大草原の小さな家

ローラ・インガルス・ワイルダー

恩地美保子訳 福音館 1935/1972

           
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
     
開拓者家族の日々を描いたこのシリーズの中で、最も良く知られているタイトルはこれですね。NBCが二〇六本製作し、日本でも七四年から、延々と放映され続けているテレビドラマのタイトルもそう。馬車に家財道具一切を積んだ家族が、見知らぬ土地へやって来て、全くのゼロから始める生活は物語のスタートに相応しい。彼らは家族愛によって団結し、自然の脅威や逆境に立ち向かっていく。
実はこれ、ローラの物語としては三五年刊行の二作目です。一作目は「大きな森の小さな家」。二九年の大恐慌の傷がまだ癒えぬ三二年(この年、アメリカでは二万人以上の自殺者が出ました)刊行。厳しい冬から刈り入れの季節までの一年間、すでに定住している開拓民が、どんな風な生活サイクルを営んでいたかを克明に描いたものです。とすると、あれ? その続きの物語で登場するこの家族は何故、またもやゼロからスタートするはめになったのでしょうか?
答えは二作目の冒頭にさりげなく描かれています。定住地に人が多くなり過ぎた。野生動物も少なくなった。そんな場所はとうさんは嫌いなのだと。それで家を売り払う。
これはとても奇妙なことだと思いませんか? 安全な土地から妻子を引き離すリスクに比べて、父親の動機はいかにも薄弱です。それに反対をしないかあさんも奇妙。
このシリーズは、ワイルダーの自伝的なものだということなっていますから、それはそうだったから仕方がないと思えるかもしれません。けれど、「若草物語」にも当てはまりますが、自伝を匂わせている物語が、事実や真実を描いていると信じることは危険です。古い友人と思い出話をした経験がおありなら想像できるでしょうが、誰しも過去の出来事はこうであったと今の欲望に合わせて微調整するものです。ましてやそれをフィクションとして提示するときには。
ですから、事実であったのだからと受け入れ、彼らがその結果立ち向かうこととなってしまった生活、そこで立ちあがる家族愛に拍手を送る前に、純粋なフィクションとして、その奇妙さを考えてみましょう。
この物語が、貧しいながらもなんとか日々の生活を営むことができていた家族を、あえて苛酷な状況にほおり込む必要があったのは何故かと。
発想を逆転してみましょう。「彼らは家族愛によって団結し、自然の脅威や逆境に立ち向かっていく」のではなく、「自然の脅威や逆境があるために、彼らは家族愛で団結することとなるのだ」と。
この行動を起こした父親に注目します。彼は本当にりっぱです。仕事を終えて疲れて帰ってきても、家族サービスを忘れない。子どもに物語を聞かせ、フィドルを弾き、踊ってまでみせます。いい父親だし、いい夫です。けれど彼が決して譲らないことがひとつだけある。それは主導権。
例えば、父親が生活必需品を買いに町に出掛けているとき、夜にローラが熊と遭遇します。彼女は牛と間違えていたのですが、気付いた母親が文字どおり体を張ってローラを助けます。帰宅した父親に、ローラはその話をするのですが、いつのまにか、父親が切り株をクマと見間違えてしまったという話題にすり替えられてしまいます。まるで、本物のクマの前で体を張った母親のエピソードより、そちらの方が重要であるかのように。
それは一見とてもなごやかな家族の風景のように読めるのですが、父親が常に主導権を握っているということが、この物語の前提となっているわけですね。そして、彼が主導権を握るために最も適した環境が、大草原に小さな家がポツンとあること。現代的な言い方をすれば、父親以外の家族には外部情報が入りにくい環境。
もちろん、作者がそのような意図の元に、この物語を書いたとは思えません。本当にあったであろうこと(母親が父親と反対意見を持っていたとか)を、彼女が身につけた文化と時代背景が無意識のうちに隠させたのでしょう。
実は「大草原〜」とは別に、ローラの娘ローズが書いた物語(「大草原物語」・世界文化社刊)があります。ローズにとっては、おじいちゃん夫婦をモデルにしたものですね。これと読み比べてみるとおもしろいですよ。書き手によって、どれほど違った家族像になるかがね。(ひこ・田中

 「子どもの本だより」(徳間書店)1995年7,8,9,10月号