ディア・ノーバディ

バーリ・ドハティ作
中川千尋訳 新潮社 1994

           
         
         
         
         
         
         
     
 初めての経験で妊娠してしまった高校生のヘレン。「ノーバディ」と名付けたお腹の子に、手紙を書き綴る彼女。一方、若き父親クリスは、そんなヘレンの変化にまじめに対応しようとするのだが……。二人の思いは、だんだんずれていく。人が誕生するまでには、その命の数ぶんの物語がある。父親、母親となる人は勿論のこと、周りの人々の、いろいろな思いが、お腹の中の命を育てるのではないだろうか。
 18歳のヘレンは、初めての経験で身ごもってしまう。予定せぬ出来事に、ヘレン、そして若くして父親になってしまったクリスの戸惑いは大きかった。受験期という人生の岐路に立っていた二人は、お互いに深く心を寄せ合いながらも、その思いはくい違っていく。
 まだ見ぬわが子に「ノーバディ」と呼びかけ、手紙を綴るヘレン。自分の子どもができるということを実感できぬまま、子どもの誕生をむかえてしまうクリス。へレンの手紙とクリスの回想が重なり合いながら、物語は進んでいく。同じ場面やその時の状況が、それぞれの立場から描かれているので、立体的かつ、膨らみのある作品に仕上がっている。
 この作品のもう一つの魅力は、登場する大人の描き方だ。二人の今後の生き方に重要な鍵となる。
 子どもが宿ってから生まれるまでの10ヶ月間、ヘレンとクリスは周りの身近な人々の、いろいろな思いを知る。
 はじめは、いなければいいのにと思っていた、ノーバディの存在が、徐々に、生まれてくることを楽しみに、顔を見合わせることを期待するように変わっていく。日々育っていく生命へのいとおしさに目覚めていく。受験期の女子高生から、お母さんの顔に変化していく。ヘレンの成長は10ヶ月をかけて、著しく変わる。
 この大きな変化に少なからず影響を及ぼしたのは、クリスの叔母ジルであろう。彼女は自分の貴重な体験を二人に聞かせてくれる。今まで誰にも話していない秘密。それは、子どもを堕ろしたことであった。そして、今生きていれば、15歳になるという。生まれてこなかった子どもの年を数えるジル。いろいろな事情があったとはいえ、彼女にとっては心穏やかではない出来事だったのだろう。同じ女性として、心が痛む。
 お腹の子の存在に目覚めていくヘレンとは対照的に、クリスの気持ちは、ヘレンにのみ向いていて、お腹の子には及ばない。子どもが生まれる直前に、ヘレンから手渡されたノーバディへ宛てた手紙の山。それすらノーバディは僕なんだ、彼女にとっての僕は、もうノーバディ(だれでもない者)となってしまったのだと、勘違いする。彼にとっては、生まれてくる子どもより、ヘレンのことしか目に入らない様子がよく分かる。
 この違いは、どこからくるのだろう。女性には実際に体の変化が起こり始めるのに対して、男性は生まれた子どもを目の前にしなければ、実感がわかないのかもしれない。
 もう一人、ヘレンに大きな影響を及ぼした大人に、クリスの母親ジョーンをあげたい。一生の中で夫や子どもの存在は大きが、その人々に翻弄されて、自分の意志を曲げたくないと考えている、非常に自立した女性に思える。
 ヘレンが、クリスを自分のもとに縛りたくない、自分も彼に縛られたくない、そして、生まれくる子どもにも翻弄されたくないと思い始めるきっかけは、ジョーンの生き方に大きく影響を受けているように思える。子どもがある程度大きくなて、手がかからなくなったら、希望である王立音学院を受験しようと決心する。
 自分の人生を、自分で選び取る。それは、生半可な意志ではできない。ともすれば、人生の暗、負の部分を、人のせいや、運の悪さにして、自分をいたわりたい。自分で選び取るということは、責任が自分にかかってくるし、逃げ道はない。そういう困難を、あえて選び取った彼女の決意に、大喝采をおくりたい。
 彼女は妊娠したことにより人生を、回り道したように見えるけれど、実はそうではなかったのだと思う。妊娠することにより、身近な大人が自分達の人生をかいま見せてくれた。それは彼女のこれからの生き方に、豊かさをもたらしたように思う。
 ヘレンとその両親、祖父母の関係においてもいえる。両親アリスは、生まれてくる子へ、異常なまでの嫌悪感をいだいている。それは彼女の出生の秘密にあるらしい。ヘレンにとって、心の安らぎであった祖父母と彼らの秘密。ヘレンの妊娠により、それらの秘密が明かされることになる。知ることにより、一層母親や祖母に優しいまなざしをかけることができるようになるほど、ヘレンは成長する。生まれた孫のエィミ−が、くしくも祖母と母
の深い溝をうめるきっかけを作ってくれたこともうれしい。
 いろいろな背景を持った大人が、その痛みを包み隠さず若者の目の前にさらけだして語りかける。人間は強い部分も弱い部分も、陽も陰も持ちあわせている。あるがままの自分を態度で示し言葉で語る、作品の中の大人達。等身大の人間を描いているので、説得力があり好感がもてる。
 アドバイスというのは、直接的な言葉ではなく、その人の暮らしの中での考え方や行動の中に、受け取る側が読み取るものなのではないだろうか。この作品の中の大人は、決してヘレンとクリスにこうしなさい、ああしたほうがいいよという言葉は発していない。にもかかわらず、二人にとって、よきアドバイザーとなり物事を考えるきっかけをくれた。
 若者が、何を考え、何を求め、どんなアドバイスを欲しているのか、身近で感じとっている作者の感性が素晴らしい。作者がイギリスでソーシャルワーカーとして、現実の子ども達と深くかかわっているからなのか。児童文学の作品作りに、新たな局面を感じる。
 また、家族とは何か、問いかけているようにも思う。ヘレンとその家族のように、共に生活をするのも家族だし、クリスとその母親のように、一緒にいなくても、血のつながりも家族。ヘレンと祖父の関係も心の家族であろう。
 家族の中でも、特に母親の存在を強く意識させられた。エイミ−(子)・ヘレン(本人)・アリス(母)・ドリ−(祖母)、縦に流れる関係。クリスと母親ジョーン、ジルと生まれてこなかった子。命は受け継がれていく。特に女性にとって子どもを生むことは、人生の中で、身を呈しての一大イベントとなる。若者に、妊娠ということを軽々しく考えてほしくない。その命を育むために、どれほどの人々の思いが詰まっているのか、命を生み出す時その重みをしっかり考えてほしい。
 果敢な青春の一時期、若者に愛し合うなということは、難しいかもしれない。が、妊娠するかもしれないという事を考えにいれておいてほしい。妊娠すれば、好むと好まざるとにかかわらず、考えなくてはならない状況に追い込まれるんだよ。いやがうえにも、周りの人々を巻き込んでしまうんだよ。それを覚悟のうえで、セックスを考えなさい。特に、生まれてくる子のこと、意志をもった人間を生むということの重大さを、しっかり受け止めてほしい。こんな作者のメッセージを読み取ることはできないだろうか。
 作品の中で気にかかったことは、周りの友達、近隣の人々の反応。ちらほらとは書かれていたが、他人の中傷などのつらいことはなかったのだろうか。これらが書かれなかったのは惜しい気がするが、日本とイギリスのお国柄の違いもあるのだろうか。
 この本は、イギリスの児童文学作品に与えられる最高の栄誉であるカーネギー賞を受けたが、日本の書店では、子どものコーナーには置いてない。大人を意識した装幀で出版され、一般書として店頭に並んでいる。子どもの本と、大人の本の境界がなくなってきていることの証拠なのかも知れないが、子どもの本のコーナーがある以上、そこにも置いて、たくさんの思春期を迎えた人達に読んでほしい。
 ともすれば、十代の妊娠という、センセーショナルな出来事を描くとき暗くなりがちだが、この作品を読み終えたとき、悲壮感がなく、むしろ一筋の光さえ感じた。作者の生命に対する暖かい目、命の尊厳を読み取ることができたからだろう。誕生した子の名がエイミ−(愛された者・友だち)というのもうれしい。生命へのいとおしさを感じるとともに、この作品のテーマを象徴しているように思えた。(児玉 悦子)
タンポポ17号 2000
テキストファイル化戸川明代