ムーミン谷の彗星


ト一べ・ヤンソン作・絵

下村隆ー訳 講談社 1946/1969

           
         
         
         
         
         
         
     
 この作品では、ムーミン谷に燐の匂いがたちこめ、黒い雨が降リ、彗星が地球に衝突して地球が滅びるという状況設定になっている。ムーミン童話には、このように、ムーミンたちの生命や彼らが生きていく社会(世界)の安全を脅かすおそれのある状況が、しばしば出現する。洪水、火山爆発、地割れ、竜巻、いなごの大群、大嵐、冬将軍、なんでも凍らせてしまうモラン、捻リ、動きだす島、海へ逃げる浜の砂、根を抜いて逃げる木々、氷姫、魔物などの登場人物や自然現象である。また、この作品では、地球が壊れると聞かされ、
ムーミントロールとスニフは、自分がどうしていいか分からなくなって一日中べランダの階段に座リ続けている。このように自分を見失い、あるいは存在感を失い、ないしはアィデンティティの危機に見舞われる人物が、ムーミン童話のほとんどの作品に出てくる。ムーミンパパ、ムーミンママ、フィリフヨンカ、モラン、漁師、スナフキン、へムレン、はい虫、ニンニ、サロメちゃん、魔ものなどである。

 独特な個性

 ムーミン童話では、こうした心と命と世界の危機は登場人物がそれぞれ独特な個性を生きることによって、辛くも克服されていく。不安で動けなくなっていたムーミントロ-ルも、大好きなママから「星の様子を調べてきてくれると安心できる」といわれると、どこにあるかもわからない天文台を目指し、スニフと共に出発する。彗星が刻々と接近する中、往路四日の旅である。ママは、息子が大の冒険好きであることを承知の上で言ったのだ。ひたすら息子を元気づけるためであリ、彗星衝突を克服する意志も目的もここにはない。冒険につぐ冒険の旅で、ムーミントロールは、旅を愛するスナフキンと初めて出会い、三人は冒険を楽しむ。彼らは、天文台で地球への衝突は四日後であると知る。帰路、彗星接近で大気が熱くなるが、冒険仲間がさらに三人増え、冒険も遊びもさらにエスカレートする。干上がった海底を竹馬で歩き、ダンス場があれば華美好みのスノ-クのおじょうさんの希望でダンスに興じ、切手収集家へムレンさんの頭は切手のことで一杯だ。彗星嵐がくれば、へムレンさんの服に風を受け、軽気球のようにして、六人は無事にムーミン谷へ着陸する。こうして四日目の彗星衝突の直前に 、全員洞窟に避難し大禍を逃れる。もはや彗星の危険性は、大冒険談を際立たせる役割にしかすぎない。つまリ、異常であるはずの事態は異常でなくなリ、不安は愉快な冒険談に異化されている。「異化」は、トーべ・ヤンソンの身にしみついているようである。一九九二年九月に会った時、トーべは「子どもの頃から、わが家では深刻な事態に直面しても、生真面目に反応することは馬鹿馬鹿しいこととされ、笑いに変えてしまう習慣があった」と語った。その時、私は、トーべが描いた一枚の風刺画を思い出していた。国名の書かれたケーキを食べちらかし、「もっと、ケーキを川!!」と叫ぶ赤子のヒットラーを描いた(一九三八年)作品で、当時評判になった。トーべは作家になる前に、雑誌「ガルム」で世間を賑わせた風刺画家として、つとに知られていた。十五歳でデビューし、「ガルム」終刊までに五百点以上の作品を発表している。風刺は、異化の始まりであろう。

 個性のシャワー

 「ムーミン谷の仲間たち」所収の短編「目に見えない子」では、皮肉を言われ続けて口がきけなくなり、姿が消えてしまった少女ニンニが、ムーミン屋敷に預けられる。世話好きなママは世話をやき、辛辣な批評家ミイは言いにくいこともずばリ指摘し、友だち好きのムーミントロールはミイの毒舌の盾になる。観察者パパは、状況を把握しニンニと距離を置く。自分らしく生きる一家と日常生活を共にするうちに、ニンニの姿の一部が、現れたリ消えたリしだす。あるとき、ニンニは、ママを海へ突き落とそうとしていると勘違いしてパパの尻尾に噛みつき、パパを叱ったとたん、ついに全身を現す。ニンニは、ニンニを救済しようという意志によって救済されたのではなく、全員が交流し独特な個性のシャワーを浴びせあった結果として、自己解放を遂げている。 

 文明への視点

 次々に描かれる心と生命と世界の危機は、まるで、人間世界を思わせる。日本の新聞に、いじめや不登校を考える集いを呼びかける記事が載らない日は、ほとんどない。差別も後を絶たない。また、一九九一年十一月には米科学者の一団が「ジオカタストロフ」(地球の破滅)と題するシナリオを発表した。人類の文明は二○九○年で破滅するという。
 トーべはムーミン童話(別巻一作を除く全八巻)に心と命と世界の危機の物語を二十五回以上も織リ込んでいる。そこには、大好きなことをしながら独自の個性を発揮し、他者と交流することによって解放に至る世界が描かれている。まさに生命の万華鏡だ。それがトーべの眼指しの彼方にあるものであろう。一九七○年五月、初対面のトーべに現代文明を尋ねたところ、「ムーミン童話を通して考えています。」という返事が即座に返ってきた。
 なお、トーべの人間解放への思いの深さを窺える作品に『少女ソフィァの夏』(講談社)がある。(高橋静男)
「児童文学の魅力・いま読む100冊・海外編」日本児童文学者協会編 ぶんけい 1995.05.10
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