ちびっこカムのぼうけん

神沢利子:作
山田三郎:絵 理論社 1961

           
         
         
         
         
         
         
     
 児童文学というものが既存の文学ジャンルの中に顔を出してくるのは近世になってからだと思われるが、今日までの歴史を振り返ってみると、《おもしろさ》を武器とした子どもたちが、子どもの《育成》を願う与えて側の大人たちと繰り広げる「戦い」といっても過言ではないだろう。「戦い」といっても製作権を持たない子どもたちがなしうるのは、与えられた本を彼らの本能的嗅覚的なインタレストによって選り分ける作業であり、それが世代を越えた総体としての《子ども読者》によってなされるとき、ほぼ十年を一単位として彼らのセレクトの正しさが明確になってくるのではなかろうか。
 では、子どもたちのインタレストの核になっているものはなんだろう。少なくとも今世紀に於て(?)児童文学者と自認する大人たちの大半がマユにしわよせて考えるのはこのことではなかろうか。子どもの本の評価の基準は《おもしろさ》だけであり、そのエッセンスは読みつがれてきた古典名作の中に息吹いているといったのは『児童文学論』で著名なL・H・スミス女史であり、総体としての子ども読者の評価をとらえなおそうという考えであったと思う。周知のことであるが、児童文学のジャンルがなかった時代でも、子どもたちの旺盛な読書力興味力は大人の文学を盗み、「ガリバー」や「ロビンソン」を今日まで生かしてきた。だが彼らがはじめて自分たちの共体験できる主人公をもったのは『宝島』(一八八三)や『家なき子』(一八七八)ではなかろうか。私はここで浅学な知識をひけらかして、失笑を買うつもりはなく、子どもたちが書物を自分たちのものとしていく歴史の当初から、インタレストの核として《冒険性》がずっしりと存在していたことをいいたいだけである。
 冒険――なんと魅惑的なすてきなコトバだろう。茫洋とした海岸を前にしたときのような、険しい山腹に照りはえる夕陽を浴びたときのような、また不思議な雅楽の調べにわれを忘れるときのような、冒険というコトバのイメージはうきうきした胸のおどるような想いを私たちの胸奥にふくらませてくれる。では、何がそんなに《冒険》へと駆り立てるのであろうか。児童文学というものは、おせっかいな大人の側からいえば、子どもがもっている自由な《生》に多様な可能性を与え、多くの変身(成長)を[*「変身」に傍点]くぐることによって、やがて人間的《成熟》に到達することを願うものだと思うが、この変身願望こそ道中の[*「道中」に傍点]新鮮な驚きにもまして冒険の底に潜む真にインタレストな内質ではなかろうか。私たちは『ホビットの冒険』(トーキン)の平凡な一市民ビルボ・バギンズ氏が冒険をくぐることによってついに詩人の境地になったことを知っているし、『サル王子の冒険』(デ・ラ・メア)の三匹の兄弟ざるたちが祖国をたずねる冒険を経て得たもの、いや我国に例をとってみても、『龍の子太郎』(松谷みよ子)の太郎が母なる龍をさがし歩いたすえつかんだもの ――それらが何であったかを知っている。

 さて、一九六一年に出た神沢利子作の『ちびっこカムのぼうけん』が二十年近い年月、子どもたちの酷しい評価をくぐって今日なお読みつがれているのは喜ばしい事実であるが、この冒険談もまた子ども読者に強烈にアピールする真のインタレストを持っているものである。ただこの作品はより幼い読者を対象としているためか、目的成就後の主人公のズッシリした内質変化(変身)よりも、冒険そのもののスケールの大きさと新鮮な不思議さにウエイトをおいているようである。アダルト・ファンタジーと呼ばれる『指輪物語』(トーキン)や『ウォーターシップ・ダウンのうさぎたち』(アダムス)や『ゲド戦記』(ル・グウィン)が随時個の内面[*「個」に傍点]を浮彫りにするのに比べ、『エルマーのぼうけん』(R・S・ガネット)や『チム・ラビット』(アトリー)が個の外面[*「個」に傍点]を、すなわち個の体験する冒険そのものを浮き彫りにしているのを見ればよく分かると思う。とはいえ、冒険を嚥下した後の幾度もの変身、そして大団円の新たな境地が、いつに体験した《驚異》そのものの度合いに深く関わっているのは当然であり、『ちびっこカムのぼうけん』が、アイヌ伝説カ ムイ[*「カムイ」に傍点]を思わせる神話的世界に材をとっているのもうなづけるのではなかろうか。
 前述したトーキンは、『ファンタジーの世界』というエッセイの中で「妖精の国の中心に存在する根源的願望とは、心のなかで想像された驚異を実現したいと願うこと」といっているが、『ちびっこカムのぼうけん』では、この魔法のもつ不思議さの驚異が存分に盛りこまれている。つまり、カムという平凡な小さな少年がいかにして神話的な魔力を司るのかが[*「司る」に傍点]、この作品の最も痛快な魅力ではなかろうか――。
 作品は、「火の山のまき」と「北の海のまき」とに大きく二つに分かれている。前編は、火を吹く山のてっぺんに住んでいる大男のガムリイからユビワを奪い、黒い湖のそばに咲くというイノチノクサを病気の母のためにとってくる話であり、後編は、ガムリイに北の海まではじきとばされて白いクジラになっている父さんをユビワの力で助け出す話である。つまり、自ら湧き起こる冒険心のためというよりは、病気の母、行方不明の父を背負った主人公に周到に課せられた冒険ということがいえるだろう。『龍の子太郎』と同様に、このあたりにアダルト・ファンタジーや異国の冒険談に余り見られない肉親との結びつき(子から親への視点)を見るのだが、だからといって主体性の欠如というには余りにも巧みな旅への設定がなされているのではなかろうか。


 ずっと、北の北のほうのくにに、一年じゅう、まっ白な雪をいただいて、そびえたつ、大きな山がありました。
 そのいただきから、巨人のはく、いきのように、もくもくと、けむりをふきあげ、くらい夜には、空までとどく、火のはしらが、とおい海からも、みえました。
 いままで、だれも、のぼったことがないという、その山のてっぺんには、ガムリイという、大男のオニがすんでいて、夜な夜な、北の海のクジラをつまみあげては、火にあぶってくっていると、いわれていました。
 火の山のふもと、ひろい野っ原と、ひとにぎりのカバの林。
 そのなかの、ちっちゃなテント小屋に、カムという男の子が、びょうきのかあさんと、ふたりですんでいました。


 冒頭の数行をとりだしてみたのだが、冒険的世界のスケールと、そこで起こるであろう冒険への予感が遠近感、大小感[*「大小感」に傍点]を使って見事に読者の胸奥に投げ込まれているのが分る。つまり、ガムリイとカムの対比の妙である。クジラを手をのばしてつまみあげては火山の火にあぶって食ってしまうぐらい大きな大男オニと、ひとにぎりのせまいカバの林のちっちゃなテントにすんでいる小さな男の子のカム――この遠近法は、ガムリイが大きければ大きいほど、カムが小さければ小さいほど、いやが上にも読者を冒険という変身飛躍願望へ駆り立てるのではなかろうか。
 さて、『ちびっこカムのぼうけん』を神話的伝承の世界といったが、その土台になっているものをいくつか拾ってみよう。[以後(1)〜(4)は原文では丸数字]
 (1)空間(スケールの大きさ)。雪を抱く火を吹く山、はてしらぬ北の海と南の海、氷河と雪溶水を集めて海に注ぐ川、空に光る北斗の七つ星や三日月という大宇宙。
 (2)時間。六七〇年めぐると北斗の大ヒシャクに銀河の水が満ちる。ガムリイがユビワを奪ってから三千年。七千年もえものを待ってたと歌うトリブラチー。何万年もの昔から燃えたぎる火の山の大釜。
 (3)生けるもの。山を守る大男のガムリイ、金ピカの大グマ。大男にはじきとばされたカムの父は北の海で大きな白くじらになっている。大ワシ。トリブラチーの大岩。ながヒゲのアザラシ。そして大きさを際立たせるために、小さなカム、ジネズミ、ポルコ、金のユビワ等。
 (4)《魔法》その水を飲んだり、触れたりすると、石や花に変わる黒い湖。黒い湖や悪いシャチの魔力を解く金のユビワ。早足のタワに海の上を歩けるながぐつ。魔よけの赤い皮ひも。
 ――こうしてみていくと、天地創造、万物誕生の創世記を想わせる舞台設定だが、この作品の土台になっている《伝承》は、次のようである。
 ナガヒゲ一族のいい伝え――。昔お日さまは海からのぼって海へと沈むあいだ毎日トリブラチー兄弟の所で遊んでいた。金のユビワもお日さまがくれた。そのユビワがあまり美しいので長いヒゲのアザラシがだまして奪う。そのユビワをガムリイがとりあげる。お日さまはかんかんに怒って空高くのぼり、トリブラチー兄弟のところには遊びにこなくなった。兄弟は悲しんでいまでもアザラシを見るたびに岩を投げつける。ところが、いつかユビワを奪ったアザラシの皮で作ったながぐつをはいた若者が海へ来て、アザラシたちの恥をそそいでくれると信じている。
 ユキフクロウが語るいい伝え――。六七〇年めぐると北斗の大ヒシャクに銀河の水が満ちる。今夜はガムリイがこわがる日。そのヒシャクを動かしてガムリイにうち勝つことができるのは、シロトナカイの乳をのんで育った男の子だが、もう一人大ワシに育てられた女の子もそろわなければならぬ。
 『ちびっこカムのぼうけん』はこの二つの伝承を土台にしながら、物語が進行するのであるが、目的が成就するのは伝承された《魔法》の力というよりも、その魔法の力を動かしうる主人公の《内質》に大きく関わっていることは見逃してはならない。つまり、ちびっこカムが大男ガムリイや殺し屋のシャチたちに打ち勝つことができたのは、伝承魔法に決められた、シロトナカイの乳をのんで育った男の子だとか、ナガヒゲのじいさんアザラシの皮で作ったながぐつをはき、金のユビワをもっていたとかでは決してなく、その以前に《魔法》を司る[*「司る」に傍点]ものとしての資格を立派にもっていたためである。資格というのは、人間が内質として持っている普遍的な価値、愛情、やさしさ、正義、勇気とかいったものであり、この作品ではそれらは病気の母や行方不明の父を《鏡》として条件反射されてくるものである。つまり、カムがもっている諸々の人間的価値は、父や母を通して[*「通して」に傍点]、あるいは反射して[*「反射して」に傍点]出てくるものである。だが、愛ややさしさといったものは自己の内外にあってそれを犯すものや、対立するものとの葛藤をくぐってより美し く尊いものに研かれていくとしたら、カムの冒険への出立はあまりにもストレートで、父母を想う気持ちはくもりがなく、よってややもすれば《冒険》の必然性、わくわくする興奮度が弱いと指摘されるゆえんであろう。だが、メロドラマまがいのすれちがいや誤解や危機一髪によるフラストレーション(心理葛藤)は、より年長の読者にとって効果的であっても、個の内面[*「個」に傍点]への深化は必然的に冒険世界の距離・空間・時間の広がりをせばめてしまいがちなのは否めない事実ではなかろうか。同時に、主人公をも万物の創造の一つとして捉える神話的世界にあっては、個[*「個」に傍点]そのものより個[*「個」に傍点]を包みこむ空間的宇宙により作品世界の均衡が意図されているのではなかろうか。こういう風にみていくと、ちびっこカムが人形劇のマリオネットのように類型的でうすっぺらいとしても、神沢利子が創世したカム的神話の世界では巧みにその均衡をたもっているように思えてならない。既に述べたように、この作品の意図は小さい読者に冒険そのもの(冒険を支える魔法の世界)をスピーディに展開してみせることにあり、冒険後の目的成就もまさにハッピーエンド( 物語完結の均衡)として徹底させている。
 物語展開の痛快さを考えるとき、忘れてならない最大の要素は、語り口とテンポではなかろうか。文章は簡潔でキビキビしたリズムがあり、表現も子どもたちの日常性を考慮した具体的な発想にもとづき、不用意な観念性はない。同時に展開が会話によって進められていくことも、文体に快い流れをつくっている原因の一つであろう。
 最後になったが、冒険を支えているものが主人公の内質としての父母への愛や優しさであると言ったが、この作品の大きな魅力の一つとして、主人公カムを助ける動物たちの友情[*「友情」に傍点]がある。この友情は、もちろんカムの行動に対する動物たちの報恩というふうにもとることはできるが、(ジネズミや大ワシ等)むしろカムがもっている内質に対する誠実な好意と考えるのが妥当だろう。大ワシの赤ちゃんにトンボガエリをして笑わせたり、アザラシのぼうやを思わず抱きあげるカムには、誰にも愛をわけ与える優しさ、心の豊かさがあり、それが動物たちという《自然》との調和をスムーズにさせていくのだろう。そして、この『ちびっこカムのぼうけん』という作品には、冒険という目的のほかに、ここに作者が願いとして伏流させた目的があるといえるのではなかろうか。つまり、神話的スケールの大きな大自然(大宇宙)を舞台として描出した冒険世界の底に、人間と自然は戦い合うものではなく、調和しあい、愛しあいながら生きていくものであるという《願い》をひそませていることである。同時に、善意の動物を仲だちとして、友と交わることの楽しさ、喜びをも見事に描き出 したといえるのではなかろうか。(松田司郎
日本児童文学100選(偕成社)
テキストファイル化 加藤浩司