フィストンとデブとうさん

ジェラール・ビュッセー作

末松氷海子訳 佑学社

           
         
         
         
         
         
         
    
 僕(フィストン、多分九〜十歳位)とデブ父さんの二人の生活の様子が描かれている。母(アンリエット)は、別に恋人がいて、別居中なのか離婚してしまっているのか定かではないが、とにかく一緒にはもう住んでいない。そうした現在の状況や、夫婦間にあったある程度の諸々の事情や真実も、デブ父さんは僕に対して殆ど示そうとしない。これって、変よ、不自然よね。ーかわいそうなフィストン。
 物語は、この二人の生活の一コマずつがエピソードとして、僕の語りにより積み重ねられていく。そして、その語りによって明らかにされる事の大半は、僕の最も身近にいて僕が愛情と関心を寄せざるを得ない父親の姿になっている。その父はまったくドジばっかりだったりするのだが、お人好しで、そのせいでかえって憎めない人であり(弱点を逆手に取って自己弁護バリアーを張ったような巧みさ、ズルさを感じるのだが)、また息子に対しては「おまえが一番大事なんだ」と照れるような事を結構よく口にする人として描かれている(なかなか「感情的」な人!?)。話の筋を追っていくと、どうやら父親は息子の学校の先生(若くてオシャレでカッコイイ女性。男の人にとって都合の良い設定?)に魅かれていて、息子が夏休みを叔父さんの家で過ごしている間に、いつのまにか彼女と仲良くなっている。ラストには僕が「僕たち三人なら、しあわせになれるかもしれない」などと呟いて、父親の再婚すら匂わせられるような、デブ父さんにとってハッピーな話として終わっている。丁度、挿画のような淡彩スケッチ風のエピソードに乗って読み手も作者も、まるで砂糖菓子を食べていたかのような、 危険な目覚めない世界で、軽やかで甘い父子物語に一時、酔うのかな?
 しかし、ここでかたられているエピソードは全て、僕による殆どと言っていい「デブ父さん全面肯定」となっていて、私には非常識で幼児的な性向にあるようにしか思われない父親の全てが、快く容認されるしくみになっている。このような父親の家庭内でり在り方も、もし、これが母親が例えば旅行中で不在のための、つかの間の不慣れな父と子だけの生活ぶりと言うのならば、わかる気もする。とんちんかんぶりも、責任の所在なさも、微笑ましい情景として映るかもしれない。けれども、設定はそうではない。では、この場合の父と子の関係では、妻・母がいないからこその、それぞれの在り方が出てくるはずではないのかと思う。そこに、個人の良い頑張りが見られたり、反面、表裏一体で陰の部分が見えたりするかもしれないものが。それなのに、そういった描写はされていない。それで、そうしたエピソードからなる物語には、子供であり主人公だった(?)僕自身の本当の感情の入り込む余地は無く、気持を伴うような積極的な行動ならなおさらで、僕の物語のように見えて、実は僕の事は本当には何も書かれていない物語だったという事がわかる。では一体、誰の話だったのか。勿論、││潜 行し、作者が遂行していた本当の物語は、「肯定さるる『デブとうさんのラブ・ストーリー』」だったのである。
 いいのかなぁ、この物語はこれで? ねえ、フィストン君? (山口文子
児童文学評論26号 1991/03/01