算法少女

遠藤寛子 箕田源二郎 絵
岩崎書店 1973

           
         
         
         
         
         
         
         
     


 算法、つまり数学を学ぶ少女の物語などといえばあまり面白くなかろうと、私たちはつい考えてしまうが、この作品はじつに面白い。その面白さを生んでいる一つはおそらくストーリーとプロットの巧みさにある。
 物語のはじめ、主人公のおあきは、友だちといっしょに浅草寺で算法額の奉納の場面にぶつかる。そして、その額の解答があやまりであることに気づく。この出だしで、読者は先の波瀾を予感すると同時におあきが天才的な数学者であることに気づく。そして、予感どおりの波瀾がおこる。浅草寺でのできごとを耳にした数学ずきの殿様である筑後の有馬候が娘の指南としておあきを迎えようと思いつく。もちろん、話はすんなりきまらない。おあきにあやまりを指摘された男の師匠である関流算法家が有馬候に意見具申をして、おあきを召しかかえることをやめさせようとする。その結果、おあきと関流算法家である武家娘との数学的な対決となり、結果は引き分けとなる。そのおあきの実力を世間に知らせるとともに、人びとに数学をひろめるため、周囲の人びとの尽力でおあきは『算法少女』という本を出版する。
 おあきはどうなるのだろうと読者の興味をぐいぐいとひっぱっていく筋とその組み立てがひじょうに手固くできている。だが、上手だというだけで終らせない魅力は、主役と脇役の人物像の適確な造型にあると思う。おあきは、たしかにすぐれた才能の持主として登場する。だが、手まりが好きで近所の子どもたちといっしょに遊び、「でも、たとえ、手まりと算法でどうぞって、むこうからたのまれても、わたしはお屋敷なんてごめんこうむるわよ。あんなきゅうくつなところ。」などというごく平凡な町娘でもある。そして、有馬候の娘の指南問題に流派の対立がからむと、流派にとらわれない数学者の前で「そうですわ。関流がいくらいばっても、かなわないかただと思いますわ。」と口走ってたしなめられる。数学に才能はあるが他の面では年齢にふさわしいふつうの女の子というえがき方が、この物語に深いリアリティを与えている。
 脇役の配置もじつにみごとな計算の上になりたっている。おあきの父親は、今でいう内科小児科の漢方医で数学者なのだが、号を壺中隠者などとつけていることでもわかるように、数学そのものを楽しみそれで名声や富を得ようなどとはすこしも考えていない。そして、この父親と竹馬の友でありよき援助者でもある俳人素外は、大家への出入りなどもして羽ぶりはよいが、金銭にはこだわらず人の世話をよくする酒脱な人物として登場してくる。
 関流の数学家でありながら、おあきの流派意識をたしなめる本多利明は、数学が流派などこだわっているかぎり外国からおくれるばかりでなく有用なものにならないことを心配する開明的人物としてえがかれている。
 こうした脇役がしっかりと把握されているので、学問をする態度にもさまざまあること、人の生き方にも多様性があること、おあきが志している数学の道の現状などがはっきりとわかり、主人公の位置がくっきりと定まってくる。
 数学をする少女が中心であるから、数学の問題もちょっと顔を出す。たとえば
「円のうちに、大円二個、小円二個が接した形があるが、それらの大円小円は、またおたがいに接している。いま、いちばん外側の円の直径を七寸、内に接している大きい方の円の直径を三寸としたら、小円の直径はいかほどか。」
 といったふうにである。まえがきを読んでも、著者はかなりよく調べてから書いていることがわかるが、その飼料をストーリーの展開の中で、必要最小限に使っている。それが逆に、算法家たちの世界に現実味を与えている。彼らの言葉の端はしが、おたがいによく知っている知識をもとに話しあっているのだなという感じをいだかせてくれるのである。
 しかし、読者を最後までぐいぐいとひっぱっていき、さらに再読、三読させる力は、なんといってもおあきにあるだろう。というより、おあきを通じてえがかれる<育ちゆく心>というべきかもしれない。おあきは、松葉屋という旅人宿で、基礎的な学問も与えられずにごろごろしている子どもたちのために、今でいえばボランティア活動である私塾をひらく。その子どもたちが数理にめざめていくさまがちらりとえがかれているが、学問がひらいてくれる驚異の世界を目のあたりにした子どもたちの喜びがじつに素直に表現されている。そして、それはまた、数学の世界にひたむきに進むおあき自身の喜びでもある。精神的なものでも、物質的なものでも、何かを得て豊かになっていくプロセスは、本来ひじょうに健康な欲求であり、そのプロセスはかならず児童文学の読者をひきつける。そして、得られるものが精神的なものである場合はいっそうその喜びは大きい。この作品は、その意味で、児童文学の本質に忠実な作品ということができよう。作者にその意図があったかどうかは不明だが、学問が本来もっている魅力が生き生きとえがかれたことによって、この作品は現在の教育への無言の批判にもな っている。
 作者遠藤寛子は、長い教師生活の中で、『深い雪の中で』(一九六八)『かわいそうなあなた』(一九七二)などを発表し、『算法少女』(一九七三)でサンケイ児童出版文化賞を受賞した。その後、桃山から徳川にうつる時期を舞台に、追われるキリスト教徒と数学という特異な素材で『キリシタン算用記』(一九七六)を発表したがこれは、モチーフが宗教問題にかたむいている。
 遠藤の方法は登場人物の動きを心理と行動の両面から手固く必然性をもって追って、徐々につみあげていくという本格的なものであり、主題も派手に人目をひくものではないので、一見地味な感じがする。しかし、綿密な準備とこまかく計算されたストーリーとプロットなど、長年きたえた力量が充分に発揮されていてどれもみなしっかりとまとまっている。目立たないながら、心で暖めつづけた主題をオーソドックスな手法で展開する作家たちの作品は、たえずだれかが注意をよびおこす必要があるものなのだが、遠藤の作品もそうした性質をもっているように思う。(神宮輝夫
日本児童文学100選(偕成社)

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