はみだしの席

岸武雄

PHP研究所

           
         
         
         
         
         
         
     
 おれ、大村松五郎。六年生だ。おれの席は、左は暗いかべ、右はからっぽ。教室のかたすみの、島流しにされているような、はみだしの席だ。おれがはみだしの席に野放しにされているのは、先生にとっては、いい意味でもわるい意味でも、問題にされていないからだと思う。
おれは、勉強は残念ながらパッとしない。べっに頭がわるいとまでは思っていないが、万事スローモーションで、こたえのでるのに時間がかかる。運動は勉強以上ににがて。作文に、「待ちに待った運動会の日が来た]とよく書いたが、あれはうそっぱちだ。のんきそうに見えるおれでも、人に追いぬかれるみじめなようすをだれがみんなの前に見せたいものか!勉強のことでもだが、おれは、今まで、このような「悲しいしばい」を、ずいぶんやってきた。
みんなといっしょに勉強しながらも、もうひとつの心でそれを見物している「おれ」。今まで悲しいしばいをずいぶんやってきた「おれ」。人にわかってもらえないさびしさを、なんでもないような顔をしてこらえている「おれ」。
このような「おれ」には、先生や友だちが、ときどきへんなものに見えてくるのです。どんなふうに、「へんなもの」に見えるのか、それは本文を読んでもらえばわかるので、ここでは紹介しませんが、「これという特微もなく、一見おとなしい子に見えますが、内心はものすごくいろんなことを考え、なやんでいる」 (あとがき)ひとりの子どもの心を、「おれ」という一人称の語リ手をとおして描いた作品です。

子どもの自殺や暴力行為、「非行」などが新聞でとリあげられるとき、関係者の談話として、「あの子は、成績も中位、これといって目立ったところはなく、どちらかといえば、おとなしい性格です。こんなことをするとは、まったく意外です」といった類のことがよくのっています。
わたしは、このような談話を読むたびに、心にひっかかるものを感じていました。まわりのおとなには「意外」であっても、当の子どもにとっては、必然性のある行為なのではないか。それが、なぜ、わたし達おとなには「意外」にうつるのか。わたし達が、その子どもの心の内をほとんど読めていないからではないか。否、読もうとしていなかったからではないのか。
その子が、日常、自分の関心の外に「はみだし」ていたとしたら、「意外」などと言わず、だまって自分を見つめるだけの節度はもちたいと思います。
「おれ、大村松五郎にちょっと似てるな」と思う人は、一度読んでみてください。 (新開惟展)
解放新聞1981/11/02