ふきまんぶく

田島征三
偕成社 1973

           
         
         
         
         
         
         
    
 この絵本の舞台になっている東京都西多摩郡日の出村では、蕗のとうのことを「ふきまんぶく」とよんでいる。「まんぶく」というのは、まんじゅうのことである。蕗のとうは、ふっくらとまるくて、まんじゅうみたいだからである。と作者の前書きである。

 四、五才だろうと思われる、土から生まれたような女の子ふきちゃん。一度見ると忘れられない、まんまるの日焼け顔。日焼けした顔はおかっぱ頭で、肉付きが良く、ふっくらした手足は健康そのもの。自然のきれいな空気を胸いっぱい吸い込んで、畑や野原を自由に駆け回り、健康優良児そのものを思わす主人公のふきちゃん。
 ふきちゃんは夏のねぐるしい夜、キラキラ光っているものを見つけ、あれはきっと星だと思い、山へ出かける。トウモロコシとトマトの畑をぬけ、火の見櫓を後に、牛小屋の前を過ぎ、山道へと向かう。そこは、豊かな自然が広々と広がり、騒々しさも、明るい街灯もなく、静けさだけが漂う。家は昔懐かしい茅葺き屋根。星明かりの中に浮かぶ、これらのシルエットの微妙な色彩。都会の生活で、すっかり忘れていた、懐かしい夜の白さ。その中をふきちゃんは一人、楢の木やくぬぎの木の間の細い坂道を、歩いて行くと、そこにはたくさんの数えきれないふきの葉っぱ。百以上もありそうだ。じっと一枚ずつ見ると、同じ形のものは一枚もない。同じだと思っても、折れ曲がっていたり、葉脈が違ったり、ふきの葉にこんなたくさんの形があったのかと感心した。
 星のように光っていたのは、ふきの葉の上の夜露と知って、ふきちゃんは、がっかりする。 しかし蕗と話をし、仲良く遊んでいるうちに、蕗の茎をすべり、土の中へ入って眠ってしまう。
 背景の星空を見ていると、私の田舎で見る、天の川を思いだす。都会の方にこの話をすると本当なの?と疑いの言葉が返って来る。明るい都会では考えられないことだが、今でも初夏の夜空に、星がぎっしり集まり、北から南に川の流れのごとく、たくさんの星が輝き、まるで星の川だ。初めて見た私の子どもたちも驚き、しばらくの間夜空を見上げ、星の織りなす“天の川”を堪能していた。
 ふきちゃんのとうさんは、夜じゅう村を捜して、やっと朝になって、ふきの葉の下で眠っているふきちゃんを見つける。おんぶされたお父さんの背中は分厚くあったかそう。気持ち良さそうに眠るふきちゃんを、お父さんのがっしりとした手が包む。夜明けの家の周りには、鷄・牛・馬のいる生活があり、ほのぼのと温かい。
 今では、田舎もこんなのどかな生活は見られなくなってきた。山の上まで道がぬけ、自動車かバイクなどの乗り物が一人に一台。農業だけで生計がたちにくくなったため、働きに出る人が増え、畑をする人が減り、そのため畑は荒れが目立って来た。こんな風景を見るのは、寂しい。
 やがて夏が過ぎ、秋も過ぎ、のどかな村に冬が来た。のどかな村は動くものがない。枯れ野は広く、その中にふきちゃんの赤い服が目に飛び込んでくる。色彩はそれのみ。それ以外はみな春に備えじっと耐える土の広がりと、どこまでも続く静けさ。
「お山のあそこはね、いつかふきちゃんがねむっちゃってたところだよ、かあさん。」
「そうね、あんなところまでいったんだね。」
 母と子は、山のあたたかそうな場所をみながら、こんな会話をする。その時の、真上を見ているふきちゃんの顔を、なんとも面白いと思う私に対して、娘は「不自然で変」だと感想をもらした。
 長い冬が過ぎて、だんだんひざしが明るくなり、畑に緑が目立ち始める。「あの緑は何の植物だと思う」と娘に聞くと「・・・・・・・・・分からない」と言う。「あれは麦の緑」と私が答えると、「良く知っている」と、娘に褒められた。今では、麦を植えている畑も少なくなった。それに機械化が進み、農家の子が畑を手伝う姿も、見かけなくなった。
 ふきちゃんは、いつか登った山へまた出かけて行く。そこで出会ったたくさんのふきちゃんの仲間、「 ふきまんぶく 」。偶然、読売新聞を見ていると(H13・1・20) 城陽で蕗のとうが、庭前に出た写真が載っていた。その日は“大寒”。折しも京都は、雪が白く降り積もった。
 少し温かくなり、一つの蕗の中から、ふきちゃんの仲間がたくさん顔を出した。(最後のページ)そのふきちゃんの仲間を数えると十八人。おかっぱ頭は同じなのに、どのふきちゃんも、同じ顔はない。
 春本番になり、ふきちゃんの仲間は巣立っていった。次の春、たくさんの仲間を迎えるために。(小泉和子)

テキストファイル化山本実千代