ぼくらのセックス

橋本治
集英社 1993年初版

           
         
         
         
         
         
         
         
    
 ぼくらにとってSEX(性)とは何なの?性のとらえかたは 男と女では違うけれど、どう違うの?
 生きることに深くかかわっている性のことだから、よく考えてみる必要があると思う。けっこうイケるマニュアル本です。

 何年か前まで、テレビのトーク番組や雑誌の対談で、作者の橋本氏をよく見かけた。、主に若者の文化について語っていたように思う。まさか作家だとは思っていなかったのだが、幅の広い文筆活動をしている。『桃尻娘』で、小説現代新人賞佳作(1977年)を受賞。小説、評論、エッセイ、古典の現代語訳『窒変源氏物語(全14巻)』等など、分野は広い。
 『ぼくらのSEX』は、雑誌「明星」の「明星特別編集」として出されたもので、10代の若者を対象としている。セックスの本を書くことに、東京大学で国文学を専門に学んだ橋本氏に白羽の矢が立ったことは、なんとも意外な気がした。しかし、若者にとって、興味本位でセックスをとらえる環境は、いくらでも身近にある一方で、多方面からの知識をもって、セックス観や人間観を伝えてくれる人は、そういるものではない。その点、橋本氏には、柔軟性のある人間性を感じるし、何より古い固定観念に捕らわれていないところがいい。偏見のない眼で「性」を捕らえている。「性」を語るには、人生経験の豊かさも必要だろうが、まだ固まっていないプリンのような若者に、お説教がましくなく、第三者的な立場から語ってくれるところが、若者にウケる作者の魅力だと言える。

 題名は、「ぼくらの…」となっているが、ぼくら男の子だけでなく女の子の性にもたくさん触れている。例えば、光源氏の「性」を辿ることによってその周囲の「女性の性」や、女性がたどってきた性の歴史が解る。「自分の性」を知ることはもちろん、女の子は「男の子の性」を、男の子は「女の子の性」を知ることによって、相手をより深く理解することができるのだ。
 にもかかわらず、「性」に関することって、ふだん何気なく思っていても、それを理論立てて考えたり、話し合ったりすることは、なかなかしない。エッチなことばかり考えてしまうのはなぜ?とか、「性交」って何なんだ?とか、説明してと言われても、いざとなると、どこまで答えられるだろう…。ことセックスに関しては、秘密めいたことだという意識があるから、女性の場合、友人と話し合うということはあまりないようだ。
 この本のように、文章になったものを読むと、けっこうあやふやに理解していたことがあることに、気付いたりする。例えば…、「マザーコンプレックス」「ファザーコンプレックス」。これの正しい意味は「お母さん、お父さんのことで頭の中がゴチャゴチャになっているから、それでいろんな物事がきちんと考えられない」ことを言う。いくつになっても母親から自立できない甘えた男の子のことを「マザコンだ」というふうに、我々は使っているのではないだろうか…。また、ゲイとは男の同性愛だけだと思っていたら、なんと、女の同性愛のこともゲイと言うそうだ。
 それから、フロイトによると、人間の成長段階は「自己愛→同性愛→異性愛」を辿るという。、同性愛は異性愛に移る前の成長段階である。そう言われてみれば、中高生の時に同年代の同性にあこがれた人がたくさんいた。これも成長段階の通過点ということか。

 通過点を通って、異性愛に辿りつくと、今度は異性との愛を育んで行くことになる。そこで異性とのセックスを経験するわけだが、よく「愛情のないSEXをしてはいけませんよ」なんて言うのを聞く。
みんな「愛情のないSEX」なんてしたくはないだろうけど、人間同士の関係はそんなに簡単に割り切れるものじゃないと作者は言う。こないだまで「好きだ」と思っていたのに、SEXをしちゃった後になって「あんなの全然好きじゃなかったな……」ということだってあるし、「愛情のないSEXなんかしたくなかったけど、でも、しちゃったんだからしかたない」ということだってある。こうなふうに、人間というものはあいまいな生き物なんだからそういうことだって起こりうる、というのだ。人生って思い通りにいかないから悩み苦しむし、また成長もする。だから人生は不可解でおもしろいのである。

 こうして色々な人生を経験し、やがて女性は子どもを産み、母親になっていく。今日では、子育ては、ほとんど母親の手にかかっている。どうして、そうなったのだろう…。その原因を探るため作者は、古典『蜻蛉日記』を引用している。『蜻蛉日記』を書いた人は、「藤原道綱の母」と言われている人だが、この「母」の名前は無く、「道綱を生んだ女性」ということになっている。りっぱな作品を残していても「息子の母親」としてしか捉えてもらえなかった時代があった。昔は「子どもを育てることは義務」であって、「子どもを育てる権利を与えられた」という発想はなかった。子どもは「家のもの」であり「男のもの」だった。だから今のように「子どもが母親に属する」という考え方は画期的なものなんだよ、と作者は言う。今の時代に子育てをしている私たちは、子どもを自分のものとして育てるという大きな喜びを得た分、その負担もまた、大きくのしかかっている。育児に疲れる母親が少なくない。子どもを自分の分身のようにして育てる母親もいるだろう。少し距離をおいて、「子どもを育てる権利を与えられた」という発想に帰り、女として、「与えられた権利」を楽しむ心の余裕を持 ちたいものである。
 (話を性に戻して)、つまり、それ程、「子どもが女性に属してしまった時代」だということを、認識しておく必要があるのだ。だから現代の女性は、男性とセックスをするんだったら、万が一子どもが出来たら、その子どもは自分一人で育てるんだ、というくらいの覚悟をもっていたほうがいい、と作者は言う。
 しかし、そういう事態になる前に、女の子は自分のからだは自分で守るんだという意思を持つことが必要だし、男の子は、女の子のからだを守ってあげるというやさしさが必要なのである。
 
 この世に二種類しかいない人間。種類が違えば、当然その仕組みや中身も違ってくる。女性と男性の「性」は、何がどう違うのか。その答えの一つとして、作者は「初潮」:「射精」=「肉体生理」:「快感」の違いをあげている。女性の「女としての始まり」は「初潮」で、男性の「男としての始まり」は「射精」である。「メンス」には快感はないけれども、「射精」には「快感」があり、「メンス」は「生理的な事実」だけれども、「射精」はどうしても「快感的」な事実である。だから男性は自分にはわからない「生理的事実」を知りたくて、ポルノを見たがるし、逆に女性は「生理的事実」なんてのはもう、うんざりで、肉体から離れた「快感」つまり恋愛ドラマを見たがるのだ。なるほど女性は美しいものに憧れるし、ロマンチックな雰囲気が好きな生き物だから理解できるのだが、こんな風に具体的に理解してしまうと、ロマンチックなイメージがどこかに飛んで行ってしまい、なんだか寂しい気分になってしまうのである。こんな私は、まさしく作者の言う、「恋愛ドラマを見たがる女性」そのものなのだ。
 さらに作者は言う。これからは男性も「寝たきり老人のオムツの世話」ができるくらいには「生理的事実」にも慣れる必要があるし、女性も「快感」だってちゃんと知るようになりなさいと。そう、これだ、これ!これが出来てはじめて人間としてまた男性として女性として一人前だと言えるのではないだろうか。
 この他にも「変態のSEX」とか「エイズのこと」とか、「恋愛と友情」とか「人はなぜ人とSEXをするのか」「結婚と家族」とか、他にもはずかしくてここでは言えないようなことが盛りだくさんに書いてあり、目次を見ただけでも、どれから読もうかと迷うくらい
だ。(「  」は目次ではない。)

 SEXというのは「人間のありかた」そのものだ。「人間の中にはSEXというものがあたり前にあって、それを自分の前提のひとつにするのが自然の姿なんだ」と作者は言う。
 「性」は「個を確立」する上で重要な要素であり、「性」と「個の確立」は決して無関係ではない。これからは、今以上にもっと個の確立が重要視される時代が来るだろう。自分を確立していくという
ことは、「性」を含めて自分を問うことではないだろうか。 「エピローグ」では「神秘のベールにおおわれたSEX」と「人間はなぜ死ぬことを恐がるのか」との関係について触れている。生と死にSEXが深く関わっているということを、感じるかどうかは人それぞれだが、結論は読んでのお楽しみ…、ということで、さらに、「自分の性」との対話を楽しんでみてはいかがだろうか。(吉村はるみ
たんぽぽ17 2000/04
テキストファイル化原田 由佳