第一四回坪田譲治文学賞(岡山市主催)の受賞者は、 『ナイフ』 (新潮社)の重松清氏。

           
         
         
         
         
         
         
    

この作品はいじめや学校、家庭の問題など、今日的な題材を正面から描いたものである。二月十六日都内のホテルで開かれた、受賞記念祝賀会での重松清さんの言葉。
「この祝賀会に何人か招待してもいいと市の方から言われて、迷わず大学の恩師二人を招待しました。学生時代は生意気なだけの乱暴者で、まさか自分が小説を書くようになるなんて思ってもいなかった。迷惑ばかりかけてきた恩師を招持できたというのが、一番嬉しい。そして岡山でも、今日東京でも、大学の教え子や、昔教えていた専門学校の教え子から祝電をいただきました。すごく嬉しかった。学校というか、教師、生徒の関係って、素晴らしいと思っています」。
 恩師の一人三田誠広氏の言葉。
「重松君は、彼が学生時代からの知り合いで、私が『早稲田文学』の編集委員をやっていたときに、重松君は学生編集者として活躍をしていました。その時から、ちよっと普通の文学青年とは達うんですね。体格が違うということもありますけれど、全身から野獣のような暴カ性がにじみ出している。おそらく中学校の頃は、岡山の千代大海だったのではないかと思います。ただ、非常に仕切るのがうまくて、下級生を仕切って実務をこなしていました。彼が文学的であるかどうかよく分からなかったけれど、編集者としては優秀な人物ではないかと思っておりました。大学を卒業するときに、当時の編集委員には、私と中上健次、立松和平という錚々たるメンバーがいたんですけれど、そういう人を電話で脅すんですね。『俺を推薦しろ』と。しょうがないから、角川の重役に電話して推薦を出したら、見事角川に入りまして、編集者として有能な仕事をしていましたが、突然フリーになり、早稲田に戻って『早稲田文学』の編集長をやっていました。
 その間にいろんなぺンネムを使って、コラムニストやったり、フリーのエデイーをやったり、それから風文ではありますけれど、ゴースト・ライターもやっていたのではないか。そのうちに、本名の重松清で作品を書くようになりました。今回の受賞作もそうですが、非常にピュアな、美しい少年の魂や、傷つき屈折している若者の痛みを、リリカルに捉えるところが、重松清という作家の特徴であろうと思います。
 しかし、彼は今後もっとスケールの大きな作家になると思います。今書かれている作品は、彼の持っている資質の一部でしかないと私は見てります。重松清はもっと偉大な作家になります。どうかみさんのご支援をお願いし方と思います」。

週刊読書人「トーク・クローズ・アップ」1999,03,05