どれい船にのって

ポーラ・フォックス
ホゥゴー政子 訳 福武書店

           
         
         
         
         
         
         
     
 暗くて、地味で、重い物語がこどもの本の中には、けっこうある。それがいいことか、意味のあることか一概にいえないが、そうだろうな、あたりまえだなという気がしている。こうした本はこちらの体調の良い時には、うなずいたり、ぐっとせまってきたり、両者の関係はうまくいくのだが、不調の時は大変つらい。(なにもそんなときに読まなくても、といわれるだろうが、不調の波を増幅させて喜びたいときもある)辛いときだから、明るいものをとのぞむわけではなく、大切なのは一種の〈鋭さ〉だ。歴史的な事件をあっかって人間の恥部を再現するドラマは、なんどもくりかえされる。当然、暗くて地味で重い物語が、あろうことか、これを一番受け人れて見つめてほしい年代のブーイングをうけることになる。「こどもに伝えるメッセージ」だからといえば、教訓から逃れたつもりかもしれないが、そうはいかない。ある意味で、ころもをつけたメッセージこそもっとも強力な教えにつながることを私たちはよく知っている。伝えるのも大変だが、伝えられるのももっと大変なのかもしれない。しかも暗くて、地味で重いことをただ〈そのまま〉で伝えるなら、誰にだってできる。それをいかに おもしろく物語るか。要はそこなのだが、どんなメティアをつかおうと、この点こそ的を射た答えをだすことは本当にむずかしそうだ。
 そこで「子どもの本の一冊」をあげて「暗くて、地味で重いテーマの作品」について考えようとすると、それだけで気分が重い。が、だからといってこの一冊についてだれも何もいわないのはよくない、と思う本があるものだ。(もちろん誰かが、どこかでこの本について、必ず何かを語っていらっしゃるはずだが)不勉強で読んでいないだけだから、何十番めかのつぶやきになる。その一冊とは「どれい船にのって」である。これを書いたポーラ・フォックスは、その代表作「バビロンまではなんマイル」にふれてあのナッ卜・へン卜フが「まったくお説教のないこと」と「主人公の子どもが社会学の研究結果生まれたのでないこと」をあげ、激賞した作家である。彼女は十二歳になるまでに、実に九っ以上の学校に通い、同じ場所に数年すむことも滅多にない「旅する子」であった。十七歳からさまざまな職業に身をおき、現在までに寡作ではあるがコンスタン卜に物語を語り続けている。各作品にみなぎるおとなしいが鋭い力は、少数でも深いファンをつないでいるだろうと思われる。さて「どれい船にのって」は、十三歳の男の子のジェシーが、おつかいのかえり突然誘拐され、こともあろうに奴隷船に 乗せられて運命の船旅を経験するという物語である。いったい何のために、貧しい母親のもとからジェシーが引き離されねばならないのか、その疑問はアフリカで奴隷を積みこんだ船の中であきらかにされる。実際のところジェシーは、アフリカにつれていかれる日々を、「旅」と考えていた。しかし船倉に積み重なるようにころがる黒人の奴隷を見、そこが無惨な穴ぐらになったことがわかったとき、少年は「航海の半分が終わったと思っていたのに、こうなると、実ははじまったぱかりだと思われてきた」のである。こうしてはじまった海の旅は、舞台がまわりの大海原から浮き立った「船」の中に限定され、役者も一歩も外にでられない極限の状態となる。だからこそここで作家の力量が発揮される時だけに、暗い、重い現象が波の音も消してしまうほど「そのまままっすぐ」な筆で綴られているのはなんとしても惜しい。たしかに読後、うちひしがれ、たちあがることもできない人間(奴隷)の地獄は残る。しかし作者が残そうとしたのはそれだけではなかった。少年がはじめてみるアフリカ人は、母親と暮らしたニューオーリンズの街でみかけた黒人の女の姿とっながっていく。アイルランド人の船員は、 自分の親が「船倉での地獄のような日々」を経てアメリカに着き、売買された事実を苦渋に満ちた表情でかたる。しかしアフリカの黒人の奴隷についてはこれで当然だ、といいきる大人の言葉に少年の心は大きくゆれる。こうした要素をすこしずつまじえながら、作者は少年がこの船の中で果たす役割について語りはじめる。作品の冒頭、少年が路地裏で帆布を頭からかぶされて押し倒される場面がある。
「横笛をひろうんだ……こいつは笛がなきゃ、使いものにならねえぜ」
 この言葉がしめすように、笛と共に奴隷船に運ばれた少年は、横笛の名手(?)だった。やがて船長が奴隷たちを前にジェシーに命令したのは、横笛を吹いて音楽を奏でろというものである。裸同然の男女が、女はこどもをしっかりかかえたまま笛を吹く少年の前に立った。「鉄の鎖が……悲しい歌をかなでた。どれいたちははじめのうち、一、二度、ほとんどききとれないようなうめき声をあげていた。それがやがて力強い声となっていった。そしてしまいには、-歌を歌っているにしろ、呪文をとなえているにしろ、物語を語っているにしろ-ぼくの吹くかすかな音色がききとれなくなるほどだった。」奴隷には運動が必要だったのだ。ジェシーはとても音楽とはいえないとぎれがちの音で横笛を吹き続け、奴隷たちはそれにあわせて(踊りではない)体を動かした。そしてアメリ力を目の前にした時、この奴隷船は巡視船にみつかり、嵐にあい、ジェシーは奴隷の少年とかろうじて岸におよぎつく。二人を救ったのは逃亡奴隷のダニエル老人で、ジェシーには母親のもとへの帰り道を、アフリカからつれてこられた少年には、新しく生きる道を用意する。なにをハピー・エンディングとするかはむずかしいとこ ろだが、ジェシーは無事母親のもとにもどった。少年はもとの生活にもどるが、昔のままの自分ではない。黒人のそばを通る時、その歩き方に、鎖につながれ、服地同様にたたき売られる以前の姿を見いだそうとするようになっている。あたりまえだ。仕事を見つける時にも、奴隷を運んだり、売ったりすることに絶対関係のない仕事をさがそうとする。南北戦争の時も北軍側について戦った。このあたりの「教訓」味たっぷりのメッセージを読んで、もどかしくなってこの本を閉じてしまわないでほしい。最後が大切だからだ。その後、奴隷船の旅にまつわる主人公の記憶は、その鋭さを失っていくことが述べられ最後の文章が光ってくる。「一つだけ時をへても変わらないことがあった。それは、音楽に耳をかたむけることができないということだった。……どんな楽器であれ、音がすると、ひとりきりにならずにはいられない。曲でも歌でも、最初の音をきいただけで、目の前に黒人がよみがえる。足かせの鎖の金属音に笛の音はかきけされていく……」この文章を読むと「感覚の拒否する鋭さ」をつきつけられるおもいがして、やはりこれからもフォックスのものは読みつづけようとそんな気になる。(島  式子)