲間になる…。

 有吉佐和子の「恍惚の人」が注目を浴びたのは一九七二年である。それから七年経って、平方浩介のこの秀作が出た。どちらも痴呆症の老人を描いている。前者は、やがて訪れる高齢者社会の一つの問題を「老人性痴呆」に絞って描いた。『じいと山のコボたち』は、その「子供版」だったのか。

「痴呆」という人間の症状に限れば、そう受け取れないでもない。しかし、平方浩介の作品は、明らかに「恍惚の人」とは異質の視点で「老い」に迫ったものである。「老人の痴呆」を外側から観察し、それに一喜一憂する周りの人間を描くだけではなく、そうした症状の人に作者が自分を重ね、一人の人間として「ボケ老人」を内側から描き出そうとした。
 主人公はあくまで「じい」なのである。どれほど奇妙な振る舞いをし、前後の脈絡もない言葉を口にしても、それを「奇妙」とも「変」とも作者は裁断しない。もちろん、デンロクおじやハナおばの反応の形をかりて、世間一般の人の「痴呆性老人」に対する偏見のほどは描いている。だが、デンロク夫妻にしても、そうした偏見の人として固定した立場に押し留められているわけではない。言葉や態度と裏腹に、二人は「じい」を何とか理解しようとするし、自分たちが「じい」に対して「思いやりのないこと」を強制していることをむしろ気にしているのだ。そうした人物としてデンロク夫妻は表現される。
一方「じい」のほうも、周囲のさまざまな反応を「ものともせず」に自分の思いは貫き通そうとする。
 作者は、そういう「じい」と家族を描くことによって、「痴呆」が特別な何かではなく、わたしたちすべての問題であること、またそれが、人間の「自己防衛」のメカニズムの現れであることを教えてくれる。
 「じい」の言動は異常ではなく、当人にとっては正常なのである。妻の死を認めたくない…ということは、「昨日に続く今日」を望むからこそ生まれる想いであって、その思いを貫こうとすれば、否応なく「現実の死」を否定しなければならない。たとえそれを人が「ボケ」と呼んでも。これは悲しい事実である。悲しいけれど、人はそれほどまでに脆い存在なのである。作者は、そうした人間の脆さや悲しさにまっすぐ視線を向けている。それを否定するよりも肯定する姿勢で物語を展開する。全編に漂う人間関係のあたたかさは、作者のそういう人間観の結果である。

「じい」は水遊びの後、小学生のセンタロウと行動を共にするようになる。センタロウは、ハナおばの身内の子供である。きっかけは「アマゴ釣り」なのだが、「じい」はセンタロウを得て一時的にせよ「ボケ」から抜け出す。センタロウは「じい」の釣りの腕前や知識を畏敬している。「じい」は、そうした理解者を持つことによって「現実世界」にしばらくにしても立ち戻るのである。

 この箇所は、シモーヌ・ド・ボーボワールが『老い』で指摘したように、老人とか高齢者と呼ばれる者が、「社会的役割」や「人間関係」を必要とすることを如実に示している。「じい」はセンタロウを得て、自分が「役立たずの痴呆老人」であることから抜け出した。人に何かを示唆する立場、あるいは役割の復権を感じたのである。これは「生きがいの再確認」であろう。しかし「じい」の幸せは長く続かない。センタロウの学校が始まり、「じい」と行動を共にすることができなくなるからだ。

 さびしい「じい」が、やっとセンタロウを誘い出せたとき、事故が起こる。「じい」が落石の下敷きになる。「じい」は失われそうな意識の合間に、さまざまなことを目の前に居ない相手に語りかける。
<…それでも、デンロク。年取るちゅうことは、これはつまり、仏さまがおむかいに来てくださるまでの、身支度ちゅうことじゃからな。そう、なさけながったり、こわがったりするものでもないのじゃぞ。(中略)これが長生きちゅうもんじゃ。これは、すなおによろこばんならんことじゃ…。はははは、なかなか、おらにもむつかしいこっちゃがの…>

「痴呆性老人」の内面には、たぶん誰にも聞こえない言葉が行き来しているに違いない。それを聞き取ったのが平方浩介である。
 成人文学には「老い」を描いた力作がいくつかある。平方浩介の作品は、それらに比肩する一編である。これは「明日の問題」への大きい示唆でもある。
上野瞭
児童文学の魅力 日本編(ぶんけい 1998)
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