ひとりぼっちになりたいよ!

J・ファン・デ・ベタリンフ

森恵子訳 文研出版 1990

           
         
         
         
         
         
         
     
 タイトルだけを見ると、子どもの本にしてはずいぶん厭世的な本だな、まるで仕事に疲れ、職場や家庭での人間関係に嫌気がさした中年のオジンの独り言みたいだ、という気がしてくるが、作品全体は決してそうではない。正真正銘の子どもの本であり、ユーモラスで楽しい筋運びの中にも、友達のすばらしさを説いた友達讃歌である。しかも主人公の抱く願望は、たいていの大人なら一度や二度は抱いたことのある大人の憧れを映したものであるゆえに、大人の郷愁と共感をもさそう作品となっている。
ある野原にある松の木のてっぺんにヒュー・パイン(日本名で言うなら、松木ヒューとでも言うべきか)というヤマアラシが住んでいた。ヒューは、ひげをはやし、帽子をかぶってコートを着て、二本足で歩き、人間の言葉も少しは話せる賢いやつだ。しかしその賢さのために、ほかの動物たちから頼りにされ、次々と様々な問題を持ちかけられる。リスのなわばり争いの仲裁、巣穴を見失ったウサギの相談、網にひっかかったアザラシの救出などだ。面倒見がよく、もめごと解決の名人の異名をとるヒューは、その度に動物たちの問題を解決してやるのだが、内心はうんざりしていた。どこか静かな場所でひとりになりたいと望むヒューは、松の木から見下ろせる美しいソリー湾に浮かぶ小島へと思いをはせ、そこが自分にとって最高のとっておきの場所だと思う。進取の気性にとみ、泳ぎにも挑戦したヒューは、撞れの小島まで泳ぎ着くことを試みるが、波に押し戻されてうまくいかない。どうやったらあの島に行き着けるだろうかと思案する日が続く。そしてついにある日、親友である人間のマクトッシュさんのボートで憧れの小島に連れて行ってもらい 、そこに住むことにする。誰も住んでおらず、鳥さえも飛んでこないその島は、ヒューの期待どおり、とても静か、景色は美しく、空気は澄み、新鮮な野イチゴや木の実はたくさんあった。そこではやっかいな問題はいっさい持ち込まれず、ヒューは誰にも邪魔されずに長い眠りや気ままな生活を楽しむことができた。長い間ずっと憧れていた「ひとり」にやっとなれたのだ。ヒューは幸せだった。が、何の制約も話し相手もなく、全くのひとりで何日か過ごすうちに、ヒューは次第に淋しさを感じ始め、昔の仲間の夢を見、誰かが来てくれるのを心待ちにし始める。折りしも、ヒューのことを心配していたマクトッシュさんがボートでヒューの様子を見にくる。マクトッシュさんの姿を見たヒューは嬉しさのあまり、待ってましたとばかりボートにとびのって、昔のすみかに戻る。離れ小島で孤独のつらさと友達のありがたみを身にしみて感じたヒューは、その後、以前は煩わしく思っていたほかの動物たちに対して、謙虚に気持ちよく接することができるようになる。そしてどこでも、友達のいるところが、とっておきの揚所なのだ、と悟る。
この作品の動物世界は、人間社会の縮図である。人間は社会的な動物だというけれど、擬人化されたヒューの物語を通して、我々はそのことを再認識させられる。仕事や勉強や人生に疲れると、人は時として遠くへ行きたい、ひとりになりたい、と思う。そんな時は遠くへ行くのもいいだろう。ひとりになるのもいいだろう。だが、遠くへ行きひとりになって思うことは、人間はひとりでは生きられない、たとえ生きられたとしても、ひとりで生きたって楽しこない、ということだろう。そんな思いで自分の周囲をあらためて見回すと、今まで何とも思わなかった周囲の人の存在が急にありがたく感じられたり、新鮮に見えることもあるかもしれない。
最後に、田舎の自然、特にソリー湾とそこに浮かぶ小島がとて美しく描かれ、いかにもヒューの憧れの地としてふさわしく描かれていることを付け加えておきたい。(南部英子
図書新聞1991/01/19