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 今回この小論では、明治6年(1873)に来日して以来、何度かの帰欧をはさんでとはいえ、明治44年(1911)日本を去るまで40年近く滞在し『日本事物誌』(Things Japaneses,1890)(注8)をはじめ、『古事記』の英訳 (1883)の他、日本アジア協会 (Asiatic Society of Japan)の紀要を主たる舞台にして多くの日本研究をなしたB・H・チェンバレン(1850〜1935)の小品、AINO FAIRY TALES 3巻について述べることにしたい。
 これは縦長(12×18)の large size 平紙の彩色絵本である。
 チェンバレンは先述のちりめん本「日本昔噺」20冊の中にも4冊を英訳している。すなわち、No.8 Urashima,the fisher-boy「浦島」(1886), No.9 The Serpent with Eight Heads 「八頭の大蛇」(1886), No.13 The SillyJelly-Fish「海月」(1887), No.15 My Lord Bag-O'rice「俵の藤太」(1887)である。「八頭の大蛇」に永濯の名が見える他は画家名は記されていない。これらの話を何によって書いたかはわからない。今回はその英訳にまで立ち入って述べる余地はないが、一読、どの作品も口承のものから採った形跡は全くない。長谷川がなんらかの書物を見せたと思われるが、長谷川とチェンバレンをはじめとする在日の外国人日本学者たちとの接触がどこで可能であったかが正確には未だにわからない。長谷川が商法講習所にいたことから、その後身にあたる一橋大学に調査を依頼したが記録が見つからない。しかし日本の昔噺の多くを英訳したデイヴィッド・タムソンやジェイムズ夫人がヘボンと同じ長老派の来日宣教師であることを見ると、その筋からのつながりはいずれほぐせるのではないかと思われる(注9)。後述するが、「日本昔噺」シリ−ズの仏訳者であるjド−トルメ−ルや ジュ−ル・アダンはともに仏国公使館の通訳官として任命されていた人であることが、西堀昭先生のご尽力によって判明した(注10)。機をみるに敏な長谷川が、外国人宣教師や外務省勤務の外国人の手がかりをたどって、チェンバレンやハ−ン、あるいは同じ帝国大学 教授であったフロ−レンツなどに話を持ちかけたことは想像に難くない。
長谷川武次郎が出したジェイムズ夫人訳の大判ちりめん本Three Reflectionsの表紙裏にはじめて AINO FAIRY TALES の広告を見た時はてっきり愛のお伽話と早合点していたが、原本を手に入れることができてこれがアイヌの昔話であることを知った。
 チェンバレンは『日本事物誌』にもアイヌの項目を立てているが、そこでもAINOSとしている。その項でチェンバレンはアイヌというのが「人間、一人前の男」を意味する言葉であることからはじめ、生息地域と、日本民族によって従属させられた歴史を客観的に述べ、彼らの体格、性質、狩猟と漁撈による生活、太陽、風、太洋、熊をカムイとして神格化する自然崇拝をも正確に記述している。アイヌの言語についても「犬が話すことのできたわけ」という説話を例にあげて具体的に述べている。チェンバレンは信頼すべき資料としてJ.バチェラ−が「日本アジア協会誌」に発表しているアイヌ関係の論文を挙げている。チェンバレン自身もバチェラ−と共著で「帝国大学文学科第一紀要」にアイヌの神話、文法、地名について論文を書いている(注11)。太田雄三『B.H.チェンバレン』の年譜によると、チェンバレンは1886年に蝦夷(北海道)を訪れた報告を『アイヌ研究より見たる日本の言語、神話、地名』(The Language,Mythology and Geographical Nomenclature of Japan viewed in the Light of Aino Stadies)として翌年の「日本語便覧」に載せている(注12)。
 長谷川は、チェンバレンがアイヌ研究に大きな関心を持っていることを知って、彼が採集してきた Fairy Tales をも自社の出版物に加えようとしたに違いない。
 AINO FAIRY TALES は刮目すべき新しい昔話の発見とは言えないが、その装丁の卓抜さ、昔話採集の素朴な形、そして何より長谷川の先見の明に驚いたので、この珍本を紹介してみようと思い立った。
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