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5まず、肯定的評価とでもいうべきものから抜き出してみると、次のとおりである。 「スタイルの新しい美が表出されている」「この作品のように文学的に高く深い、そして本格的なフィクションのものが現れたことは大いに喜ぶべきことだろう」 (船木視郎/現代児童文学史/一九五五年 新潮社) 「やはり映画化された竹山道雄の『ビルマの竪琴』や住井すえの『夜あけ朝あけ』などは、童話伝統とは無縁の家庭文学的作品であった。竹山・住井の作については、主題をめぐって評価が分れたが戦後の収穫にはちがいない」(菅忠道/児童文学入門/一九六○年牧書店) 「ヒューマニズム。人間の尊厳。歌声に象徴される平和へのねがい。スケールの大きさ。終戦直後の解放感の現われ」(古田足日/子どもの本棚/一九五六年 三一書房) 「平和の主題と積極的に取り組んだ」もの。「平和への意思を高く評価する必要があると思う」(関英雄/児童文学論/一九五五年新評論社) 「肯定するにせよ否定するにせよ、この作品には、波乱にみちていて、子どもの興味をつよくひく筋のはこびによって伝えられる思想がともかくあった」「昭和二十九年頃の児童文学の急進的部分は小説的手法をもって現実を描き、自己の思想を伝える苦闘の中にあって、この作品を手がかりにした」(神宮輝夫/児童文学概論/一九六三年 牧書店) 「正統な児童文学運動がりっぱな作品を生み出せないでいる時、広範な読者をとらえたこの作品は、まぎれなく戦後文学の収穫である」(那須田稔/一九六二年五月号 日本児童文学) (これは、わたしの手元にある限りの評価を抜き出したものである。そのまま抜き出したものもあるが、適当に縮めたものもある。これらの肯定的評価は、実は、すぐ否定的評価の文章とつながっているものもあるのだが、その部分は次に抜き出すことにする) 右の評価は「平和への意志」「人間の尊厳」「戦後の収穫」と、そのすぐれた点を列記することで終っている。いわゆる批評が一つの実証科学の側面を持っているとするならば、作品そのものの分析の上に立って、肯定評価にせよ否定評価にせよ行なわれなければならないと思うのだが、わたしの読んだ限りにおいては、作品を分析し、作品そのものから評価を下しているのは、否定的評価の場合に多いようだ。肯定的評価の多くは、なぜ、それが戦後の収穫であるのか、どのような点から、そうした結論が引き出されたのか、そこの追求が不足している。 那須田稔は、猪野省三の「文学理論としては深められず、問題の追求を遠慮するか、評価をアイマイにするか、陰口的評価におわった観があった。したがって論争は展開されず、論争によって理論をたしかめるという展開がなかった」 (日本児童文学大系・五・解説)という一文を引きながら、「正統的な児童文学運動においては、異質な作品について討議することをさまたげていたある種のサボタージュがあったのではなかろうか」(前出/戦後の児童文学運動/一九六二年五月号 日本児童文学)と「ビルマの竪琴」について記しているが、この推定は興味深い。たぶん、意識的なサボタージュのようなものはなかったと思うのだが、(あっては、もはや文学などと澄ましておれないのだ)無意識のうちに次のようなことはあったのかも知れない。誰かの言ったことば、それで自らの評価にかえる怠慢さ、自分の手で考え直す努力の放棄、そうしたことはあったのかも知れないと思う。 たとえば「一億総ザンゲ」「人間蔑視」「頽廃思想」という評価の下し方が、案外、繰りかえし使用されていることなどが、それであるが、しかし、ここでは、次に、ネガティブな評価を抜き出してみよう。 一九五四年の、「文学」(十二月号)に載った竹内好の批判は、「ビルマの竪琴」に関するネガティブな評価の一つの定型を作ったようにわたしには思える。もちろん、それまでにも、この作品に対する批判はあったとは思うのだが、わたしの手元にある否定的評価は、それ以後のものである。そこで、まず、竹内好の「ビルマの竪琴」論から抜き出してみると、次のようである。 「主人公は水島一人である。水島という人間を創造することによって、作者は戦争の問題、日本民族の生き方、人類の運命などを考えている。水島を理想化することによって戦争批判を行なっているわけだが、この戦争批判の角度に私は間題を感じる。戦争を宿命的なものとする考え方と、その救済を精神的な方向に求める態度が強調されているのが、私には不満なのである。」 竹内好は、このあと、水島上等兵の到達した心境を「解決ではなくて解決の回避」と指摘し、「日本軍を秩序ある集団として描くことからくる物語のリアリティの消失」「人間愛が観念として処理されていること」「ビルマ人やカチン族に対して一種の蔑視があること」をあげているのだが、「一種の頽廃思想」とは、たとえば次のような点である。 「美しさのなかに私は一種の貴族的な、超越的なものを感じた。天上から見おろしているような、また、ほろびるものをたたえるような、孤立と頽廃の雰囲気を感じた。」 竹山道雄の「失われた青春」の美しさを受けとめた作者のことばがこれであるが、竹内好は、「ビルマの竪琴」についても同様のものを感じる。「文章はすぐれているが、どうも健康でない。だからこれを次代の目標にすることには私は反対なのである」と言っているのだ。くわしくは、この雑誌を読んでいただきたいわけだが、結論は「少年読物の秀作であるばかりでなく、戦後文学のなかの代表作の一つであろうと思う。しかし、その根本にひそんでいる人間蔑視と、一種の頽廃思想とは、それとして指摘しておかなくてはなら ない」ということである。 さて、このあと-と言うと、竹内好の評価の後ということだが-刊行された児童文学関係の書物から否定的評価の一面をひろってみると、こうなる。 「この作品には終戦時の当事者の生んだことば『一億総ザンゲ』の思想が強い」「宗教的遁世と精神改造主義の色濃い作品には一億総ザンゲの匂いがある。」「平和の手応えは抽象的だ」(関英雄/児童文学論/一九五五年刊 新評論社)-注・この関英雄の評価は厳密に言えば一九五二年の執筆のものである。だから、竹内好より早いものと言ってよい- 「ビルマの竪琴なんか児童文学ですかね」「読める読めないということより(中学生などに)ああいう考え方は、竹山道雄的廻転をしているのだな。そういうものが読み切れるものかどうか。戦争当時、向うへ行っていた兵隊が、向うで大変悪いことをしたので現地に残った、ということしかあとに残らないのだな。国民総懺悔みたいなものに通じるものがあるのですよ。それが子供のものとしてどうだろう。」(筒井敬介/座談会中の発言/一九五五年十二月号 日本児童文学) 「ところで『ビルマの竪琴』は、児童文学として、申し分のない作品であるか。答えは否である。なぜかというと、作者だけが子どもに語りかけようとしているだけで、作品そのものは、少しも子どもたちに語りかけてはいないからだ。口調は子どもたちに向かってやさしく流れ出してはいるものの、子どもたちの心にとどいてほしい作者の訴えは、不用意のままに放り出され、子どもたちの口には、あまりにも固くまずい。第三話の『僧の手紙』を、第一話、第二話のなかに融かしこみ、せっかちな説得をやめて、人間の生きた働きのうちに作者の訴えを封じ込めなければ、子どもに読まれ親しまれる縁はなかろう。子どもに読まれぬ児童文学の作品などというものは、まったく無意味であり、いくら傑作としておとなに読まれようと、作品の生命はなきに等しい」(進藤純孝/作品より見た児童文 学/一九五九年三月号 文学) 「それでは、戦争がいったい何物であるか、なぜ戦争をしてはいけないか、どうして戦争を絶滅させるか、積極的な意志がみられないのである。またここには、軍隊でのいざこざや苦痛はまったく捨象されている。美点のみが強調され、たとい許されたとしてもこうしたことがあり得るであろうか、とさえ思われる箇所がいく所かある。私の最大の不満は水島安彦の手紙の最後の部分にある。『わが国は戦争をして、敗けて、くるしんでいます。それはむだな欲をだしたからです』苦しみの原因をそのように把握し、どうしたらわれらは正しい救いを得ることができるか、その結論を発見するため教わりたいため、このビルマの『国に生きて、仕え、働きたい』というのである。私はここに消極的な、現実から逃避の、悲しい姿勢が色濃くうつし出されているのをみないわけにはいかない。戦争というものの本質的な意味について、深い省察に導くような作品をのぞむのは、あるいは無理なのであろうか」(中井正義/「ビルマの竪琴」の今日的意義/一九六四年八月号 日本児童文学) ネガティブな評価の焦点は、「総懺悔性」「現実逃避性」「頽廃性」に向けられている。もちろん、それが児童文学かどうかという疑問もそれに加わるが、多くの意見は、この作品を児童文学として拒否していない。むしろ、この作品を、新しい児童文学創造のスプリング・ポード、あるいはその可能性を内包したものとして把えている。 「ぼくは、かつて『ビルマの竪琴』に新しい児童文学の芽ぱえがあるといったことがあるが、それについて、竹内好氏は『この作品の底には頽廃がある』と指摘された。その以前、塚原健二郎氏も、『深いヒューマズムとニヒリズムの織りなす一脈の哀愁は、希望のない少年の心をとらえたかも知れない』とのべている。ニヒリズム、タイハイとまではいかなかったが、すでに数年前、ぼくたち自身もこの作品の研究会で、一億総ザンゲ的逃避の弱さを確認した。この作品が、こうした弱点をもっていることすべてを肯定したうえで、ぼくはこの作品に日本児童文学の主流がもっていなかった異質のロマンを発見する。雪をいただく高山を予想させながら、しゃく熱の太陽のもとに展開する強烈な色彩と音楽に満ちたこの作品は、戦時中の重圧からのがれた感情解放の所産であり、感情解放を促進する働きをもっている。宗教へ逃げることによってざせつしながらそれは、赤とんぼの羽の美しさ、月光にぬれる露のしずくのきらめきを歌ってきた日本近代童話のもつ、ささやかな感情解放ではない。壮大なものであった。(中略)『ビルマの竪琴』に対する評価は、今なお定まっていない。これが、この作品をめ ぐる第一の問題点だが、それについて不思議なのは、竹内好氏が『児童文学のみならず、戦後文学のなかでも秀作』という評価をくだしながら、成人文学研究者が、この作品に言及しないのは、なぜなのだろうか。」(古田足日/現代児童文学論/一九五九年九月 くろしお出版) 「おそらく竹山は、子ども向きという意味での技術は頭になかったであろうが、何をおいてもこれだけは次の世代に伝達したいという腰だめの姿勢から噴出した強さがこの作品を支えていた。こんなところにも、子どもへのアプローチということが、単なる技術による処理の問題ではなく、また作家主体の問題であったことがわかるのである。(中略)吉野源三郎は『君たちはどう生きるか』において第一次世界大戦後のモラルを追求したが、竹山は第二次世界大戦後のモラルを追求しようとした。しかも、先にも述べたように吉野の作品が本格的なフィクションへの萌芽であったのを、竹山はさらに一歩前進させたのである。この発展の道は、本来ならばもっともっと大事なものだったはずである。竹山の思想や手法に対する批判も、それをさらに発展させる形で行なわれればよかったが、事態は全く逆の方へいってしまった。そうさせたのは、いわゆる芸術的児童文学者たちのセクト主義であったと思われる」(鳥越信/日本児童文学案内/一九六三年 理論社) これらの考えは、ネガティブな面よりもポジティブな面を抜き出すことにより、それを一種の「挫折したもの」展開されずに終った可能性として指摘している。理由はなんであれ、「ビルマの竪琴」が正面から取り組まれ、分析され、児童文学の問題として吸収されていかなかったことに言及している。しかし、こうした指摘にもかかわらず、問題は、こうした点を、それ自身がのりこえ、一つの結論を実証的に打ち出していないことである。「それをさらに発展させる形」とは「逆の方へいってしまった」ということとは、どのような点なのか。「一億総ザンゲ的」弱さとは何か、「ロマンチックな能動性」とは何か、というように-。 ところで、児童文学の領域で評価が決定していないとはいえ、つぎのように別の領域で評価が下されていることがあるのを、ここでは付け加えておく必要があるだろう。それは「日本の大衆芸術」(鶴見俊輔・加太こうじ他一九六二年十二月現代教養文庫)の巻末に付けられた「大衆芸術名作百選・解説」(大衆芸術研究会・編)小説の部で、この作品が一つの位置を与えられていることである。鞍馬天狗、宮本武蔵とならんでこれは名作の一つであると規定される。 「戦争を悔いた元兵士が、戦後に敵味方の死者の苦境をとむらうために、僧侶となって戦場をめぐる話。熊谷次郎直実以来の日本の大衆芸術の回帰的主題を、東洋との連帯の上にくりひろげた少年宗教小説である」 今一つ、この作品をシナリオ化した和田夏十の意見を付け加えれば、 「主人公である水島は、一見ヒュマニストである様に見えますが、私はむしろ、彼の行動は自我の追求であると解してみました。誰しも水島と同じ境遇におかれれば、彼と同じ様に行動したかもしれないと思うのです。水島の性格がひきおこしたドラマではないのです。従って、水島は抽象化された一個の人間という立場にあります」(一九五五年十二月号 映画評論) |
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