見えなくなったクロ

大石真
鈴木義治絵/偕成社文庫/1977

           
         
         
         
         
         
         
         
     
 「風信器」に出てくる井川という少年はおもしろい。町の銀行から三百万円を強奪した犯人がつかまらないのは、自分たちの学校の天井裏に隠れているからだと想像する。理科室の上にあるしみもおしっこのあとだし、音楽室で歌を歌っていると、その強盗もこっそりあとをつけて歌っている。そして何よりの証拠は最近ときどき他の教室で弁当がなくなることで、それはおなかのすいた強盗が盗んで食っているのだ、というのである。学校にはそういう謎めいた部分がある。いかにも少年らしい空想は微笑さえ誘うが、彼の内面のドラマは、真犯人がつかまる時点で終ってしまう。「一生に一度だけお金持ちのしているようなことがしたかったのです」と優しそうに笑う若い犯人の述懐、そのことばが照らし出す江藤弘一家の悲劇も、井川少年には無縁なのである。
 主人公「ぼく」の性格は、その井川が秘密を打ちあける唯一の相手として、まず規定される。「ぼく」は井川の説をすじみちが通っていると感心し、教室にいるときはもちろん校舎から離れたときも、レントゲンで見るように犯人の黒い影を思い浮かべておびえる。そして、それを誰にも言えない閉鎖性も持っているのである。
 井川と「ぼく」と大差ないように見えながら、なぜ「ぼく」だけが、人生や社会のドキッとするような真実に触れえたのか。「雪にとぶこうもり」の松田や「夏の歌」の藤村邦子ほど意識的に描かれてはいないが、井川には、明らかに軽薄の色がある。大石真の諸編で、人生や社会の真実に直面し、それぞれに成長してゆく少年少女は快活だったり内気だったり、その性格はさまざまであるが、軽薄でないという要素は共通して持っている。
 「風信器」の場合、そういう「ぼく」の特質は、教科書代をとりに帰った際、町と学校を見おろす小山のはずれで、ただ一人弁当を食べている江藤弘を目撃しながら、すぐに声をかけなかったところ、弘を弁当どろぼうと直感しながら断定しなかったところ、初めて弘に声をかけるところなどに、実に見事に表現されている。
 弘は、井戸水をコップ二はい飲んだだけで校庭の隅のブランコに腰かけ、いつも悲しそうな顔をして、学校の屋根をながめている。同じ状態が二日つづいての三日め、「ぼく」は弘のところに行き、弘と自分の「二つの影がぴったりとくっついた」とき、弘の視線の先に風信器があることに気づく。「ぼく」はそのとき、「南西の風、風速五メートル。」ととつぜんいって、弘の内側の世界にとびこむのである。
 そののち明らかになる銀行強盗とおじいさんのつながり、律儀なおじいさんの性格、それがきっかけで北海道へ行かざるをえない弘の悲しみなどは、重要ではあるが、おまけといってもいい。大石文学最大の魅力は、主人公が自分を動かす相手に近づいてゆく、その接近のプロセスにこそあるのである。町を見おろして弁当を食べる弘、ブランコに腰かけて風信器を見あげる弘、「ぼく」は常にその背後にあり読者は異なる二つの内面と時間の流れを動じに重層的に示される。主人公が想像の助けを借りながら距離を隔てた観察をつづけ、一気に行動へと走る、そのポイントポイントには、鋭いことばやさりげなく深いことば、そして、人間以外のモノが用意さえる。「クジャクのいる町」に出てくる屋敷町の少年のことば「こいつらばかなんだ。ぼくが、空気銃でノラ犬をうったもんだから、おおぜいでかたきうちにやってきたんだ。だけど、ぼくが、うまいこといってごまかしたら、すっかり、だまされちゃってね……」の衝撃力はほとんどずるく卑怯な人間すべてへの憎しみを喚起させずにはおかない。(ケイちゃんの大切な犬をノラ犬とよばせている作者の言語感覚の鋭さに注意。)「夏の歌」では、 知恵遅れの松太郎一人が白ユリの背後に隠された山ユリを見つけ、「こえ、いっぱいさいている…」といって、マキに生きるよろこびを回復させる。「雪にとぶこうもり」で「ぼく」が宮内英治の生活を知り、最後そっとマントをかけてやるプロセスなど、なんと「風信器」のそれと似ていることだろう。
 こうして簡潔にかつ十分に描かれたプロセスは、一つの事象に対する認識の巨大な落差を示すことによって、読者に深い文学的感銘を与えるのである。
 「ある夜、ぼくが勉強してたとき/なんで、こんなくろうするだが、/といって、かあさんが泣いた。/おじいさんは、だまっていた。/タツオは寝ていた。/アキはかあさんの乳のんでた。/ほんとに、なんでこんなくろうするんだか。/ちっともわるいことせんのに。」
 弘の転校後、「帰りをまたされて、わいわいさわいでいる教室の中」で渡された学級新聞<ヒマワリ>十一月号に載っていた彼の詩も他の級友にとっては、他愛ない笑い話やなぞなぞと同じ単なる一片の記事に過ぎない。
 「ぼくは、ふと目をあげて、屋根を見た。風信器は、北東をさしている。風速五メートルぐらい。つめたい風だ。弘はいま、なにをしているだろう。もう、北海道では雪がふっているだろう。と思った。」
 屋根の上の風信器は、今までもまわっていた。風の流れに従い、これからも一個の機器として東西南北を示すだろう。しかし、他の級友にとっては何でもないそれが、「ぼく」にとてはもはや単なる物質ではない。それは、悲しみや励ましなど内面に熱い何物かをよびおこす形而上的存在なのである。

 短編小説は、人生や社会の一断面を描いてその真実に迫ろうとする。とりあげる人物は特殊な者より平凡な者の方がよい。それは、平凡だからよいのではなく、どんなに平凡に見えても、その中にさまざまな要素が隠れており、さまざまに変化する可能性が潜んでいるものを洞察、発掘し、それぞれにふさわしい時と所に配置、構築する。もちろん、形象化されたイメージは明確であると同時に余韻に富んでいなければならず、示唆象徴を重んじようとすれば、社会批判のエスプリやユーモア、詩的発想、詩的表現力も必要となってくる。大石真は、こうした意味から、坪田穣二、新見南吉、坪井栄などとならぶ短編小説の名手といってよいのである。(皿海達哉
日本児童文学100選(偕成社)

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