小さなスプーンおばさん

アルフ・プリョイセン

大塚勇三 訳 ビョールン・ベルイ 絵
学習研究社 1957/1966

           
         
         
         
         
         
         
         
     
 いつのこととも、どこのこととも、なんの断りもなしに、ただのおばさんが登場する。全くふつうのいなかのおかみさんなのだが、これまたなんの理由もなく、ある朝突然、目がさめるとティースプーンくらいの大きさになってしまう。すわ大変と思うけれども、おばさんは全然あわてない。掃除はねずみをおどしてさせ、皿洗いは同じくねこにさせ、ベッドメイキングはいぬにさせる。洗濯物は雨に洗わせ、太陽と南風に乾かしてもらう。ご亭主が帰って来るまでに、パンケーキを焼かなければならないが、それもケーキ種を入れてあった壷や、フライパンをおだててさせてしまう。そしてご亭主が帰って来る頃には、またちゃんとふつうの大きさに戻っている。
 小さくなってしまうことは、ご亭主には秘密の留守ごとなのかなと思うと、さにあらず。ある朝ご亭主が目覚めると、小さくなっているおばさんを発見する。
ご亭主は、近所の人に秘密にしようと思うが、おばさんは頓着しない。ご亭主ひとりでは、ろくに買物もできないのがわかってるので、ご亭主のポケットに入って、指図しつつ、マカロニを買いに行く。道中でもポケットの中の乱雑さにいいたい放題文句をいい、店では、主人が自慢する新入荷の茶わんが見たくて好奇心を抑えられない。ちょっとのぞこうとポケットからはい出たおばさんは、あっという間にマカロニのひき出しに落ちてしまう。さあ大変と思うが、さにあらず。
 おばさんはその窮地を福に転じて、うまうまと主人自慢の茶わんをただで手に入れてしまうのだ。
 おばさんは、その天衣無縫なふるまいと闊達な頭の働きで、見知らぬ女の子の友達になるし、カラスの会議では選ばれて女王になる。ジャムにするコケモモをとりに行けば、狐や狼ばかりでなく、熊の王さままでを、口先三寸うまくあしらってこき使う。自分でしかけたねずみとりにかかっても、あわてず騒がず、反対にねずみの告げ口で、ご亭主の盗み喰いを知ったりする。
 ご亭主と仲が悪いかというと、そうではなく、なにかとご亭主の機嫌をとり、居心地よくしてあげようと、せっせと働く。誕生日には、ご亭主望みの銀の飾りつきパイプを、足を棒にして探し歩く。しかしそれは、貞淑な妻として夫に奉仕する姿とはおよそ異なり、ご亭主の気の進まぬ夏至の祭りに連れて行ってほしいからなのだ。
  このおばさんを表現する作者の手法が、またまさに天衣無縫で、なんの小細工
も、事件の伏線もなく、話の背後に、なにか意味づけや寓意を探そうと思ってもむだである。
 おばさんは、人間の姿をとって描かれているが、これはムーミンと同質の世界であり、その根はおそらく、スカンジナビアの妖精物語に求められるだろう。
 おばさんが妖精と同質だというのは、どんな動物とも意志を疏通することができ、どんな動物もおばさんには心を開いているところに窺える。そしてそれは、おばさんの人間としての属性ではないのだ。おばさんは「あたしがふつうの大きさのときには、あたしにゃ、ねこのことばがわからない。だからおまえがなにをしゃべりたいのかもわからないんだわ」というし、ねこもおばさんがティースプーンくらいに小さくなるのを待ちかまえていて「ああ、やっと時期がきた」といって、自分の望みを伝える。小さくなったおばさんには、カササギのおしゃべりも聞こえるし、普段はいい子の「玉なげ小僧」の本心や、いつもはしっぽをふっているいぬの獰猛さも見えてくる。
小さくなるということは、ちっとも事態を困難にすることでなく、むしろそれを逆手にとって、大きければできないことをやってのける。そこに面白さがあるわけだが、この小さい姿は、伝承文学の中の妖精や矮人の生れかわりと見ていいだろう。
  ゲルマンの伝承文学では、矮人は妖精の特種な一部門で、種類も非常に多いが、このおばさんは強いて探せば、人間の住む所にとどまり、人の役に立つことを喜びとし、奉仕に対する代償は求めないで、自分を庇護してくれる家に幸せをもた
らすと考えられていた≪コボルド≫にその原型を見ることができるであろう。
 本に附された解説によると、作者プリョイセンは、ノルウェーの片田舎の貧しい農民の子で、学校教育を受けたことはないとあるから、彼の知識や空想は、おそらく人々の間に語り伝えられた民間伝承から得たものであろう。
 また、その作品が実に巧まぬナンセンスになっているのは、ナンセンス文学の系譜が、ゲルマン、ケルトの民族に固有で、そこにしっかり根を下ろしているからであろう。ラテン、ギリシャの人々は、もっと別の明晰な論理性がその趣向で、どちらかといえばそこでは、ナンセンス文学は育ちにくい。ナンセンスを意図しても、どこかに寓意を含んで、いずれ風刺の方を向いてしまう傾向がある。
 それと較べると、プリョイセンも、また同じノルウェーのトールビェルン・エイナーも、あっけらかんとしたユーモアを、なんの倫理的意味づけなしに書くことができる。スウェーデンのトーベ・ヤンソンや、リンドグレーンにも似た傾向を見ることができるように思う。これらに共通する基盤はやはり民族の血であろう。
 有意義なものへの信仰がなかなかゆるぎそうもない日本で、これらの作品が子どもたちに迎えられていることは、児童文学がある変質を迫られていることと受けとっていいのではないだろうか。
 なお、この作品には『スプーンおばさんのぼうけん』『スプーンおばさんのゆかいな旅』の続篇がある。(石澤小枝子
世界児童文学 100選1979/12/15
テキストファイル化 杉本恵三子