三匹の高貴な猿

デ・ラ・メア:作
脇明子:訳 国書刊行会
世界幻想文学体系第一〇巻に収録 1919/1975

           
         
         
         
         
         
         
         
    

 文学作品を翻訳を通して読むと、翻訳によって原作の味が著しく消えている作品と、ほとんど変わらない作品があるのに気付く。『三匹と高貴な猿』は、さしずめ、翻訳することが至難なものの一冊である。英文が詩的言語であること、著者の創った猿語、詩の数々、ひびきのためには、例えばクロッコダイル(ワニ)をコッカドリローと既成の単語まで変えていることなど、翻訳がおそらく創造の仕事になり、やりすぎると原文を離れざるをえなくなることにもなってむつかしいのである。このことがあって、『三匹の高貴な猿』の読者は、ことばに対する感度のいい少数の人に限られてくると思われる。
 話は、アフリカと思われる森を背景にして始まる。ムンザ・ムルガーの森のはずれに、ムッタ・マトゥッタと、三匹の息子サム、シンブル、ノッドが住んでいる。父シーレムは、王族の血をひくムルガー(サル)で、ティッシュナーの谷の君主アッサシモンの実の弟であったが、放浪の旅に出て行き倒れたまま、一三年そこで暮らす。シーレムは、老いてきて、どうしても故郷にひかれ、ひとりで旅立っていく。やがてムッタ・マトゥッタは、「いつもおたがいに真実で、忠実であるように、そして勇気をもつように」とさとした上で、「ムッラ・ムルガーは決してフランボ風に歩いたりしない−−四つ足では歩かないってことだよ−−それに決して血のあるものを食べないし、危険で望みのないときのほかには、決して樹に登ったり尻尾を生やしたりしないものなんだよ」と忠告し、ノッドにティッシュナーが助けてくれるという魔法の石を渡して死んでいく。三匹は、家を焼いてしまったこともあって、ウィッツァウィールウーラ(白い冬)の雪の中を旅立っていく。遍歴は困難をきわめる。ノッドは土ムルガーにとらえられた兄たちを魔法の石の力によって救い出す。三匹は、シマウマに飛び乗って逃げ るが、ノッドがふり落とされ、年老いたウサギのミッシャに救われる。そこを出て兄を探しに行く途中で人間(もちろんサルの一種といえる)のワナにかかってしまう。その人間、アンディ・バトルはイギリス人の船乗りで、「これからはひとつ釜の飯を食うとしようぜ。……俺はおめえといっしょにいるのが恐ろしく気に入ったし、もしおめえの方でも俺といっしょがいいようなら、それこそ順調な航海ってもんだぜ」と網をほどき、共同生活が始まる。バトルはノッドに言葉を教え、ノッドがインマナーラ(影の魔物)がねらっていると知らせてくれるが、魔法・ずる賢さ・勇気の三つで切り抜け、サム、シンブルと再会する。そのことはバトルとの別れを意味した。ノッドの説明を少ししか理解できないバトルは、「ノッドが哀れにも寒さで少し気が変になったのだと思った。そしてまるで自分が故郷の暖炉のそばにいてノッドはその飼い猫でもあるかのように、かれを−−このティッシュナーの王子を−−なで、頭をかいてやった。だが少なくともかれにも、この小さいムルガーが自分から離れて行きたがっていることはわかったので、悲しみをあらわすほかにそれを妨げるようなことはしなかった。」三 匹は、やがて高い山にさしかかり、出会ったモー・ムルガーに道をきくと、「すべての道は死に終わる」と答がくる。山ムルガーの案内で道ははかどる。シンブルが病気になったり、鷲におそわれたりしながら、影の国に辿りつく。ノッドは、川で美しい水の精に出会い、魔法の石を渡してしまい途方にくれるが、翌日取り戻し、私を「忘れずにいてほしい」という願いを聞いてまた出発する。最後の旅は、川の洞穴を筏でいくことになる。そこを抜けると、「あたり一面に花が咲いており、しかも今度は消えてしまう魔法の花などではなかった。……ウンムズとイソマムーサで金色に飾られ、夢見るような水で銀色に輝きながら、長いあいだ捜し求めた美しいティッシュナーの谷がどこまでも続いていた。」そこで物語りは終わる。「突然疲れと寂しさとに襲われて、顔をそむけた。そして果てのない旅の途中で休んでいるときウームガーの旅人たちでさえそんな気持ちになることがあるように、美しい山々を見て、悲しくなり、少しばかり恐ろしくなった」というノッドの気持ちを書き加えた上で。個々の動物や事件が、シンボルとして解釈され、人間の求道のプロセスとよめる。
 ウォルダー・デ・ラ・メア(一八七三−一九五六)は、まず詩人であり、そして、短篇物語のストーリー・テラーであった。詩集の編輯にも優れた腕をふるった。デ・ラ・メアの作品中、もっとも長編である『三匹と高貴な猿』は、プロットの構成が一本道を通っていくように単純なために、部分部分の表現のうまさや、登場動物の不思議さ、白い世界の透明感などに心ひかれるものの、物語性の魅力に欠けているように思われる。また、底に流れる多層的な思想というものも読みとれない。あるのは、未知のものを目指して、ただ、進みゆくことへの止むにやまれぬ営みである。文学史的にはトールキンの『ホビットの冒険』などハイ・ファンタジーを生み出す一歩手前の作品ともみられるが、神秘的な雰囲気をもち、健気で一途なノッドの崇高な血筋をひく王家の猿という設定が、人間であるバトルの出現で、矮小化されているのが、作品を著しく傷つけているのは残念である。(こだわれば、身分のあるサルは、シッポがなく、着物をき、立って歩くというところなども。)ファンタジーを裏付けるリアリズムの手法の入れ方の失敗例だろう。
 読後、残るのは、ノッドの持っている魔法の石とは何であったろう、行きついたティッシュナーの谷とは何であろうという点である。父シーレムにとっては積極的な死にむかう旅立ちであったろう。三匹(兄たちは作品ではほとんど意味がなく結局は、ノッド)にとっては父にあうという希望のある旅であったにしても、奇妙に淋しさ、悲しさが漂う結末がある。ノッドをノッドとして成立させている詩的想像力のシンボルとしてある魔法の石も魔力を失っている。ノッドが旅を通して得たもの、デ・ラ・メアが描きたかったものは、うまく伝わってこない。ノッドの襲われた淋しさは、物語を書いている詩人の淋しさとも重なるが、人間よりも低いランクづけのされている猿ということが、イメージの統合を妨げてしまう。ノッドは父シーレムと同じように、淋しさをかかえながら、それを深く見つめ、次なる旅に出ていくのだろうか。(三宅興子
世界児童文学100選(偕成社)
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