「少数派」としての子どもたち
-同時代的芝田勝茂論-(1)

奥山 恵
(UNIT評論98・論集)

           
         
         
         
         
         
         
     
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 もしも、子どもの本の書き手の中で、「同時代に生きていることを感じる作家は?」と問われたなら、私はまず「芝田勝茂」と答えるだろう。感覚的に共鳴する作家や、普遍性を感じる作家、巧みさを感じる作家など気になる書き手はたくさんいる。しかし、芝田勝茂の作品には、同じ時代に生きている模索の過程が見える。それが感覚的な好き嫌いや、作品の完成度をこえて、私をひきつける。 
 私がそんなことを感じるようになった直接のきっかけは、一九九六年、芝田勝茂が、過去に発表したふたつの作品を「加筆訂正」して世に問うたことにある。一作は、一九八五年福音館書店より出版された『夜の子どもたち』。もう一作は、一九九〇年やはり福音館書店より出版された『ふるさとは、夏』。いずれも手が加えられて、パロル舎から改めて読者のもとに届けられることになった。
 だが、並んで出された「加筆訂正」版であるにもかかわらず、両者の「加筆訂正」の程度には、大きなひらきがある。より古い作品により大きな改変が見られるのは当然のことかもしれないが、それにしても『夜の子どもたち』の書き変えは一読して全体的であり、また多様である。「加筆訂正」における作者の思考の変化を捉えるのは、容易なことではない。対して、『ふるさとは、夏』は、よく読み較べないと見過ごしかねないような部分的な「加筆訂正」にとどまっている。その分、書き変えの意図は明快であり、芝田作品を捉える決定的な糸口にもなりうる。
 ただ、そんな程度の差異も含めて、この二つの「加筆訂正」版は、「私はここまで考えてきた、普遍性をもつかどうかはわからないが、考えてきた一番新しいところを、今の子ども読者に届けたい」という勢いを私に感じさせた。その一番新しいところとは何なのか、その現代性にとりあえず参加してみたい--それが本稿の目的である。具体的に言えば、『ふるさとは、夏』「加筆訂正」の明快な糸口をたよりに芝田勝茂の他の作品群にせまり、その迂回ののちに、『夜の子どもたち』「加筆訂正」における思考の広がりを捉えたい--これが、本稿の目論みである。うまく成功するかどうかはわからないが、はじめてみよう。

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