灰谷健次郎――その「文学」と「優しさ」の陥穽

黒古一夫
2004年1月30日、河出書房新社

           
         
         
         
         
         
         
    

――何故いま灰谷健次郎なのか。
著者は言う、「それは現代文学(文化)が陥っている窮境を灰谷文学がストレートに反映していることから、社会の在り方と文学=表現との本質的な関係を問い直す格好の材料になっている」からと。
本書は、著者が灰谷健次郎作品に感じた、「「新鮮」というか、「異質」なものに出会った心の揺れ」を契機に、その「新鮮」さの要因を探究していく野心的な作家論である。序において、その要因は三点あげられている。第一に「作家(人間)の「理想」がそこには驚くほどの素朴さで書かれていること」、第二に「「協働=共同性」へのこれも楽天的とも思えるほどの信頼が作品の中に書かれていたこと」、第三に「語り口の平易さ、ストーリー展開の素朴さが…中略…素直に小説世界を堪能させたということ」だ。これらの論点は、『太陽の子』をはじめとする、灰谷作品のなかでも対象読者年齢層の高い十一作品を中心に検討される。大江健三郎が灰谷を評して用いた「あざとさ」というタームを手掛かりに、作品に内在する「認識の甘さ」を次々暴く仕掛けだ。
黒古は、灰谷作品に直截に描きこまれた「理想=メッセージ」を詳細にトレースする。『兎の眼』における小谷先生の夫に対する冷酷さや、『我利馬の船出』で主人公の少年が極貧の家族を置き去りにして一人ユートピアめざして船出する点などを挙げ、「作家・灰谷健次郎」の「人を傷つけない=優しさ」が、同じ価値観の下で生きる「いい人」たちにしか向けられないことを示す。そして、このような「優しさ」に内包される「エゴイズム=自己中心性」は、灰谷自身を髣髴させるアドバイザー的役割の登場人物を過剰に礼賛する点にもみられると指摘する。また、灰谷が沖縄を扱う作品群やエッセイなどに米軍基地問題を含まない点に言及し、「肝苦(ちむぐ)りさ」という「他人の苦しみを分かち合う」言葉に「癒し」を見出す特有の「沖縄観」ばかりを繰り返す浅薄さを糾弾する。これらは、いじめや離婚などの社会問題に対する記述とあわせて論じられる。
灰谷作品における社会現実との切り結びの甘さを、作家の「認識の甘さ」に置き換えて展開する作家論は、虚像としての「作家・灰谷健次郎」を突き抜けて、実像としての「灰谷健次郎」を照射する。「論理的にも矛盾に満ちた」灰谷の思想を追究することで、灰谷と著者との思想基盤や論理・態度の異質さが浮き彫りになる。しかし、異質な思想・認識に対するこのような「新鮮」さは、本書に接した読者にも同様に生じ得るものだ。切り結ぶはずの現実に対する認識は、灰谷・著者・読者それぞれの内にあって多相で、一面的には承認され得ないものかもしれない。
本書は、灰谷の家族・結婚・親子観などを抽出する。しかし、論述に用いられる「童話」「メルヘン」などの学術用語、「子どもが読むこと」に関する記述などを、読者がどう読むのか興味深い。『はるかニライ・カナイ』に関する議論で表出する、「ごく一般的な家庭生活を送ってきた」とする著者の家庭観については、「二度の離婚後一人暮らしを続けてきた」灰谷とも、また著者黒古とも異なるであろう生活をしている立場からは、発言するべきではないのだろう。ただ一点、評論に携わる者として、本書を読みながら「批判」と「批評」、「感情」と「理性」の陥穽について考えたことだけを記しておこうと思う。
「「灰谷賛歌」に終始していて…中略…誰も「苦言」や「批判」を口にしない」状況下で、「灰谷健次郎文学の「批判」に大半を割い」た本書は、物議を醸すかもしれない。著者はあとがきをこう閉じる。「灰谷の文学を本当に愛するのなら、「批判」にも耳を傾ける度量(客観性)を持ち、そして「批判」を越える批評を構築する必要があるのではないか」、「読者の「批判」を仰ぎたいと思う。活発な議論こそ、文学の活性化につながるのだから……」。(諸星典子 図書新聞 2677号/2004年5月8日掲載)