ムーン・ストーリー

ニコレ・マイスター

           
         
         
         
         
         
         
     
 八十年代後半から、九十年代前半、つまりごく最近のドイツの児童文学、ヤングアダルト系の作品をつづけてリーディングする機会があった。今、現在、どのような作品が書かれているかの一傾向をながめるために、いまだ全作品が翻訳されてはいないけれど、本誌「ぱろる」ならではの書評欄として紹介してみたい。
 まず、一九九一年に「月間フクロウ賞」を受賞しているニコレ・マイスターの 『ムーンのストーリー』。十六歳の少年の感性や心理を家族との葛藤を通して描いているリアリズム作品である。
 ムーンは十六歳。パパは学校の教師だった。パパは、ムーンがギムナジウム(日本の高校にあたる)に進学することをのぞんでいる。ムーンにとっては、そんなことどうでもよかった。ムーンの成績ときたら、超低空飛行。ときどきパパに教えてもらうのだけれど、パパはできないと怒鳴りつけたりする。ムーンはパパが理解できない。ときどきビンタもされる。そのうえ、誕生パーティーもダメ、テレビを見てもダメ、夜は外出まかりならぬ。なんだって、そうあれもこれも禁止したがるの? ママは、なんでもパパのいいなりだ。ぜったいパパと対立したくないらしい。だから、ママに期待してもダメ。
 ある日、ムーンのクラスに転校生が来る。キティ・ワイルダー、アメリカからやってきた黒人の女の子。彼女の母親はドイツ人とのハーフ (この語はつかえなくなっているのでしょうか)だった。キティには、もうひとり兄さんのタビィがいる。キティたちは三人は、ママが離婚してドイツにもどってきたというわけだった。タビィも、父親のことを理解できずにいたが、ムーンにはそれがよくわかる。
 ムーンとキティは、しだいにひかれあうようになるが、両親の質問ぜめがまっていた。キティって子はいったいだれ? ガールフレンドなの? 黒人? みかけはどんなの? ムーンは自室に逃げ込んだ。
 学校でもキティとつきあっていることで、ムーンを子ども扱いにし、黒人であるキティを侮辱するようなことを言われた。自分よりでかい相手にむかって、ムーンは突進した。キティはそれを遠くで見て、立ち去ってしまう。ムーンは、はやくも人生の苦さを味わうことになる。キティがムーンを訪ねてきて、「わたしのこと好き?」と、たずねるキティに、ムーンは最初は「ナイン」といって失望させてしまう。「でも、ほんとはそうじゃない!」と、ムーンはあわてて言いなおす。複雑な思春期の心情がそこにある。キティはいう。いままで、白人の男の子を好きになれるとは思わなかったから。二人はキスをする。ムーンにとってははじめての体験だ。天にものぼる気持ち。
 しかし、やがてムーンの混乱が爆発する。パパといいあらそいになり、家を飛び出し夜の町をうろうろさまよううち、真夜中の駅ちかくで、偶然に通りかかったタビィに助けられる。心配して自分の家にムーンを連れていって泊めることになった。こっそりキティとおなじべッドにはいって、子どものように抱き合って眠った。翌朝が恐ろしかった。どういう顔で家に帰ろう。
 しかし、家で心配して待っていたパパは、ひどく叱るどころか、泣きじゃくるムーンをだきしめるだけだった。パパもすごく心配してくれていたのだ。
 ムーンの物語は、このあと、いくどかの挫折と危機をのりこえながら、ムーンがようやく、自分の進路を冷静にみつめられるようになるまで、いくつかのエピソードをとおして進んでいく。ガールフレンドのキティとは、彼女がアメリカに帰らなくてはならなくなり、別れることになる。そのことがムーンにひどいダメージを与えることになるのだが、その頃になって、ようやくムーンもパパのことが理解できるようになる。パパもムーンの自主性を認め、彼の自由を尊重するというようになった。彼はひとつの時期を乗り切ったのだ。だが、それは、ばくぜんとした将来へのひとつの入口に立ったことでもある。ムーンの少年期の物語が、ここでひとまずその章を終えたということにすぎないのだ。
 人生の入口にたった青少年の、どこにでもあるストーリーであるが、少年ムーンが出会う現実を、両親の離婚問題、人種問題、親との葛藤を決して安易なハッピーエンドに終わらせず、いかにもクールに、いわばすこし醒めた視線で描いてある。ほろ苦い現実が等身大に描かれているわけである。
 それにしても、この作品にかぎらず、ドイツの現代児童文学のほとんどに「はじめに離婚ありき」みたいな親たちの葛藤が、子どもたちに心理的影を落としている作品のなんと多いことか。もう、そのほかに環境の設定はないのかね、といいたいくらいであるが、七○年代以後のひとつの傾向であり、現実の反映であることはまちがいない。
 現在、筆者が翻訳にとりくんでいるインゲボルク・バイヤ-の 『いつかこの闇をぬけて』にしても、両親の別居、父親の愛人との葛藤から始まっている。この作品も、オーストリア児童文学賞を受けた作品で、十五歳の少女が、ドラッグにからんで犯罪をおこし、刑務所に拘留され、また出獄したのちに、しだいに社会復帰していくきっかけをつかんでいくという物語だ。しかも、服役中に自分の履歴を回想する描写が執拗に統けられ、いつになったら獄をでるのか不安になってくるほどだった。その不安を決して裏切らない構成の作品であったが、これは近くほるぷ出版からリリースされるので、読者の眼にもふれることだろうから、詳しいストーリーは控えたい。
 ドイツの、とくにヤング・アダルト系の作品には、以上の二作品のように、青少年をかこむ現実を、手加減せず執拗に書き込んでいくものが多い。たとえば政治的なものであれ、犯罪であれ、そこまで書く? というほどに愚直なリアリズムに徹している。読んで決して爽やかだったり、カタルシスがあったりするわけではない。読んだあとで、自問したり、考え込んだり、議論したりするきっかけを求めてくるような作品というわけである。翻訳をする立場として、物語の完成度とか、構成のうえで、多少の難があって、これで賞をとれたの? と思うものもあるけれど。 (天沼春樹
ぱろる7 1997/08/30